展覧会遠征 岡山編8

 

 さて先の北東北遠征で体力的にも財力的にも疲労しきってしまったためにしばらく休暇中だった私だが、やはりそろそろ軽い外出をしたくなってきた。そこで今回は以前から計画にはありつつも延び延びになってとうとう会期末が迫ってきた成羽美術館の「ローランサンとその時代展」を中心に、岡山方面の遠征を実行することにした。場所が公共交通機関ほぼ皆無の成羽だけに、移動には車を使用することに。となると必然的に岡山ダンジョンを避けて地方中心の行程をとることにする。これで大体のイメージは決定である。

 

 当日はやはり疲労が溜まっているのか朝にスッパリ起きることが出来ず、予定よりもやや遅れた出発となる。高速を突っ走るとそこから山道を抜けて成羽に向かう。対面二車線の道を塞いで悠々と制限速度以下で徐行運転をする渋滞同好会のサークル活動に何度か妨害されたが、何とか目的地に到着する。ただなぜか駐車場がいっぱい。この一角はかつては成羽町役場があったのでそこの駐車場にも駐車できたのだが、平成の大合併で成羽町が高梁市と統合されたことでかつての役場跡が今ではセブン−イレブンに成ってしまったようで、駐車場が狭くなっている。しかも今時目眩がするぐらいの激ダサシャコタン車が車止めを避けて通路の中央に駐車しているので、邪魔で仕方ない。それにしてもこんな大馬鹿車に乗る奴が美術館に来るとは思えないのだが?

 美術館の周辺は完全に凍っていた


「マリー・ローランサンとその時代〜巴里に魅せられた画家たち」高梁市成羽美術館で12/25まで

 

 小美術館が集まっての連合企画ということらしく、ニューオータニ美術館、パナソニック汐留ミュージアム、目黒区美術館、神戸市立小磯記念美術館などの所蔵品が展示されている。表題のローランサン作品はローランサン美術館から、さらにニューオータニからはキスリングにヴラマンク、汐留ミュージアムからはルオー、当然のように成羽美術館からは児島虎次郎といった具合に、各美術館の個性あるコレクションが展示されている。

 ローランサン作品に関しては、個人的には以前に見たことのある作品が多かったので目新しさはなかったが、それ以外の作品に意外と面白いものがあり、トータルとしてはなかなかに見応えのある企画であった。

 


 美術館の見学を終えると狭い駐車場からエッチラオッチラと車を出して次の目的地へと向かう。当初の計画ではこの後は山城に直行するつもりだったのだが、どうやら高梁市歴史美術館で催しがあるらしいので、そこに立ち寄っておくことにする。

 

 歴史美術館は高梁市街の東部の文化ホールなどが並ぶ一角にあり、文化交流館なる建物の2階に入居している。この日はホールなどで催しがあったらしく、周囲は車が一杯で臨時の駐車場に案内される。

 


「アートの今・岡山2011 リズムのかたち」高梁市歴史美術館で12/25まで

  

 岡山ゆかりの現代美術作家による展覧会とのこと。作品は絵画から立体作品まで様々だが、現代美術にありがちの極端に尖った作品はなく、いずれの作品も単純に楽しめるようなものが多かった。現代美術の入門編としてはなかなかに最適な展覧会ではなかろうか。入場料も無料と太っ腹であるし。

 


 なおこの施設は歴史美術館の名の通り、歴史に関する展示も行っており、備中松山城やそれにゆかりのある村上氏に関する資料が展示されており、これもなかなか面白かった。この辺りの資料を見ていると、備中松山城もいずれ再訪する必要があるように感じられた。

 

 ここまでで予定以上に時間を費やしてしまった。これから昼食を摂って山城に登るのは、現在の日没時刻の早さを考えるとあまり得策とは思えない。そこで急遽予定を変更することにする。既にこういう事態も想定しての予備目的地は調査済みである。ここからしばし東に走ったところにある足守に立ち寄ることにする。足守はかつての足守藩の陣屋跡を初めとして、武家屋敷などの建物が残っていたはずである。

 

 足守藩は北の政所の兄・木下家定が足守に陣屋を構えて2万5千石で立藩。家定の死後に相続争いを起こして幕府に領地を召し上げられたものの、大阪の陣後に家定の息子の木下利房が功績を認められて復帰、その後明治まで木下氏が治めている。

 

 足守までは30分弱で到着する。観光センターの駐車場に車を入れるとそこから徒歩で町の散策に向かう。足守は陣屋跡を中心としたかつての武家屋敷の地域と、それからやや離れた商家の地域がある。まずは商家の地域の方を見学する。

 町並み保存がされているようで、車の通行が多いのが難であるが、なかなかに趣のある街路となっている。古い家の間に混じっている新しく建てた家も一応周囲との調和を考えてあるようで、そうひどく浮いている建物はない。しばしこの通をプラプラと散策。途中の藤田千年治邸を見学する。ここはかつて醤油醸造を営んでいた大商人の屋敷らしく、なかには麹を育てるための部屋や公開されており、絞り器などが展示されている。大きな桶などもあり、やはり醸造業は酒造業と設備的に非常に類似していることを感じる。

左 藤田千年治邸  中央 趣のある玄関  右 絞り器が展示されている

左 中庭の向こうに麹室などがある  中央 麹室内部  右 この大釜で豆などを煮たらしい

 この町並みのはずれに洪庵茶屋という飲食店があるのでそこで昼食。注文したのは「洪庵うどんセット(880円)」。可もなく不可もなくという内容。望むらくはもう少し個性が欲しいところではある。なおこの一帯は市民センターという印象で、地域の展示会なども開催されるスペースの模様。ただ観光地としてはまだ今一歩垢抜けしていないように感じられるので、観光客を本格的に呼び込むにはまだまだ工夫の余地はありそうである。

  

 商家地域の方の見学を終えると、足守陣屋の方を目指す。その途中には武家屋敷が残っており公開されている。

 「足守陣屋」は山の麓の堀に囲まれた一角にある。現在は建物の類は残っておらず、内部は公園となっている。それなりの広さはあるが、やはり城郭と違ってあくまで平時の政庁という作りになっている。堀はあるものの軍勢を防ぐためという規模ではなくてせいぜい泥棒を防ぐためというレベルで、戦闘を行う備えは全くないと言って良いだろう。これが戦国期の屋敷なら、間違いなく背後の山上に詰めの城を配するところである(実際にこの山には中世には宮地山城という山城があったらしい)。やはり天下がほぼ定まった時期に建てられた施設ということだろうか。

    堀はそう幅は広くない

 この敷地内に明治期の歌人・木下利玄の生家が立っている。彼はこの地を治めた木下氏の末裔であり、緒方洪庵と並んで足守を代表する偉人である。

 木下利玄の生家

 陣屋跡の隣には近水園があるが、これはかつての大名庭園の名残らしい。陣屋の規模に比すると庭園の規模がやや大きすぎるような気もしないでもない。2万5千石の小藩というものの、木下氏は北の政所の兄ということで家格が高かったということだろうか。それともかなりの数寄者だったのか。

  

 近水園の見学を終えると辺りを散策しつつ駐車場に戻る。古い家もまだ残っているようだが、維持しきれないのかかなり荒れている家もあるのが気になる。町並み保存が難しいのは、その町並みをなす住宅があくまで個人の資産であるということである。行政から補助を出すとしても、基本的には維持管理は住人の手によるものになり、それには必然的に相応の経済的負担が生じるということである。その結果、住民が負担に耐えかねて不満が生じることがあり、それによって町並み保存が失敗する例は多い。町並み保存が軌道に乗って住民が観光などによって潤えば、町並みの保存がそのまま経済メリットと結びつくのでうまくいくようになるが、そこにたどり着くまでが大変である。またすべての住民が必ずしも観光業に携わるわけではないという問題もある(ただの会社員家庭などは、地域に観光客が増えたところで何のメリットもなく、むしろ車が増えたりして邪魔なぐらい)。

 

 駐車場にたどり着くと次の目的地を目指すことにする。先にも述べたように、予定よりも時間が遅れていることから、山城探索中に日が暮れる危険を避けるために山城訪問は中止にしている。となれば代わりに近くの温泉を訪問するという辺りが妥当な計画。この近くには粟井温泉とかしお温泉という2つの温泉があるらしいので、そこに向かって車を走らせる。

 

 目的地は山間ののどかなところにあった。現地にたどり着くと粟井温泉とかしお温泉は隣に建っており、道理で説明に載っていた泉質が全く同じであったわけである。この二軒の内でとりあえず粟井温泉あしもり荘の方に入浴することにする。

 ここは旅館のようだが日帰り入浴も受け付けているようである。風呂は内風呂が一つあるだけのシンプルなもの。宿の説明によると泉質はアルカリラジウム泉。法律の関係で浴槽には塩素を加えているが、カランの方には源泉をそのまま流しているらしい。

 カランの湯を出してみると、これがかすかに硫黄の匂いがして肌にスベスベくる凄まじいもの。なかなかの湯である。浴槽の方は湯が常に流れているが、説明の通りに塩素の臭いが若干する。ただどうしても両方の湯を比較すると、塩素を加えただけで硫黄の匂いが完全に死んでしまい、さらには湯の肌あたりまで劣化しているのがよく分かる。今まで温泉における塩素添加の問題はいろいろと聞いていたが、塩素がここまで湯を劣化させるのかと身をもって感じたのは今回が初めてである。これはここの源泉がかなり良いからのこと。つくづく法律で定めるものにはろくなものがないなということを実感する。

 

 ただカランよりは劣化しているとはいえ、それでもそこらの温泉よりははるかに良い湯である。幸いにしてしばらくは入浴客は私だけだったので、しばしゆったりと堪能する。先ほど足守で結構歩いているので足に疲れがたまっているのでそれを抜いておく。

 

 しばし湯を堪能した頃に、小さい子供を連れた父子が入ってくる。嫌な予感がしたので私は上がり支度を始める。するとまず子供が入ってきて、洗い場で小便。これだから子供は・・・(だから塩素消毒などが必要になるのだが)。しかもそのまま浴槽に入ろうとするので、さすがに見かねて「体を洗ってから入ろうね」と声をかける。一応子供は素直に父親がやって来るのを待っている。しかし次に入ってきた父親は、ろくにかかり湯もしないでそのまま浴槽にザブン。これだから「銭湯を知らない子供たち」は・・・。思わず天を仰ぎたくなる。絶望的な気分になって浴場を後にする。もっとも若い父親だけでなく、銭湯を知っているはずの世代でも、浴槽の中でタオルを使って体をこするなど入浴マナーがひどい者がいる。彼らの場合は「知らない」のではなく「俺様流」なのであり、これは人間の「知識」の問題ではなく「品性」の問題である。

 

 最近は各地の温泉地で中国人観光客のマナーの悪さが問題になっている。彼らは浴槽の中で体を洗ったりなど無茶苦茶である。ただそれは彼らの入浴習慣が日本と違うので日本流の入浴方法を知らないだけである(浴槽内で体を洗わない日本式入浴法は世界的には少数派)。しかし肝心の日本人自身がこれでは・・・。このまま行けばいずれ日本の温泉文化も消滅してしまうかもしれない。やはり正しい風呂の入り方は学校で指導するべきではないか。国家や国旗を無理矢理押しつけるよりも、この方がよほど自国の文化風土を愛するという意味で愛国心の根幹に関わる事項だと思うのだが。あの手の連中がやたらに強調したがる「公の精神」の発露の端的な例の一つこそが、温泉の入浴法のような気がするのである。

 

 温泉を後にしたときには既に日は西に傾いていた。後は高速を突っ走って家路につくだけである。

 

 結局は山城訪問を省いて美術館を中心に辺りを回ってきただけといったところの内容。どうも最近は単に城郭訪問だけでなく、町並み保存区のようなものにも興味が湧いてきている自分を感じる。それに城郭も来るたびに観点が変わっていくので、やはり昔に一度来ただけの所は再訪の必要を感じるところが多々ある。どうにも人生が泥沼っていっているように思える今日この頃である。

 

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