展覧会遠征 淡路編

 

 さて元はと言えば麻生の行き当たりばったりの人気取りで始まった高速1000円だが、いよいよこの6月にも終了するということになってしまったようだ。当初は民主党は平日2000円上限を検討していたようだが、今回の東日本大震災で財源欠乏が甚だしく、とても高速道路の割引に回している余裕はないとのことになったらしい。となると6月からまた高速道路は以前の正気とは思えない価格に逆戻りし、行動は大きく制約されるということになる。これはその前に懸案事項を片づけておく必要がある。

 懸案事項と言えば実は淡路島である。淡路島には洲本城があるが、どうもわざわざ出かけていくのも面倒で、延び延びになってしまっていたのである。これでこのまま橋の通行料が以前のように異常な価格になったら、もう二度と行く機会はなさそうである。そこで今回はこの懸案を片づけ、ついでに神戸で開催中の展覧会に立ち寄るという辺りで計画はプランニングされた。

 

 まずは明石大橋を渡って洲本入りである。明石大橋はつくづく大きな橋であり、こんなものを造ってしまう人の技というものには驚くばかり。ただこのような巨大建造物は、同時に人の業の大きさも示しているような気がする。

 淡路道は制限速度が100キロの高速道路。しかし向かい風の上にアップダウンが結構あるので、私の老カローラ2は100キロの速度を維持するのが一杯一杯状態。「あまり年寄りをいじめるな」というカローラ2の悲鳴が聞こえてくるような状態。

 

 ようやく洲本ICまでたどり着くと市街に降りる。よくよく考えると私は淡路島に降りるのは初めてのような気がする(通過したことはある)。島というだけで何となく偏見を持っていたが、普通にイオンもあればミドリ電化もある大都会で驚く。そして走っている車は神戸ナンバー(笑)。

 市街から洲本城が見える

 とりあえずイオンで昼食を簡単に済ませると「洲本城」に向かう。洲本城は三好氏の重臣の安宅治興が築城した城を、秀吉配下の脇坂安治が天守の造営、石垣の大改修などの大工事によって整備したものだという。その後、池田氏の時代に洲本城は廃城となり、由良城が築かれたと言う。しかし淡路が蜂須賀氏の支配下になってから、由良は交通の便が悪いとして、由良から城下町ごと洲本に本拠が移転されたとのことで、これは「由良引け」と呼ばれているという。以降、そのまま明治を迎えたとか。なお脇田氏が整備した三熊山上の山城が「上の城」と呼ばれ、蜂須賀氏が由良引け後に麓に築いた城が「下の城」と呼ばれているとか。なお今日ではかつての天守台の上に鉄筋コンクリート製の天守閣風建物が築かれているのだが、これが実は日本最古のインチキ天守だとされており、城郭マニアにはそちらの方でも有名な城郭である。

   下の城

 まずは「下の城」の跡にある文化史料館に立ち寄る。ここはいわゆる民俗資料館と自然博物館と歴史博物館と市立美術館を同居させたような施設で、展示内容は極めて雑多である。ここに洲本城縄張りの模型などもあるが、残念ながら撮影不可。

 美術系展示としては洲本ゆかりの南画家・直原玉青の作品が展示されている。南画といっても堅苦しい剛直な印象はない自由で伸びやかな画風。個人的には比較的好ましいものと感じられたが、如何せん展示数がやや少ない。

 お登勢の像  沢口靖子・・・?

 展示の見学をした後は周辺をしばし散策。周辺にはやたらに「お登勢」絡みの像などが多いのだが、私にはピンとこない。そこで石碑等を調べたところ、これは洲本で明治初期に起こった内乱の「庚午事変」を題材にした船山馨の小説とのこと。これが2001年にNHKでドラマ化されたため、それ今こそ町興しとばかりに銅像やらその他諸々を造ったというどこかで聞いたような話である(そう言えば、史上空前の最低ドラマになってしまった長浜の三姉妹博はどうなっているやら)。なおこのドラマでお登勢を演じたのは沢口靖子とのことで、そう言われてみれば銅像が何となく沢口靖子に見える。

 

 下の城はあくまで「屋敷」。やはり本格的な城は「上の城」のようである。下の城の見学を済ませると上の城まで車で移動。自動車道が大手門のところまで通っているとのこと。

 大手付近の石垣

 車で登っていくと目の前に立派な石垣が見えてくる。これは予想外のもの。思わずテンションが上がる。駐車場で車を止めると城郭見学である。案内図によると城域は東西に延びており、本丸はやや西寄りにある模様。これによると先ほど車を停めた場所は馬屋となっている。

現地案内看板より

 城内に入ると最初に目に入るのは池。これは堀のようなものというよりは、山城に不可欠な水を蓄えていたように思われる。今ではこの周辺は公園のようになっている。

 

 ここから東に向かうと東二の門を抜けて広大な武者溜に出る。ここは最近になって整備したのか、木の切り株が多数残っている。恐らくそれ以前は鬱蒼とした森になっていたのだろう。例の「お登勢」の際に整備でもしたのだろうか? 武者溜の先には東一の門の跡もある。

左 東二の門跡を抜ける  中央 進んだ先は広大な武者溜  右 東一の門の跡らしきものが

 また池のところに戻ってくると本丸を目指す。本丸は何段かの石垣の上になっているが、この石垣がかなり立派。なおここの石垣も近年になって積み直しや木の伐採を行った跡がある。この整備によって城跡がかなり立派さを増したのだろうと思われる。

左 本丸手前の石垣  中央 ここは多分門の跡  右 本丸の石垣

本丸登り口

 本丸へはかなり立派な石段が続いている。しっかりと本丸虎口の構造も残っている。本丸上は観光地化しているようで、観光客も結構来ているし、かなりボロいながらも茶店もある。疲れた私はここでラムネを一本頂く。

左・中央 本丸虎口を抜けて上がると  右 正面に天守が見える

左 武者走台  中央 本丸内には朽ちかけた茶店が  右 石垣上は展望ポイント

 本丸石垣上に登ると洲本の町から海までを一望できる。格好のデートスポットなのかなぜかカップルも多い。ここから横を見たところに建っているのが件のインチキ天守。

 三熊山は洲本を見下ろす位置にあり、洲本の市街地からはあらゆるところから見える。それだけにインチキで良いから天守を建てたかったのは下から見ていると分からないでもない。ただここに来て見てみると明らかに安っぽい。

  

件のインチキ天守は間近で見るとかなりチャチくてボロい

 なお現在この天守は、コンクリートに亀裂が入っていることが見つかったために立ち入り禁止になっている由。補修工事を行うとのことだが、いっそのことこの機会にもっとキチンとしたものに建て替えればとも思うのだが、そこは予算の問題もあるのだろう。実際に天守台の立派さから推測すると、かなり立派な天守閣が鎮座していたはずである。また国の史跡になっている以上、今からいい加減な天守を建てるわけにはいかず、そこは何らかの資料に基づいた復元である必要があるのだが、その資料が十分にないのかもしれない。ただ周辺の石垣などの遺構はかなり立派であるだけに、ここに立派な木造復元天守が建てばかなり観光資源としての価値も出ると思うのだが・・・。

左 本丸搦手口  中央 北に向かうと  右 視界が開ける 恐らく西登石垣はこの下

左 本丸石垣下を南に回り込むと  中央 搦手口の虎口跡が  右 そこから西に進んだところに籾倉跡

 天守台の見学の後は、本丸の搦手口から降りて西の丸に向かう。西の丸は城跡案内図には載っていなかったが、本丸の西側の籾倉のさらに先にある。籾倉の先は明らかに城門の遺跡があったことから、西の丸は城域の一部というよりは完全な独立曲輪だったのだろう。

左 籾倉の先に門跡らしきものが  中央 そこを抜けて西に進む  右 途中から登り道

左 突然公園のようなものが開けると西の丸  中央 曲輪だった証拠に西端に石垣が  右 加工跡がある石

 西の丸までは数分歩くと到着する。現地は中途半端な公園整備がされた跡らしく、朽ち果てたベンチがゴロゴロ転がるかえって侘びしさを感じさせてしまう場所。これならもっと遺構のままにしていた方が良かったような・・・。ただここの西端にも石垣がキチンと残っていることから、ここが曲輪であったことは確認できる。

左 南の丸  中央 大手口側に降りる  右 大手口の石垣

 再び戻ってくると、南の丸の横を通って駐車場へ。洲本城は全国的に見るとかなり知名度は低いが、こうして見てみるとかなり立派な城郭であり、十分に100名城の資格もあるように思われる。それにも関わらずそれが検討された様子がないのは、100名城選定時にはまだ整備が不十分で現地が荒れ果てていたか、あのインチキ天守が大きなマイナス評価となったかのどちらかだと思われる。なお現状でも私の続100名城には余裕で当選であるが、もし天守が木造復元されれば100名城にも推薦したい(笑)。

 

 洲本城の見学を終えると山を下りて洲本ICに向かう。しかし山道は立派であるのに、それに接続している町中の路がまさに路地ばかりで、途中で車で立ち往生しそうになって当惑する。昔の城下町の名残なのだろうか。ようやく洲本ICに到着すると、再び橋を渡って神戸へ。しかし京橋ICで高速を降りた途端に、目的地にはたどり着けないことが判明した。どうやら今日は神戸祭で三ノ宮周辺が大規模に交通規制されているらしい。おかげで周辺で車は大混乱。元神戸市民としては神戸祭を忘れるとはとんだ失態である。

 

 この事態を受けてこの後の予定の続行は不可能と判断、結局はそのまま帰宅することと相成ってしまったのである。なんとも尻切れトンボな遠征となってしまった・・・。

 

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