展覧会遠征 有馬編

 

 週末である・・・と言ってもつい先週東京方面に大遠征してきたばかりである。身体には疲れも残っているし、何と言っても財布が大ダメージを負っている。こんな時は身体にも財布にも優しい近場に限る。

 

 実を言うと、現在兵庫県立美術館で開催中の伊藤清永展についてはいつか行くつもりだったのだが、何だかんだで延びているうちに会期末が近づいてきてしまった。これはやはり今週辺りに行っておくべき。ただ神戸まで出てこれだけというのも・・・と考えた時に頭に浮かんだのは有馬温泉である。神戸生まれの私だが、実は今まで有馬温泉は小学生時代に一回行ったきりである。これは神戸電鉄(略称は神鉄)の視察も兼ねてちょうど良いかと考えた。

 

 有馬に行くなら当然日帰りである。そもそも有馬はホテルの相場が異常に高いから、一泊などしようものなら私の財布に回復不能のダメージを与えてしまうし、そもそも距離的に考えて有馬で一泊する必要などない。そこで日帰り入浴施設について調べたところ「太閤の湯」なる施設がある模様。ただその入場料2400円というのを見て絶句。これはボッタクリもひどすぎるというものである。

 

 ただその後の調査によって諸々の裏技があることが判明した。その一つが太閤の湯クーポンなるもの。どうやら付近の私鉄が乗車券と入場券を併せての格安チケットを販売しているらしい。これなら交通費込みでかなりリーズナブルな価格になる。そう言うわけでいざ有馬に出発ということに相成った。

 

 例によって梅田行き直通特急で新開地まで、ここから神鉄に乗り換えである。神戸市民だった私だが、神鉄に乗車したことは今まで片手で足りるほどの回数しかない。そもそも長田に住んでいた私は六甲山の北側は神戸市という意識がなく、またそのようなところに行く必要性を感じたことがなかったのである。阪急や阪神が普通の鉄道だと思っていた当時の私は、狭軌で4両編成の神鉄の車両はいかにもローカル列車に見えて乗車する気が起こらなかったのである。しかしその後、各地を回って視野の広がった私には神鉄の車両は立派な都会型私鉄の車両と映るようになっていた。それに1時間に4本以上運行しているとはかなりの過密ダイヤである。全く経験は人間を変えるものである。なるほど、インターネットに多いお部屋から出たことのない類の輩が言うことが、常に世間の現実から大きく乖離してしまうのも致し方ないことである。私自身、過去の世間知らずの自分を思い出すと赤面しそうになる。

 新開地から神鉄に乗車

 新開地を出た列車はすぐに湊川に到着する。本当は神鉄はここからで、新開地−湊川間は厳密に言えば神戸高速鉄道の路線になる。神戸高速鉄道は阪急、阪神、山陽、神鉄の4つの私鉄を地下からつないで通行料だけで成立している会社であるが、そもそもその前身は神戸市電である。高速鉄道と名が付くが、その意味はあくまで「路面電車と比べると高速」という意味であり、実際は路線の速度限界が阪急などの本線よりもかなり低いため「神戸低速鉄道」と揶揄されることもある。またこの会社が関与することで通行料が上乗せされて料金が高騰することから、全線がトンネルであることも相まって「トンネル会社」と陰口を叩かれるなど、実のところあまり評判はよろしくない。

左 丸山オールドタウンに  中央 鵯越を越えて  右 鈴蘭台に到着

 湊川を過ぎると次は長田。高速長田、新長田に続くいわゆる3つ目の長田駅である。ただし長田区民だった私にはここが長田という認識はなく、むしろ感覚としては丸山口。次の駅が丸山だが、ここはいわゆる「古い新興住宅地」。今となってはかなり町全体が老朽化している。次の鵯越は私には霊園のイメージしかない。ここを越えるとしばし山の中。途中でかつての菊水山駅の遺跡が。そこを抜けてさらに走ると急に住宅街が広がって鈴蘭台である。

 かなりの危機感

 鈴蘭台で三田行きの普通に乗り換え。車内には「粟生線存続云々」のポスターが吊ってある。どうも乗客減によって存廃問題が浮上しているらしい。ここにもモータリゼーションが影を落としているようだ。しかし神鉄で路線廃止があるぐらいなら、地方のローカル線は全滅である。そうなると交通弱者の高齢者だけが取り残されることになる。最近は大阪市長の橋下に代表されるように、弱者や高齢者を切り捨ての対象としか見てない輩が増えてきていて社会が不穏になっている。またそれに同調する輩も若い層を中心に増えている。そもそも若者はいずれは自分も年寄りになるということが頭にないものであり、それを一部の狡猾な政治屋が利用しているようである。

 有馬口で乗り換え

 北鈴蘭台で大量の降車があり、一気に車内の人数が減少する。次に多くの乗車があるのは北神急行との接続駅である谷上。いかにも旅行者風の乗客が多く、彼らの行き先が何となく想像できる。ここからさらに郊外を走行すると有馬口に到着。ここから有馬温泉までは有馬線に乗り換えである。やはり予想通り先ほどの旅行者達は私と共にこっちに乗り換え。乗り換え先の列車は4両編成の長大なものだが、後ろの2両にはほとんど乗客はない。

 有馬温泉駅に到着

 有馬口から有馬温泉駅までは一駅である。有馬温泉駅ではもう一編成の車両が停車しており、どうやらこの二編成が交互に運用されているようだ。駅の改札を出ると目の前に太閤の湯行きの送迎バスが待っているのでそれに乗車する。バスはかなり大回りをして目的地に到着する。

 太閤の湯

 太閤の湯は典型的なスーパー銭湯のような施設。受付でバーコード付のロッカーキーと館内着・タオルを受け取ると、更衣室のロッカーに全部荷物は入れて着替え、館内の支払いはすべてバーコードでチェックするというシステム。浴槽は内風呂と露天風呂に蒸し風呂があり、蒸し風呂はかつては回数制限なしだったとのことだが、最近は混雑するために30分の時間制限制になったとか。混雑時には4時間待ちなんてこともあるとのこと。

 

 まずは内風呂に。有馬温泉定番の金泉と銀泉の浴槽がある。金泉はいわゆる鉄分を含んだナトリウム塩化物泉で、赤っぽい色をした有馬のトレードマークのような湯。一方の銀泉は無色の放射能泉。この施設では金泉の方は湧出量の関係か肌当たりが強すぎるからかは知らないが、銀泉とブレンドして使用しているようである。露天風呂の方も同様の浴槽と銀泉に人工的に炭酸ガスを溶かし込んだ炭酸泉の浴槽、さらに足湯と岩盤浴などもある。

 

 湯の方はさすがに有馬温泉を名乗るだけあって、この手の施設にしては悪くない。スーパー銭湯では大抵は強烈な塩素臭というのが定番であるが、ここに関してはそういうものはない。ガツンと来るほど強烈な温泉風味を求める者にはやや物足りない感があるかもしれないが、一般客にはこの程度がバランスが良いだろう。

 

 大浴場で入浴した後は、無料の蒸し風呂の方も入場する。私が訪問した時は土曜の昼頃だったが待ち時間はなしだった。中には金泉・銀泉の蒸し風呂や岩盤浴などがある。蒸し風呂の方は湿気ムンムンで私には少々きつかったので岩盤浴の方でマッタリ。

 

 入浴後はセルフ形式のレストランの方でソフトクリームを頂く。ここで食事も可能であるが、ザッと見たところ明らかに観光地価格であるのでパスする。

 

 タップリと温泉を堪能して太閤の湯を後にする。入館料2400円となると微妙であるが、交通費込みのクーポンを利用するならまあ妥当なところ。ただこのクーポンの発売は一応今年の春までになっているので、それが終わると再び来るかどうかは微妙。いずれ入館料の見直しは必至のように思われる。

温泉街をプラプラと散策

 駅までの送迎バスの時間はまだ先なので、温泉街見学を兼ねて駅までプラプラ歩く。帰り道は下りであるのでさしてしんどくもなく、10分もかからずに駅に到着する。こうして見てみると有馬は道後温泉などと共に三大古湯に上げられるだけあって、さすがに温泉街にも風情はある。もっともこういう古湯はそのせいでホテルの相場が高すぎるという問題はあるが。

有馬温泉駅から神鉄で戻る

谷上駅で向かいのホームの北神急行列車に乗り換え、列車は駅を出るとすぐに地下に潜る

 駅前の売店でおみやげの炭酸煎餅を購入すると、再び神鉄で戻ることにする。しかしついでだから谷上で北神急行に乗り換える。北神急行は神戸地下鉄とつながっているので、実質的には運行は地下鉄の路線として行われている。神鉄と分かれてすぐにトンネルに入ると後は延々とトンネルの中。やっぱりこの手の路線は乗車していても面白いものではない。10分弱ぐらいで新神戸駅に到着すると次が三宮である。こうして乗車すると神戸の中心部の三宮からのアクセスは鈴蘭台経由よりも圧倒的に早く、神鉄が谷上以西で閑散としてしまうのも仕方ない。

 地下鉄三宮駅にすぐに到着

 昼食は三宮で摂ることにする。向かったのは阪神三宮の横にある「酒房灘」。その名の通り本来は飲み屋なのであるが、定食の類もあって私も学生時代にはよく昼食を摂った店である。注文したのは「牡蠣フライ定食(890円)」

  

 私にとっては懐かしいという感じのメニュー。都会で食べる牡蠣フライにしては悪くないし、味噌汁などの味も私の好みである。CPに関しては三宮という場所を考えると悪くはないであろう。

 

 昼食を終えたところでいよいよ本遠征の主目的地へ向かう。阪神三宮から岩屋まで移動、今回は徒歩で美術館を目指す。しかしこの道程、決して長くはないにもかかわらずなぜか私には精神的に疲労をもたらす。だからこそこの美術館は今まで大抵は車で行っている。やはり私には新興埋め立て地の風景は天敵なんだろうか。

屋上の蛙のオブジェが、タチの悪いモノノケが取り憑いたようにしか見えない


「生誕100年 伊藤清永展」兵庫県立美術館で1/22まで

 

 兵庫県出石町(現在は豊岡市)の出身の洋画家・伊藤清永の生涯に渡る作品を回顧した展覧会。

 伊藤清永については以前に出石町の伊藤清永美術館を訪問したことがあり、その際に「ルノワールに似た画風」という印象を受けていた。しかし本展では彼の初期の作品から展示されているので、決して彼がルノワールと同様の経路であの画風に至ったことではないことがよく分かる。

 初期の画風に関してはかなりガッチリとした印象のタッチで、多かれ少なかれ当時の日本洋画界の主流に属する描き方に思われる。また色彩に関してもやや暗めである。しかし戦後になって彼の画風が変化する。それまでの戦時体制下から解放され、絵画界にも新風が沸き起こりつつあった頃、彼自身も「再び画学生に戻ったつもりで」新たに絵画に挑むとして、西洋画の基本であるところの裸体画に挑戦したのだという。そしてその後に彼にとって念願だった渡欧を実現、劇的に画風が変化するのはこの頃である。色彩表現が非常に豊かになり、全体的に明るいタッチの絵画にと変化する。この晩期の絵画が、題材が女性の裸体であること、色彩が煌びやかでタッチが柔らかいことなどから、一見してルノワールに似た印象を受ける絵画になる。もっとも彼のこの画風自体は、彼自身によるかなり苦しい試行錯誤の結果によるもので、ルノワールの絵画の真似ではないことは、彼の絵画が細い線を重ねる技法で描かれているという技法的な違いでも明らかである。

 本展での圧巻は、彼の手による壁画の展示。釈迦の誕生から入滅までを題材にした絵画で、東洋的な主題を西洋的な技法によって巧みに表現している。一時は日本と西洋の光線や肌色の違いに戸惑い、日本人を描くためには日本画に転向しようかとまで悩んだという彼の研究の結実がここに見られる。


 なかなかに収穫の多かった展覧会である。おかげで伊藤清永という画家がかなり分かったような気がした。

 

 これで本遠征のすべての予定は終了である。後は阪神と山陽を乗り継いで帰途についたのであった。

 

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