展覧会遠征 滋賀・小浜編

 

 週末になったが、まだハードだった新潟遠征のダメージが体に残っている。ここは無理をせずに近場で済ませておきたいところだが、現在行くべき展覧会として浮上したのは佐川美術館のセガンティーニ展。佐川美術館となるととても近場とは言い難い。どうするか悩んだところだが、この暑さを避けるために車で行こうということで結論した。しかしそうなると、滋賀まで車を出した以上はそれだけで帰ってくるのももったいないという気持ちが頭をもたげる。その時に脳裏に浮かんだのは小浜城のこと。以前に小浜を訪問した時には鉄道利用だったためにあまり市内の見学をしていない。そこで小浜まで足を延ばして小浜城を見学するという気持ちが沸いてきた。しかし小浜城について調べていたところで、小浜にはさらに国の史跡である後瀬山城もあることが判明、そうなるとここにも立ち寄りたいという気が湧いてきた。そして気がつくと、当初の「近場で体に負担をかけずに」というのがどこかに完全に飛んでしまっていたのである・・・。

 

 まずは佐川美術館に向かって出発。当初予定は早朝出発のつもりだったが、やはり疲労がたまっているようで朝に起きられず、予定よりも1時間以上遅れての出発である。体力的に無理が効かないようなので慎重に運転する。それにしても慌てて飛び出してきたせいで準備に不備があり、クーラーボックスを忘れてきてしまった。おかげでぬるい伊右衛門を飲まないといけない羽目になる。

 京都を過ぎると車がかなり混雑してくる。当初の予定は京都東ICで高速を降りて湖西経由で佐川美術館を目指すというものだったが、いざICを出てみると道路が大渋滞だったため、再び高速に引き返して栗東ICからの湖東ルートに切り替える。

 当初予定からさらに遅れて目的地に到着。美術館内は結構混雑している。セガンティーニは地味に客を集めるタイトルだったか。

 


「アルプスの画家 セガンティーニ −光と山−」佐川美術館で8/21まで

 

 アルプスの山々に魅せられ、最後はその風景の中でこの世を去った「アルプスの画家」ことセガンティーニの生涯に渡る作品を展示した展覧会。

 興味深いのは初期の古典主義的画風の作品から展示がされていること。この時代の作品はいかにも保守的な暗い色彩を用いているが、その描写力には後の片鱗が垣間見える。

 やがてミレーの影響が現れて画題が農民の風景などになっていき、そしていわゆるセガンティーニらしさが一気に開花するのがアルプス近くに転居してから。この頃から独自の光学分割技法を用いた煌めくような画面の山岳風景が描かれるようになってくる。彼の細かい線を用いた技法は非常に精緻なものであり、近くで実際の作品を見ていると唖然とするしかない。このような細かい技法を駆使しつつ、画面全体のバランスを崩さないのは天才と言うべきなのか。

 本展の看板作とも言える「アルプスの真昼」はまさにその名の通りのアルビスの日差しを感じる気持ちよい作品。セガンティーニの山岳風景に共通しているのはこの気持ちよさである。

 また一方で幻想的かつ神秘的な作品も描いていたようで、特に晩年(と言っても、彼はわずかに41年で早逝したのだが)にかけてはそのような象徴主義的絵画が多数登場してくる。こういう作品もまたセガンティーニの一面を物語っていて面白い。

 全体を通じて非常に見応えのある展覧会。セガンティーニファンは言うに及ばず、特にそうでもない者でも、絵画に興味があるなら訪問の価値はあると言えよう。

 


 展覧会の見学を終えると昼前である。出発が遅れたせいでどうも微妙な時間になってしまった。さて今から小浜まで出向くか悩むところであるが、このまま帰っても気が抜けたサイダーみたいな遠征になってしまう。ここまできてしまった以上は初志貫徹である。琵琶湖大橋を渡るとそこから山の中に入り、旧鯖街道を小浜に向かってひた走る。道は険しくてカーブも急だが、道幅自体は狭くはなく快調に走行できる山道。最近は足回りがヘたり気味の私の老カローラ2も快調に突っ走る。高山の中や川沿いなどを突っ走り、海が見えてくるとようやく小浜に到着である。

 

 小浜に到着した時には既に昼時を過ぎていた。とにかくまずは昼食からにしたい。以前にも訪れたフィッシャーマンズワーフを訪ねると、そこで寿司を買い求めてその場で頂く。やはり小浜に来て高知産と書いてある寿司をいただくのも悲しいので、地場ものの表記のあるあじなど、地場ものを中心にチョイスする。

見た目はスーパーのパックにぎり

 とりあえず腹を満たすと、早速小浜城に繰り出す。「小浜城」は江戸時代初期にこの地に入った京極高次が、それまで使われていた山城の後瀬山城に替えて建造した海城である。ただ京極氏はこの城の完成までに松江に加増転封されたので、この城を完成させたのはその後の酒井氏だという。そのまま酒井氏支配下で明治を迎えるが、失火で建物の大部分を失い、その後に天守も撤去されたとか。

 本丸跡は今では完全に神社

 現在は城跡は小浜神社となって住宅に埋もれてしまっている。しかし近年になって城郭の観光価値に注目したのか、市長あたりが中心になってにわかに天守閣復元計画が持ち上がっているとか。

現地案内看板より 赤線が現在の神社敷地

左 天守台登り口  中央 天守台  右 天守台北側石垣上から望む天守台

左 天守台上  中央 天守台より本丸西側石垣  右 石垣ギリギリまで民家

 とりあえず小浜神社の駐車場に車を止めると、参拝がてら見学である。神社の回りには立派な石垣が残っており、これがかつての本丸石垣らしい。西南隅には立派な天守台も残っており、ここに上れば日本海まで見ることができる。天守の北側には何やら無理矢理な印象の裏口があるが、これは本来はこの上に西矢倉があって守っていた模様。いざという時には門ごと埋めてしまったと思われる。本丸石垣北側には櫓の跡などがあり、石垣の一番端には石段もついている。しかしこの石段、石垣の外側にあるので奇妙な感じがするのだが、神社内に建っている看板を見ると、当時の縄張りではこの神社の東側の道路や住宅のあるところまでがかつての本丸跡であり、現在は住宅があるあたりに東の城壁と堀があったようである。この城壁が現在残っている城壁に被さるような位置にあり、くだんの石段の北側にその城壁との間に門があったらしい。こうならば今の石段は本丸の内側であり、確かに位置に矛盾はない。

左 西櫓跡付近から乾櫓跡方向  中央 乾櫓跡から巽櫓跡方向  右 巽櫓跡

左 北部石垣東端の石段 本来はこの向こうに門があったことになる 中央 南部石垣東端  右 同神社内より

 目下のところ天守閣復元計画がどうなっているのかは知らないが、復元するなら資料に基づいた木造復元をして欲しいところ。まかり間違っても半端な予算で中途半端なものを建てるのが一番悪い。また安直な鉄筋コンクリート天守などなら建てない方がよい。なお小浜城を観光資源として本格的に復元するなら、天守を建てるだけでなくてせめて本丸周辺の城壁と堀までは復元したいところだが(見栄えが全然変わる)、そうなると周辺の住宅の移転が必要なので簡単にはいかないだろう。また神社をどうするのかの問題もある。

 

 小浜城の見学を終えると次は「後瀬山城」を見学にいくことにする。後瀬山城は若狭の守護大名だった武田氏が拠点とした城で、山上部分と麓の館で構成されていたという。朝倉氏、丹羽氏などを経て近世式に改築されたが、江戸時代に京極氏が小浜城の建造を始めたことからそちらに機能は移行したらしい。正式に廃城になったのは酒井氏の代で小浜城が完成してからだが、特に破却とかが成されたわけではないという。現在は麓の館は残っていないが、山上に曲輪跡などが残存しており、国の史跡に認定されている。

  

後瀬山遠景と登山口の神社

 後瀬山にはトンネルが掘られており、その脇にある神社のところから登山道が延びている。車を神社の駐車場に止めると、麓の社に登山の無事を祈ってから登山道を進む。登山道は比較的整備されているが、ところどころむき出しの岩肌にコケが付着している部分がある。そういう部分を踏むと氷の上のように足下が滑る。どうやら靴がもうすり減っていて、ほとんど滑り止めが効いていないようである。これは近いうちに靴を買い換えないと駄目そうだ。実際、先の新潟遠征ではこれのせいで尻餅をつき、その時にぶつけた尾てい骨に未だにダメージが残っている。

 急な道を登り始めて早々5分で早くも息が上がってくる。我の体力のなさが恨めしい。水平に歩くのは出来るが、どうしても上り下りは無理が生じる。また以前から具合の悪い左膝が非常に不穏な雰囲気。

左 山道をひたすら登る  中央 疲れ切った頃に曲輪群の表示  右 各地に曲輪跡があるが写真では分かりにくい

 登り始めて10分過ぎぐらいで、ようやく右手に曲輪群が見えてくる。こうなると俄然元気が出てくる。今登っている道はどう考えても後付けの道である。そもそもは山の北側に屋敷があり、多分元々の登城道はそちらから伸びていたはずだ。それらはこの曲輪を抜けつつ山上の本丸に続いていたのだろう。今登っているような曲輪をすっ飛ばして本丸へ直行するような道があれば、城郭の防御が意味をなさないことになってしまう。現在は山上には神社が造られているようだから、その参道として後に整備された道だろう。

左 広い曲輪に出る  中央 本丸方向には土橋と堀切が  右 反対側の窪地は井戸跡だろうか?

 さらに数分登り続けるとかなり広い曲輪に出る。どうやらここが二の丸らしい。曲輪の端には井戸の跡だと思われる窪地がある。ここから本丸を見上げると石垣で囲われている。恐らくこれらの石垣は、武田氏以降の城主が近世城郭に整備した時に作られたのではないかと思われる。

左 土橋を渡ると本丸石垣と石段がある  中央 木々の間から漏れた風景  右 本丸風景

左 武田城跡の碑と謎の石段 中央・右 社の奥にさらに下る道があるようだが、これ以上進む元気はない

 本丸はそう大きなものではないが、そこに神社が建っている。なお本丸の北側に石垣があるのであるが、これが果たして当時のものか、後に付け足されたものかは分からない。城の防御としては大して意味を持たない気もするので、後に神社の雪よけにでも作られたのだろうか?

 本丸周辺は木が鬱蒼としているので、残念ながら眺望は全くない。この木が切り払われていたら、多分遠く日本海を見渡すことが出来るはずである。

 

 本丸の見学を済ませて慎重に降りてくる(何度か足を滑らせて危ない局面があった)と、麓の社に無事に帰ってこれたことの感謝の祈りを捧げ、次の目的地へと向かうことにする。と言ってももうこれで予定は終了である。ただやはり山城で思い切り汗をかいたら温泉に行きたいところ。

 

 

 しかし残念ながら小浜には温泉はない。そこで再びフィッシャーマンズワーフのところに戻ってくると、近くの食文化館の3階にある入浴施設「濱の湯」に入ることにする。ここは温泉ではないが人工温泉の銭湯である。

 大きな内風呂は人工温泉の美肌の湯、露天風呂は海草湯に漢方湯になっている。これらの独特な風呂をはしごしつつゆっくりと疲れを洗い流す。人工温泉とはいうもののやはり露天風呂は気持ちがよい。

 ただ風呂から上がってからまた忘れ物をしていたことに気づく。着替えを持ってきていなかった・・・。風呂上がりにまた汗でずぶ濡れのシャツを再び着ることの悲しさ。

 

 そう言えば、以前に食文化館を訪れた時にはちょうど「ちりとてちん」の放送真っ最中で、食文化館はほとんどちりとて記念館と化していたのだが、さすがにもうこれ以上ちりとてちんを引っ張りようがないので「江」に乗り換えたようである。しかし長浜でさえもう何の関係もなくなってしまっているぐらいのところ、福井となるとさらに関係は薄い(目下のところは柴田がらみで少し縁がある程度、後にお初の夫の京極高次が小浜城を築城するが、脚本家が歴史に無知な上に全く興味がないという人物だけにほとんど触れないのは確実)上に、肝心のドラマ自体が既に「史上最低」の折り紙付きの出来だけに、全く盛り上がっていなかったのが印象的。そう言えばあれに登場した勝家ってかなりひどい扱いで、あんな扱いなら出ない方が良かったのではと思うぐらい。このドラマに登場させられるとろくな扱いにならないため、既にドラマ自体が「デスノート」とも呼ばれており、歴史マニアは「私の好きな○○はどうか出てこないように」と祈っているとか。確かに真田幸村とかは出さずに大阪夏の陣を3分で終わらせてくれという感じである。

 

 入浴を済ませると帰途につくことにするが、その前に土産物を。小浜城に行く時に見かけて気になっていた和菓子屋「伊勢屋」に立ち寄ることにする。

 ここではくず饅頭を売っていて、それが店先で井戸水で冷やされている。とりあえずは店内で2つ頂くことにする。意外とあっさりしていて美味。みやげに10個ほど買い求めてから帰宅する。

  

 帰りは最近に開通した舞鶴若狭道を突っ走って帰宅したのであった。高速に乗る前にガソリンを入れるのを忘れたため、途中で舞鶴西で慌てて降りてガソリンスタンドを探す羽目になったが(何と舞鶴若狭道にはSAがほとんどない)、私の老カローラ2は無事に家まで走り抜いたのである。

 

 そもそもは純然たる展覧会遠征だったはずなのだが、気がつけばお城分の方が増えてしまった遠征となった。しかも新潟遠征のダメージを癒すために無理はしないはずだったのが、ついつい山登りする羽目になってしまった。おかげで以前より調子の良くない左膝を壊してしまったようで、しばし難儀する羽目になってしまったのである。やはりもう少し自らの体力を考慮する必要がありそうである。 

 

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