展覧会遠征 岡山編7

 

 この週末の飛び石連休、元々は金曜日は仕事に出るつもりだったのだが、どうやら組合から「年有休暇取得奨励日」との号令が飛んだとのことで、私の職場でも休暇をとる者が大多数。これでは私も会社に出ても意味がないということで、急遽休暇をとることになった。都合四連休なのだが、諸般の事情で今週の週末はそもそも外出せずに家にお籠もりになることが決定されている。と言ってもさすがに四連休丸々お籠もりだと精神が崩壊しそうである。そこで木・金に一泊二日で近場に繰り出すこととした。

 

 しかしながらあまりに急な話なのでそもそも計画自体が何もない。それに一泊二日だと遠出もままならない。結局は諸般のデータを付き合わせた結果、岡山に行くことにした。岡山県立美術館で開催中の展覧会の会期が今週末までなのと、倉敷に出来たドーミーインが11/3限定の宿泊プランを出していたのが決め手である。本来なら岡山などで宿泊する必要性はないのだが、今回は骨休め的な意味であえて宿泊する形である。

 

 プランの詳細などほとんど練っていないので、出たとこ勝負ということで交通機関は車を使用する。愛車ノートを駆ると朝から山陽自動車道を突っ走る。しかし正直なところまだこの車の高速運転の感覚には完全に慣れていない。やはり加速感が今までと違うのと、ハンドルがシビアなのが微妙なストレスになる。しかも今日は道路も結構混雑していてなかなか走りにくい。ようやく目的地の福山に到着した時には予定よりもかなり遅れた時間になってしまう。

 

 まず福山に来たのはついでだからふくやま美術館に寄るため。ふくやま美術館では今は茶器関係の展覧会を開催中のはず。正直なところ以前なら茶器関係はパスだったのだが、この前金沢に行った時、予想外に茶器に興味を感じたということがあったので、それを確認するためである。私が茶器なんかに興味を持つきっかけがあったとしたら、明らかに「へうげもの」の影響ぐらいしかないのだが、正直なところ私としては自分がそこまで影響を受けやすい単純な人間だとは思いたくないというところもある。

 

 美術館の駐車場に車を停めて・・・と思ったらなんと駐車場は満車。「?」で頭の中が一杯になる。今までここの駐車場が一杯になったことなんて記憶にないのだが・・・。一体福山で何があったんだ?と思っていたら、駐車場の整理のオッサンがやってくる。どうやら今日は「ふくやま文化の日」とのことで、ふくやま美術館などは入館料が無料になるらしい。しかもスタンプラリーなるものも開催中で、福山文化ゾーンの6館を回ってスタンプを集めると記念品がもらえるとか。なるほどこれがいつにない混雑の原因かと納得。ついでだから私も急遽予定を変更して、このスタンプラリーに参加することにする。

 スタンプ台紙

 数分待たされた後、ようやく駐車場に空きが出る。とりあえず車を停めるとまずはふくやま美術館から。

 


「秘蔵・茶の湯の美−松本コレクション−」ふくやま美術館で11/27まで

 福山経済界の重鎮で、美術品コレクターでいわゆる数寄者である松本卓臣氏が、このたび茶道具コレクションをふくやま美術館に寄託することになったことから、それを記念しての展覧会とのこと。

 正直なところ茶器やら茶道具の良し悪しなど私には分からない・・・はずなのだが、黒茶碗の漆黒の妙、赤茶碗の味わいなどに惹かれてしまい、さらには茶入れの光沢やら曲線に魅力を感じている自分に驚き。

 


 かなりショックな話であるが、やはり私は相当に単純な人間だったようである。まさかここまで影響を受けていたとは・・・。しかしなぜ? 別に私は本編を見ているだけで中島某の薀蓄タラタラのコーナーは全く見てないし、別に茶器について勉強したわけでもないし・・・。あの作品の本編中には別に茶器に対する薀蓄もなく、描かれているのは主人公の古田織部の茶器に対する変態的な執着だけのはずなんだが・・・。

  

文学館と人権平和資料館

 美術館の見学を終えると、文学館、人権平和資料館を回る。文学館では井伏鱒二に関する展示が中心。しかしやはり本や原稿を見てもあまり興味はなし。人権平和資料館は福山空襲に関する展示や人権侵害に関する展示など非常に重い。それにしても未だに差別なんて馬鹿なことをしたがる下種はいるらしい。私も以前はまさか今時と思っていたのだが、ネットを見ていると確かに必死で差別で自尊心を満たそうとしているどうしようもない奴が多くて嫌になる。

 

 次は北側から「福山城」に入る。福山城は以前にも訪問しているが、やはりこの北側の守備は明らかに手薄である。特に北側の小高い丘の上に神社があるが、この位置を占拠されたら天守まで砲弾が届きそうである。本来ここは城内だったのかと思ったが、天守内にあった復元模型を見ると城外だったようだ。福山城の天守閣は北側に鉄板を貼ってあったそうだが、確かにそういう防備は必要だったろう。

位置関係的に近すぎである

左 裏手の東御門跡  中央 天守よりの風景  右 駅南にある往時の石垣の遺構

 福山城を一回りすると、福山駅の南側に出てロッソ(福山の商業施設)8階の書道美術館を見学。ここも以前に来たことがあるところだが、やはり私は書には興味が持てない。

 書道美術館

 再び福山駅の北側に戻ると県立歴史博物館に入場。これでスタンプラリー完結である。ちなみに記念品とは、美術館の図録などの類からお好きなものを一点。とりあえず私は日本画に関する図録をもらっておく。

 県立歴史博物館

 福山を後にすると次の目的地へ。やはり車で来たからには車でないといきにくい場所に行くべきだろう。福山の北部に「神辺城」があるのでそこを訪問する予定。神辺城は南北朝時代に備後の守護職になった朝山景達が築き、その後は山名氏の支配下に入り、江戸時代には福島氏が近代城郭として完成させたが、その後に水野氏が福山城を築いたことで廃城となり、建造物などは分解して移築されたと言う。

 神辺城遠景

 神辺城はその名の通りの福塩線の神辺駅近辺にある。この辺りは広大な盆地の東側の山地なので、この地域を守るには格好の地形。福山城が出来るまでは備後支配のための要地であったことは納得できる。

 神辺城がある山には歴史民俗資料館があるとのことで車で登ることが出来る。狭くて傾斜が急で時々180度カーブがある山道だが、意外に車が多い。山上には10台程度が駐車できるスペースがあり、そこに車を停めるとまずは歴史民俗資料館を見学。

  

駐車場の奥が城の登り口

 歴史民俗資料館は「なんちゃって本丸御殿」といった趣の建物。内部は地方都市によくある民俗資料館+歴史博物館+美術館というような主旨の施設。私の訪問時には昔の玩具(いわゆるブリキ玩具など)展を開催していたが入場は無料。これ以外は例によっての倉庫とも展示室ともつかない部屋に民具をゴタゴタ詰め込んであったのと、土器の破片などが展示してある展示室の3部構成である。

 歴史民俗資料館

 歴史民俗資料館の見学の後は神辺城に向かう。堀切跡などを見学しながら整備された順路を登っていくと最初に出るのは西端の三番櫓跡。ここは市街を見渡せる展望台のような趣になっている。

左・中央 途中の堀切跡  右 三番櫓跡

三番櫓跡から見渡す市街

 そこから一段上がったところが二番櫓。さらに一段上には乾櫓もあり、そこから土橋状に本丸に続いているが、入口にあった想像図から察すると、この土橋状のところが渡櫓で、この横から本来の大手道が出ていたということか。

 二番櫓跡への登り口

二番櫓跡から見た乾櫓方面

左・中央 乾櫓跡の渡櫓部分が土橋状  右 奥が本丸跡

 本丸はそれなりのスペースがあり、備後支配のための城郭としても十分な建物は建てられたろうが、先ほど見てきた福山城に比較すると明らかに手狭であるのは確かで、戦国時代の防御を重視した城としてはともかく、天下が定まった後の政庁としての城としては福山城の方が勝っているのは言うまでもない(もっとも福山城はその分、防御に明からさまな弱点を持っているが)。

本丸風景

 本丸からはかなり急な坂を下って駐車場に戻る。この通路は後付なのは間違いないが、とかにくこの通路の急さからも分かるように本丸の裏手は崖で守りは鉄壁。あくまで防御重視の城郭であったことがよく分かる。なおこの城がある尾根の隣にもいかにも城郭向きの尾根があるのだが、ここでは古墳が見つかっているとのことで、やはりかなり昔から人が住んでいたのだろう。

 

 神辺城の見学を終えた後は、ここから最寄りの美術館を目指す。井原鉄道沿いに走行しながら、途中で沿道の回転寿司屋で軽く昼食を摂ると目的地へ。

 


「林正明−風景−展」華鴒大塚美術館で11/27まで

 日本画家・林正明の風景画を集めた展覧会。彼の作品は自然に対する愛情のようなものがうかがえ、その清浄な画面はなかなかに好感を持てる作品。小野竹喬の弟子だとのことだが、確かに竹喬の作品と通じるところがある。

 ただ、うまい絵で綺麗な絵であるが故に、卓抜した個性というものがないのが芸術家として考えた場合には不利な点か。実際、私の目には青い絵は東山魁夷に赤い絵は奥田元宋に黄色い絵は平山郁夫か秋野不矩に見えてしまったりすることがあったりした。

 


 美術館の見学を終えた時には3時頃。朝に出遅れたのと福山で予定を変更したことで、当初予定よりも随分遅れてしまった。当初の予定ではこの後に成羽まで行くつもりだったが、今から成羽まで走っていては時間がかかりすぎることから、これは後日に変更することにして倉敷のホテルにチェックインしてしまうことにする。

 

 今回の宿泊ホテルはドーミーイン倉敷。ちょうど倉敷の美観地区の入口に立地しており、観光目的には最適の立地になっている。この辺りもドーミーインチェーンが最近はかつてのビジネスホテルから転じて観光ホテルの方向を目指していることがうかがわれる。もっともそれに応じて近年は宿泊料が高くなる傾向がある上に、週末の予約が取りにくくなっていることから、最近は以前に比べて明らかに私の利用頻度は減少傾向にある。

 

 ホテル裏手の立体駐車場に車を停め、部屋に荷物を放り込むとただちに外出する。なおこのホテル、非常に間口が狭くて奥が深いという独特な間取りをしているのだが、これは恐らくかつての町屋の地割りの名残なのではないかと思われる。倉敷では美観地区の建物にもこういった形式が多い。

 

 まずはホテルの隣にある国指定重要文化財の大橋家住宅を見学。大橋家は塩田で財をなした製塩王らしく、かなり立派な商家の住宅である。一ノ関で見学した家老屋敷の倍以上はあり、江戸時代においては小藩の家老などよりは商家の方が財力で遙かに勝っていたという現実がよく分かる。なお現存しているのは母屋と蔵の部分であり、庭園だった部分と南の湯殿があった離れは壊されて今は駐車場になっているというのは、恐らく大橋家末裔の想像税対策の結果ではないかと想像される。実際、旧家の末裔が固定資産税や相続税の負担に耐えかねて住宅を手放し、古民家が破壊されてマンションになってしまうなどと言った話もよく聞く。先祖が残したのが会社などなら良いのだが(馬鹿ボンでもそのまま会長などに座って悠々自適。その結果、大王製紙の壮絶な馬鹿息子のようなことが起こってしまうのだが。)、旧庄屋が屋敷だけを残して末裔はただのサラリーマンなんて場合がもっとも悲惨である。これも実態と離れた土地バブルの罪でもある。

 大橋家住宅を見学した後はブラブラと美観地区へ。確かに風情のある良いところではあるのだが、相変わらずどうも映画のセットのようでわざとらしさは否めない。まるで日光江戸村とか太秦映画村みたいなもの。つまりは倉敷白壁土蔵村である。私がここに来るたびに強烈に感じる違和感は、倉敷全体が風情のある町ならともかく、他の地域はビルなども建つ典型的な今時の都市だからギャップがひどすぎるんだろう。何しろ通りを一本隔てると時代が変わってしまうんだから。倉敷市が本気で観光を考えるんなら、駅前辺りからもう少し何かの演出が欲しいところ。倉敷の観光開発はチボリ公園に象徴されるように統一した意思のようなものが全く見えない。一言で言えば「ちぐはぐ」。

 美観地区を抜けると市立美術館に立ち寄ってからホテルに戻る。ホテルに戻るとまずは最上階温泉浴場で一息。これがあってこそのドーミーインである。一風呂浴びてさっぱりすると再び夕食のために市街に繰り出す。気分としては洋食にしたいと考えている。そこで入店したのは商店街内にある「みやけ亭」「ビーフカツレツ」をランチやスープの付いたセットにして2450円。

 懐かしくも普通に美味しいビーフカツレツ。私がビフカツが食いたいなと感じた時にイメージする味そのままといった感覚である。やさしい味のソースが美味なのだが、この店はタンシチューも売りらしい。また機会があったらこちらも味わいたいところである。

 夕食を堪能すると美観地区の裏通りをウロウロしてから(町は路地にこそ味わいが出るというのが私の持論)、土産物を買い求めてホテルに戻る。ホテルではしばしこの原稿を執筆しつつ、汗をかいた衣服を洗濯(とにかく今日は暑かった)、小腹が空いた頃にドーミーイン名物の夜鳴きそばがうれしい。この日は結局は11時過ぎにギリシアのドタバタのニュースを見ながら就寝。なお21世紀版イソップ童話は「アリとキリギリス」が「ドイツ人とギリシア人」に変更になりそうである・・・。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に目覚めると、朝風呂を浴びてから朝食会場へ。いつもの分単位のスケジュールに追われる遠隔地の鉄道遠征と違い、近場の車での遠征だから時間にかなり余裕を持っている。朝食は例によってのドーミーイン標準レベルだが、ドーミーインは全国画一メニューに近いルートインと違って、メニューに一応はご当地色を出そうとするのは評価しても良いと考えている。もっともそのご当地メニューが舌に合わないこともあるが。倉敷のご当地メニューは岡山式の祭寿司(ママカリがポイントのようだ)。もっとも私の好みよりは酢が効きすぎ。

 

 さて今日の予定だが、当初の計画では岡山県立美術館に直行するつもりだった。しかしホテルに入ってからの調査の結果、ここまで来たのだから下津井に寄っていこうということになった。これも以前から頭の片隅にはあった宿題の一つである。

 

 下津井までは車で30分ほど。下津井はかつては金比羅参りの渡し場として栄えたらしいが、宇野にその地位を奪われ、またかつて通っていた下津井電鉄も瀬戸大橋の開通後に廃線、今ではひなびた漁港として瀬戸大橋の橋桁の町化している。

 

 とりあえず下津井までは車でスムーズに到着したのだが、まいったのは到着してから。下津井市街は海まで迫る山にへばりつくような狭い町で、目的の「下津井城」はこの山上にあるのは知っているが、どこからアクセスして良いのか分からない。しかも市街の道はまともに車が通れると思えないほどの狭い道(よく1.2車線などと言うが、ここのは正真正銘1.0車線である)。一度などは入った道で進退窮まりかけ、バックして出てくる始末(風情のある町並みが残っていると言えなくもないが)。道路の狭いのは良いとしても、案内看板は欲しいところである。結局はあれこれと調べまくった挙げ句、ようやく山上に向かうらしい道を見つけたものの、とにかく傾斜は以上に急だわ、道幅はとんでもなく狭いわでビクビクの走行。しかし不思議なことに山上近くに着くと道路も整備されていて広い駐車場まで設置されている。どうやら下津井方面から上がるのではなく、鷲羽山方面からアクセスするのが正解だったようである。

 下津井城は宇喜多秀家が出城として整備し、池田氏が家康の命で瀬戸内を押さえるための近世城郭として整備したものの、その後の一国一城令で廃城になったとか。なお宇喜多秀家が整備する段階で小城があったらしいことから、そもそもは水軍城か何かだったように思われる。実際、この山上からは下津井とはるか瀬戸内海を一望できるので、この辺りの海域を押さえるには最適の立地である。

 駐車場から遊歩道をしばし歩くと下津井城に到着する。どうやら瀬戸大橋開通に合わせて公園整備された模様で、下草なども刈られており非常に見学がしやすくなっている。遊歩道に沿って進むと馬場跡の広場に出る。ここをさらに登ると西の丸と本丸の間の部分に到着するが、まずは土橋を通って本丸の方に向かう。本丸手前には石垣が見え、これは石垣好きとしてはテンションが上がるところ。

  

左 遊歩道の先にたどり着く馬場跡と西の丸の石垣  右 西の丸東部

左 二の丸から三の丸への降り口  中央 三の丸の先端に石碑が  右 この学校のある場所も堀跡

左 桜井戸跡  中央 この三年坂はかつての大手道か  右 三年坂の先、多分大手門があった場所

 本丸は小さな屋敷ぐらいは立てられるスペースがあり、北側には小さいものの天守台も備わっており、池田氏が整備した近世城郭の面影をたたえている。

本丸風景

   

本丸奥には小さい天守台がある

 本丸からさらに東に下ったところに二の丸がある。この二の丸は本丸を南方から取り囲むような形になっている。ここからさらに下がって進んだところが三の丸。そこから先には中の丸広場がある。この中の丸はかなり広くて屋敷などがあったのではないかと思われる。現地看板によるとこの先にさらに東出丸があったようだが、その辺りはもう住宅地に埋もれているようである。

左 本丸を東に降りる  中央 石垣沿いに進むと  右 三の丸が見えてくる

左 三の丸  中央 三の丸横にさらに下り口が  右 降りてから振り返った石垣

三の丸を降りて直進すると広大な中出丸広場に出る

 ここからは西に戻って、二の丸の石垣、さらに本丸の石垣を下から見学。かなり立派な石垣であり、池田氏による整備がかなり気合いの入ったものであったことがうかがえる。恐らくこの頃は西国からの脅威というのが現実味を帯びていたのだろう。しかし幕藩体制が盤石なものとなる中でこの城は使命を終えたということだろう。

左 中出丸から引き返して三の丸石垣の下を行く  中央・右 さらに石垣下を進むと遊歩道に出てしまう
  二の丸跡には休憩施設が

西の丸風景

 西の丸を見学すると馬場へ。どうやら地元の幼稚園児がハイキング兼落ち葉拾いでやって来ている模様。こうして幼少時から地元の城郭に親しむことで、将来の城ガール、城ボーイが英才教育されるという育成システムか(笑)。しかし子供の頃に山に親しむこと自体は悪くない。私もガキの頃は近所の山を駆け回っていた。

 

 再び駐車場に戻ってくると、ここから岡山市街に向けて走行する。走ること30分ほどで岡山市街に入るが、例によって岡山は極めて運転がしにくい。まず車の台数が多すぎるのに道路などのインフラ整備が中途半端なせいで万年渋滞である。さらに運転のしにくさに輪を掛けるのが、ドライバーのマナーが激烈に悪いこと。ウインカーを出さない車線変更は常識。また車線変更をしようとウインカーを出すと、車速を上げてブロックするのが岡山流らしい(だからウインカーを出さずに車線変更をするのか?)。やはり岡山ダンジョンは半端なく難易度が高い。運転マナーに関しては岡山に匹敵するのは私の知る限りでは福岡ぐらいである。

 

 いろいろストレスを溜ながらようやく岡山ダンジョンを突破。目的地へ到着する。

 


「国立エルミタージュ美術館所蔵 皇帝の愛したガラス」岡山県立美術館で11/6まで

 

 エルミタージュ美術館が所蔵するロシア皇帝愛用のガラスコレクションを展示。ベネチアングラスから、アールヌーヴォー、アールデコ、さらには国策として制作されたというロシアガラスまで多彩なコレクションを展示。

 初期のベネチアングラスの細工の細かさと洗練された美しさは絶句である。東洋の陶磁器などとは違った世界での一つの高みがここにあるような感を受ける。この後に来るのがドーム兄弟やガレなどの作品。この辺りは私には馴染み深いところであるが、確かにそれまでのベネチアングラスとは全く違った趣になっていることはよく分かる。ロシアガラスに関しては絢爛豪華ではあるのだが、今一つ垢抜けていないような印象を受けるのはロシアのロシアたる所以か。以前よりエルミタージュのコレクションは豪華だが今一つ野暮ったいという印象を受けていたが、やはりガラスにおいても同様の傾向があるようだ。

 


 これで本遠征での主目的は終了。とりあえず昼食とスルッと関西2DAYの入手のためにイトーヨーカ堂に立ち寄ると次の目的地へと向かうことにする。次は岡山北部の城郭を攻略するつもり。候補としては3カ所ほどあるが、今回は徳倉城に立ち寄る予定。

 

 「徳倉城」は築城時期などが不明の城郭であるが、戦国期にはこの近くの金川城主であった松田氏の配下の宇垣氏の城であったようだ。松田氏が宇喜多氏によって滅亡させられた後は宇喜多氏の支配下となるが、関ヶ原後に宇喜多氏が改易、その後に入封した小早川秀秋が廃城にしたとのこと。現在は県指定の史跡となっており、今日でも山上には立派な石垣が残っているという。

 現地に向かって走ると、左手に高すぎず低すぎずのいかにも山城向きの山が見えてくる。高さといい、手前に川が流れている立地といい、絵に描いたような優良山城物件である。

 とりあえず事前の調査によると大手口と搦手口の2カ所の登り口があるという。搦手口の方は徳倉神社の近くとのことで車で向かうが、途中で進退窮まりそうな道になったので引き返す。道路脇に注射可能スペースが多数あるのでそこで車を停めると大手登山道を探す。

左・中央 大手道入口はいきなり鬱蒼としている  右 大手道はひたすら山道

左 倒木が行く手を塞ぎ  中央 足下は崩れている  右 辛うじて階段が作られている

 ようやく登山道を発見するとここから標識に従って登っていく。かなり鬱蒼としていて足下も崩れている箇所がいくつかあるが、標識は立っているし、下草も定期的に刈られているようで最低限の整備はされているようだ。また斜面には黒いプラスチックケースのようなものが埋められて階段になっている。この回りとは不調和な人工物があるおかげで、登城路を見失うことが防がれている。

  

出丸跡の奥は鬱蒼としている

 ただ枯れ葉が積もって足下がやや怪しいのと、やはり斜面は急である。最近は膝の調子が悪かったことからしばらく山城訪問を怠っていたせいで、体重は増えて足は弱っておりかなり体調条件は悪い。しかも少々なめてかかっていたのか水を持参していない。これは失敗だったと感じたのはしばらく登山路を進んでからである。今回は諦めて引き返した方が良いだろうかと考え始めた頃にようやく出丸跡に出くわす。出丸跡は小さな削平地。奥に進んでみるが先は鬱蒼としていて進めない。ただどちらにしてもそう広くはないスペースである。

 

 ここまで来れば城の本体はその先であるはずだ。現金なものでこうなると先ほどまで「引き返そうか」と考えていたことを忘れて先に進む気になる。しかしそこから少し進んだ斜面の入口で進行を防ぐかのように巨大な倒木が立ちふさがる。

 突然巨大な倒木に行く手を阻まれる

 あまりに見事に道を塞いでいるので進入禁止になっているのかと思ったが、そういう表示はないし、木の倒れ方を見るとどうやら腐った木が自然倒壊した模様。ただ問題なのはどうやってここを通過するか。上を越えるには高すぎるし足下が怪しい。横に迂回しようにも道がない。結局は這いつくばって下を潜ることにする。何やら探検めいてきた。

左 出丸長曲輪  中央 堀切に降りる  右 矢竹林

 ここを登ると出丸長曲輪跡の平地があり、その先は堀切跡に降りることになる。ここには矢竹林との表示もあるが、近くには細い竹が生えており、確かにこれは矢に使えそうである。

左 石垣らしきものが目に入る  中央 明らかに曲輪の削平地  右 ここからは登りの連続

 この先はしばし道は平坦であるが、道幅が狭くて片側が崖であるので足下に注意である。崖を滑落したら洒落にはならない。こういう道に出くわすと一人登山の危険は感じる。ましてやこの山には全く人気を感じられないので不安もひとしお。またこのシーズンはまだ熊に出くわす可能性もないわけではない。どうもいろいろと気を使う必要がある。

 

途中の井戸には今でも水がある

 さらに進むと明らかに人工のものである石垣と曲輪跡と見られる削平地にたどり着く。ここからは曲輪跡と見られる小さな削平地の間をプラスチックボックスで作られた階段で登っていくという厳しいルート。いよいよ本丸へ向けてのラストスパートである。途中で井戸跡があるが、これだけの高山にもかかわらず今でも水が溜まっている。山城に不可欠の水の手も完全に確保されているわけである。

 突然眼前に野面積みの石垣が

 ここを過ぎると突然に目の前に立派な石垣が現れる。思わず「オォー」という声が出る私。ここまで苦労して登ってきたことに対するこれは最高の褒美であろう。野面積みの石垣がクランク状になっていて、これがこの城の本丸虎口。なかなかに変わった形であるが、防御としては堅い。

 本丸東部

  

本丸東端の土塁(石塁?)

 ここを登ると本丸に出る。本丸の東端は石垣で塞がれているが、ここには土塁跡の表示がある。もっとも石垣が立派で土塁というよりは石塁なのだが・・・。

 本丸西部

 妙見堂

 二の丸跡は廃材だらけ

 本丸西部には妙見堂の小さな祠があり、そこから若干低いところが二の丸らしい。大きいというほどではないがそこそこの規模の城郭である。なお二の丸跡の端には大量の廃材が積み上げてあったのだが、ここには何か建造物があったのだろうか(往時のものでは到底なく、間違いなく最近のものだが)。

 

 これで徳倉城攻略完了。ただ実際には危ないのはむしろこれからである。足下の怪しい急勾配を降りるのは非常に神経を使う。登りとは違う意味で足に負担もかかる。今は特に膝が万全でないので、バランスを崩したら踏ん張り損ねる危険もある。とりあえず普段の倍の時間をかけるようなつもりで慎重に下山する。また時期的に熊が出没する可能性も否定できない。途中で木の枝が折れるような音がしたことから、まさかとは思いつつも一応は警戒して大声で「ゆけ!ゆけ!川口浩」を歌いながらの下山となる。

 

 予想を超えて見応えのある城郭だったが、体力の消耗も予想外だった。もう既に足はガクガクだし、季節はずれのあまりの暑さに頭からびしょぬれ。今回のスケジュールはこれで終了にして、近くの「桃太郎温泉一湯館」に立ち寄ってから帰途につくのであった。

 

 それにしても先の下津井城にしても今回の徳倉城にしても知名度はほぼ無きに等しいにもかかわらず非常に立派な城郭である。これらは100名城は無理にしても、私の続100名城には余裕で当選である。まだまだ全国にこのレベルの城郭は多数あるだろうと思われる。全く城郭巡りも奥が深い・・・。

 

 

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