展覧会遠征 水郡線編

 

 さて新年に突入である。とは言うものの、どうも心身共に本調子ではなく、何となくまだ正月ボケが抜けない感じ。ここはやはり通常ペースに戻すためには、通常ペースの行動をとる必要があろう。というわけで、この週末の三連休は遠征へと繰り出すことにした・・・えっ?理由があまりにもこじつけくさいって・・・まあ物事にはすべて大義名分というものが必要なわけで、その場合はその内容の正当性はさして問題ではない・・・オイオイ。

 さて目的地であるが、実はその選定において重要な要素が一つある。それはこの三連休に青春18切符を使いきる必要があるということである。東北新幹線開通のドタバタの煽りなどで発売発表がかなり遅れ、「いよいよ廃止か?」との噂までたった今年(去年と言うべきか?)の冬の18切符だが、何とか無事に発売されたのは良いが、なぜか有効期間が例年よりも10日間も短縮されるという変更があり(次年度に廃止になる予兆との説もあるが)、有効期限が1/10までと非常に使いにくい切符になってしまったのである。とりあえずは昨年の広島弾丸遠征などで2日分は消化したが、3日分がまだ未使用のままである。これをこのまま放置などということは、私の主要行動原理である貧乏性から許されるはずもない。

 この時期の目的地選定となると、やはり積雪リスクを考えないわけにはいかない。本来なら「東北・九州方面強化年間」という目標に従って東北遠征と行きたいところだが、雪のことを考えるとあまりに無謀だし、そもそも3日間では東北には日数不足である。かと言って九州はつい先々週に訪問した直後の上に、運行本数や距離の関係で特急使用が前提の九州では、青春18切符は非常に使いにくい。これらの諸条件を勘案すると、ローカル線中心でドカ雪がないところが目的地ということになる。以上のデータを私の頭脳で演算処理したところ、導き出された目的地は水郡線沿線となった次第である。水郡線は先の北関東遠征でそのほんの入り口部分だけ視察しているが、なかなかに旅情を誘う路線である。また沿線の調査の結果、袋田の滝という名勝があることが判明、さらに棚倉城という城跡も存在し、目的地にはことかかない。また茨城県美術館で開催中の展覧会も加えると、そもそもの「展覧会遠征」という目的にも齟齬は生じない。

 直ちに例によっての分刻みの緻密なスケジュールが立案された。そして3つのプランを比較検討した結果、東京で前泊、翌朝から常陸大子に移動して一泊、そこから郡山経由で宇都宮で一泊してから最終的には東京方面の展覧会も押さえるという最もCPが高い(その分、例によっての強行軍になる)プランが採用されたのである。

 

 金曜日は定時に仕事を終えると、そのまま荷物を持って駅まで移動、そこから新幹線で一路東京を目指す。金曜の夜のせいか、はたまたやや遅めのUターンなのかは定かではないが、東京方面行きののぞみは乗車率100%に近い。窮屈な新幹線のシートに揺られているうちに、仕事の疲れも出てきてウトウト。気がつけば東京に到着していた。

 南千住に移動すると駅前で夕食。南千住周辺も再開発か高層ビルが建っており、テナントが入居しているのでそこで夕食。可もなく不可もなくのいかにもチェーン居酒屋。面白味も旨味もないが、東京では下手なところに入るとどうしようもない(まずいとか言う以前に喉を通らないようなものさえ平気で出てくる)ので、そのことを考えればまあマシか。

 この日は東京での定宿「ホテルNEO東京」で宿泊。どうせ寝るだけのホテルなので、大浴場で入浴すると、さっさと床に就いたのである。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時に起床するとさっさと支度をして7時前にはチェックアウト。まずは常磐線で水戸を目指すことにする。どうせならグリーン車にでも乗ってみるかとチケットを購入したのだが(SUICAで)、到着した勝田行きの列車は何と途中の土浦でグリーン車を含む後ろ10両を切り離すという。これではあまりに意味がないので普通車の方に乗車、グリーン券は水戸で払い戻すことにする。

 今更ながら常磐線車両

 常磐線は何度も乗っているが、いつも特急なので普通で行くのは初めてである。取手辺りまでは下町の住宅地というイメージ。茨城に入った辺りから田園風景になってくる。牛久の手前で一瞬、頂に雪の積もった優美な山が見える。シルエットから富士山かと思ったが、やっぱりいくら何でも遠すぎるような・・・。しかし帰ってからネットで調べてみたら、やっぱり富士山だった模様。この日はかなり晴れていたので、はるばる富士山まで見えたらしい。さすがに日本一の山。

 途中で車両を切り離したり、特急に追い越されたりなど2時間近くを要してようやく水戸に到着する。みどりの窓口でグリーン券を払い戻してもらうと(払い戻しは現金になるらしい)、ロッカーにトランクを放り込むとタクシーで美術館に移動する

 


「さよなら滝平二郎 −はるかなるふるさとへ−」茨城県立近代美術館で1/10終了

 独特の風情ある絵柄で知られる切り絵作家・滝平二郎の回顧展。彼は茨城の出身で2009年に没している。

 私は子供の頃から彼の作品はあちこちで目にして記憶にあるが、その頃から何となく版画的な図柄だなとは感じていたのだが、彼がそもそもは木版画家であったということは本展で初めて知った。そう言われると、あの独特の硬質で太めの輪郭線が木版画由来のものであると納得できるのである。

 版画ではなくて切り絵になったことで、画面的にはコントラストがハッキリとしてシャープさが増す。しかし彼の作品自体は、そのシャープな画面とは対照的に叙情的な光景を描き始めるのである。彼の作品には絵本挿絵なども多く、本展ではそれらの作品も展示されている。

 そこに描かれている光景は、懐かしい日本の原風景であるのだが、いつの時代にも本質的には変わらないはずの家族の姿というものも含まれている。この心温まる感覚が彼の作品がいつまでも人気のある理由なのだろう。

 

 なお彼の名前であるが「たき・へいじろう」ではなく「たきだいら・じろう」とのこと。失礼ながら私は長年勘違いをしていた。


 「モチモチの木」の挿絵が展示されていたのが妙に懐かしかった。私は小学一年生の時にこの本の読書感想文を書かされたことがあるのだが、その時の担任が読書感想文とはどういうものかさえも知らない馬鹿(何しろ彼女の頭の中では「読書感想文=本のあらすじ」だったようだ)で、散々苦労させられたことを思い出した。このせいで私は文章を書くという行為に完全に自信をなくし、小学校低学年の間はまともに作文を書けないという羽目になったのである。結局は小学校高学年になった頃に、私の文章が悪かったのではなくて教師の方が馬鹿だったんだということが分かり、ようやく作文が書けるようになり、中学生の時には新聞委員をやることになるのである。教師とは決して偉い人ばかりではないという世間の厳しい現実の洗礼にいきなり晒されたほろ苦い記憶である。

 

 美術館の見学を終えると駅まで戻るが、歩くには少々距離があるし、かといってタクシーを呼ぶのはもったいないのでバスで移動することにする。予定よりも早めに駅に到着したので、軽く食事でもと思ったが駅周辺の店はまだ開いていない。仕方ないので諦めてコンビニでおにぎりを2個買い込んでおく。

 水戸駅に到着するといよいよ水郡線での移動になる。到着したのは2両編成のキハE130系。水郡線はローカル線のイメージがあったのだが、想像以上に乗客が多く車内には立ち客もいる状態である。しばらく列車はそのまま田園風景の中を走行、常陸太田行きとの接続駅である上菅谷でかなり大量の乗客が降車する。

 次に大量に降車があるのは常陸大宮。沿線が田園風景なのもこの辺りまでで、ここから先は山岳の風景へと転じていくことになる。沿線の人口密度はこの辺りから激減していくが、所々に集落があり、それらの間の乗り降り客もそれなりにあるので、車内に乗客が絶えることはない。

 沿線はこんな感じ

 終着駅手前の袋田で大量降車。彼らの一部は駅前で待っている袋田の滝行きのバスに乗り込む。私はとりあえずここを通過して終点の常陸大子まで乗車する。

 袋田駅で大量降車

 常陸大子は山間の観光地の駅というイメージ。ここから観光周遊バスで袋田の滝を目指すことにする。が、その前にとりあえずはトランクをどこかに置いて身軽になりたい・・・と思ったのだが、なんと常陸大子駅にはコインロッカーがない。実のところ私がわざわざ常陸大子まで来たのは、この辺りの観光拠点であるこの駅ならロッカーぐらいはあるのではないかと思ったからなのだが、その期待は見事に裏切られたのである。ロッカーの有無についてはネットで事前にいろいろ調べたのだが、結局は情報を得られずに終わっていたので、一抹の不安は抱いていたのではあるが、仮にも観光中心の町でこうも見事に肩すかしを食おうとは・・・。とりあえず今後の人のために銘記しておく「常陸大子駅にはコインロッカーはない」。コインロッカーに荷物を置きたいと思う人は、常陸大子駅では無理である。「大きな荷物を持つ人は、常陸大子駅にはコインロッカーがないことに注意しておく必要がある」。これぐらい書いておけばグーグル検索で引っかかるか(笑)。

  

常陸大子駅と駅前のSL

 仕方ないのでトランクをゴロゴロ引いたまま周遊バスに乗車、とりあえず周遊バスの一日乗車券を購入してから、そのまま袋田の滝を目指す。それにしても土曜日だというのに、バスの乗客は私しかいない。

   バスで駅前を抜けていく

 袋田の滝には数分で到着する。しかしバス停は滝のかなり手前にあり、バス停周辺もトイレとベンチがあるだけ。バスターミナルならもしかするとロッカーぐらいはという一抹の期待は無惨に粉砕される。ここはバスターミナルではなくて、ただの田舎のバス停である。仕方なくゴロゴロとトランクを引きずりながらしばし歩く羽目になる。基本的にここは車で訪問するのが前提になっているようで、バス停よりも先に有料駐車場があり、それよりも先にさらに土産物屋の駐車場がある。

   バス停と土産物屋街

 土産物屋街を通り抜けるとようやく滝の入り口に到着する。チケットを購入する時にトランクを預けられるところがないか聞くが、素っ気なく「ありません」と言われる。大子は観光に力を入れている地域だと聞いていたのだが、どうもイマイチ感が漂う。鉄道とバスで来るような貧乏人はどうでも良いということだろうか。

  

 袋田の滝はここからまだ奥にあるので、観瀑台までは長いトンネルを抜けていくことになる。トランクをゴロゴロと引きずっているが、幸いにしてバリアフリーにはなっているようだ。しばしトンネルを歩いた突き当たりに第一観瀑台がある。トランクを引きずりながらようやくそこにたどり着いた私は、眼前の光景にしばし唖然として言葉をなくす。

     

 半分凍結した巨大な滝が目の前に広がっていた。水の奥に見える岩肌は長年の浸食で磨かれたのだろう。何も知らなければモルタルで作ったのではと思われるぐらいなめらかになっている。すべてがとにかく巨大で、頭の上から滝がのしかかってくるような印象である。それは想像もしていなかったような迫力であった。実のところ袋田の滝の写真はいくつも見ていたのだが、この圧倒的な存在感や空気感はこの場に立つまで想像もできないものであった。と同時に、写真による表現の限界を感じるのだった。百聞は一見にしかずとは良く言ったものである。それと同時に、ここまでの散々な有様にいささかイライラが心に蓄積していたのが綺麗に晴れていくのも感じられた。大自然の前には人の世なんて儚いものだ。

   

 第一感瀑台の奥にはさらにエレベーターで上がる新たな観瀑台も出来ており、そこは滝をやや上から見下ろすような位置にあるので、滝の奥を見晴らすことが出来るようになっている。こちらもこちらでなかなかのものだが、やはり滝のとてつもない迫力は、第一観瀑台の方が感じられる。なおこの滝は四季によって風景が変わるので、4回訪れる必要があると西行法師が言ったとされているが、何となくそれも納得できる。新緑の中や紅葉の中で流れ落ちる姿も見てみたい気がする。なお現地のタクシーの運転手によると、やはり一番混雑するのは秋の紅葉シーズンだとか。

  

 滝の見学を終えた後は路線バスで袋田駅まで戻り、列車で日立大子まで移動する。ここからまた周回バスで郊外にある日帰り入浴施設の森林の湯に行くつもりだが、まだ若干の時間があるので市街の見学をすることにする。

 

 大子町は観光に力を入れているというが、町並みはそれなりに昭和レトロ的な風情はある。ただシーズンオフなのか活気がイマイチ。街角美術館やレトロ館に立ち寄ったのだが、街角美術館は単なる画廊のような雰囲気だったし、レトロ館はなんとまだ正月休み中。どことなくイマイチ感が漂ってしまう。

  

街角美術館にレトロ館

 そうしているうちに周回バスの時間が近づいたのでレトロ館前のバス停から周回バスに乗車する。しかしまたも乗客は私一人。よっぽど乗客がいないのか、バスの運転手が一日乗車券を購入した私の顔を覚えていて、乗車の際にも顔パス状態。何やらこの路線の将来が危ぶまれるが、オンシーズンにはもっと観光客が訪れると期待しよう。

 

 バスに乗車すること十数分で目的の森林の湯に到着する。ここはまさに森の中にある温泉。施設自体はそう特別なものではないが、開放感のある大きな露天風呂が売りになっている。泉質はナトリウム−硫化物−塩化物泉で低張性アルカリ泉である。肌に触れるとヌルヌルとする。なお内風呂に入った途端に塩素でも硫黄でもない甘ったるい奇妙なにおいがすると思えば、内風呂はリンゴ風呂、泡風呂がお茶風呂になっていた。ただ湯自体は露天の方が良かった印象。なお一つ気になったのは、露天風呂から山の斜面がもろに見えており、山上から丸見えではないかと感じられたこと。女湯の方はどうなっているのかは分からないが・・・。なおその山の斜面は結構急ではあるが、今の私には到底無理にしても、体重が今より遙かに軽く、脚力・腕力共に今よりあった中高生時代の私なら、登ることが不可能でもない斜面に思われた。

 森林の温泉

 温泉を堪能すると、バスが引き返してくるまでにはまだ時間があるので、休憩室で一休みしつつかなり遅めの昼食としてけんちんそばを注文する。かなり具沢山のそばで、正直なところそばはそれほどでもないが、野菜がうまい。なお奥久慈シャモ入りとのことだが、本当にシャモかどうかは私には分からない。

  

 遅れすぎの昼食を摂って一休みしていると、帰りのバスの時間がやってくる。このバスで今日の宿泊ホテルの近くのバス停まで移動する。宿泊ホテルはホテル奥久慈。伊東園グループが経営するホテルである。ホテルはやや高台にあるので、バス停からもかなり坂を上ることになり、どっぷり疲れてからようやくホテルに到着する。ホテルはいかにも一昔前の豪華ホテルというイメージ。伊東園グループは、熱海などで経営に行き詰った豪華ホテルなどを買い取り、徹底した合理化経営を行っていると以前に「ガイアの夜明け」で見た記憶がある。実際、このホテルでも夕食及び朝食はバイキング形式で、元々はバーだったのだろうと思われる部屋は無料カラオケルームになっている。なお私が宿泊したのは別館のほうのセミダブルベッドを置いたビジネスホテル形式になっている部屋。温泉旅館は未だにお二人様からのところが多いので、一人でも宿泊できるのは大きなメリット。また宿泊料もビジネスホテル並である。ただ昨年末に宿泊した人吉の朝陽館と違って、ビジネスホテル形式が中途半端なので、部屋でインターネットはできない上にデスクもないというのが私には難点。実は常陸大子駅に戻って来た時、もう面倒くさいから森林の湯はやめにしてさっさとホテルに入ってしまおうかとも考えたのだが、そうしなかったのは今から考えると正解だったようだ。早々とホテルに入っていたら暇を持て余したろう。

 

 チェックインして部屋で一休みすると、すぐに夕食の時間が来たので夕食会場に向かう。なお私は夕食つきのプランにしていたが、これは正解だったと思う。と言うのも、車で来ていないと夕食を摂りに出かけられそうにないからだ。つくづくこの辺りは車一辺倒社会である。

 夕食はかつての大広間にテーブルを並べたバイキング会場で摂ることになる。私が到着した時には既に会場は戦場状態。こんなに大勢宿泊していたのかと呆れるぐらいの人数が、皿を持ってウロウロしており、もう少し出遅れていたらテーブルがないところ。なお私がいつも宿泊するようなビジネスホテルと違って家族連れが多い。よって、メニューの内容も家族連れに向くものになっていて、子供のためにはロールケーキなどのお菓子が、お父さんのためにはアルコール類飲み放題なんてのもある。ただ私にとっては、ウーン・・・。奥久慈こんにゃくやイナゴの佃煮などご当地色のメニューも一応はあるものの、料理的には正直なところファミレスレベルか。個人的にはどこかでボタン鍋でも食べたかったところ。なお子供が多い状態でのバイキングというのは、極度な潔癖症の者には向かないのでそれは要注意(私はほどほどに無神経なのだが)。

 軽く食事を済ませると早速風呂へ。風呂は内風呂と露天風呂の構成で、泉質的には先ほどの森林の湯のものに近い。なおもう既に日が沈んでいるので、このシーズンのこの時間にはさすがに露天は少々寒い。

 

 風呂を終えて部屋に戻ってくると、懸念していたとおりに見事にすることがなくなってしまった。部屋でインターネットはできないし、PC作業をしようにもデスクがない。やはり私には温泉旅館は相性が良くないようだ。仕方ないのでテレビをつけてみると、テレビ東京お得意の温泉&旅番組をやっている。例によってくだらない番組をやっているなと思いつつボーッと見ていたのだが、先日に訪問した鹿児島やら山口の湯田温泉やらとかなり馴染みのところが出てきたり、今後訪問する予定の町が登場したりで気がついたら最後まで見てしまっていた。ただ鈍行列車で温泉入りまくりの全く余裕のない旅で、出演者(スター錦野から芳本美代子や田中律子など「あの人は今」的なタレントまでいたが)は「大変」を繰り返していたが、私には普通の旅に見えてしまったのは何とも。よくよく考えてみると、私の遠征っていつもこのレベルだった。しかも彼らは芸能人でテレビ番組と言うことで明らかにいろいろと便宜を図ってもらっているが、私の遠征はパンピーでスカンピーだから、あんな便宜は図ってもらえないし、あんな良いホテルになんて泊まれない。ところで番組の紹介では日本を南から北まで縦断して50の温泉に入るはずだったはずが、最後に武田修宏&元木大介というこれまた微妙なコンビの旅が悪天候(北海道の猛吹雪)で中断になってしまって、結局は46温泉で終わり(しかも最終目的地に到着せず)なのをそのまま流しているというトホホ感はいかにもテレビ東京というか・・・。

 テレビを見終わるともう11時近く。しんどいのでさっさと寝ることにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時前に自然に目覚めてしまった。どうも最近、睡眠力が衰えてきたのか(それとも鬱か?)中途覚醒や早朝覚醒が多い。目覚めてしまったものは仕方ないので、朝から風呂に行く。今朝は氷点下らしく、露天風呂周辺は床が凍っている。おかげで入浴者は内風呂ばかりである。朝から温泉で体を温めると、「あー、いいなぁ」という言葉が自然に出てくる。つくづく朝寝朝酒朝湯で身代をつぶした小原庄助氏の気持ちも分かるような気がする。

 風呂から上がって一息つくと朝食。朝食もバイキングだが、昨日の夕食のような大混雑にはなっていない。とりあえず和食を腹にたっぷりと詰め込む。朝食を摂ってからしばらくまったりすると、8時半頃にチェックアウト。さすがに昨日で懲りたのでタクシーを呼びだして駅に移動する。朝の空気は切れそうなほどに冷たいが、朝からたっぷりと温泉に浸かった効果か、私は全く寒さを感じず、むしろ汗ばむぐらい。

  

 郡山行きの列車は発車の10分以上前にホームに4両編成で到着する。これの前2両が切り離されて郡山に向かうようだ。車内は座席の確保には全く困らないが、そこそこの混雑。しばらく後に列車は発車する。常陸大子からしばしの間は沿線は深い山。渓谷などが目を楽しませてくれる。それを抜けて東館辺りからは平地になってくる。ちょうど山間の盆地に集落があるというところ。その盆地の中を進んでいると磐城棚倉に到着。ここで途中下車することにする。

山を越え、田んぼを抜けて磐城棚倉駅に到着

 磐城棚倉で途中下車したのは、ここにある「棚倉城」に立ち寄るため。棚倉盆地の中央のこの地に築城したのは丹羽長重で、それまではこの地の城は北部の山上にあった。しかし時代は既に江戸時代。戦国の世ならともかく、これからの時代は城下町を開ける地のほうが築城に有利であると判断したのだろう。その後、転封などで領主が点々とするが棚倉は常に6万石程度の小藩である。幕末にここの領主となった阿部正静は、会津などの大藩に半ば強要される形で奥羽越列藩同盟に加担するが、同盟軍の防御の拠点であった白石城が新政府軍の攻撃の前に陥落、一転して最前線にさらされることになってしまう。そもそも平時の城として築かれた棚倉城を守って小藩の棚倉藩が戦い抜くことは土台不可能なことであり、阿部正静は城に火を放って逃亡したとのこと。このために棚倉城に建造物は一切残っていないが、現在でも内堀及び本丸土塁が残存していると言う。

 棚倉城(亀ヶ城)址

 磐城棚倉駅は観光地ムード。しかしながら、トランクを置いて身軽になりたいと思ったのに、ここにもコインロッカーはない。それに観光案内所らしきものもない。なぜ水郡線沿線には、明らかに観光地であるにもかかわらずこういうポイントをはずしているところが多いのだろう?

 棚倉城縄張り図(現地案内看板より)

 やむなくトランクをゴロゴロと引きずりつつ棚倉城跡を目指す。棚倉の町は普通の田舎町というところだが、どことなく元城下町の風情は残っている。街路を抜けていくと突然に幅広い水路に行き当たるが、それが棚倉城跡とのこと。

左 棚倉城の内堀と土塁  中央 搦手口  右 入口の奥に虎口跡のような構造が

 思っていた以上に立派な堀があるし、幅広い土塁が残っている。本丸はこの土塁の中にあったと思われるが、現在は図書館などが建っている。私は北側の搦め手口の側から本丸に入ったが、搦め手の虎口跡と見られる構造も残っている。

左 本丸土塁  中央 土塁の幅はかなり広い  右 土塁の高さも高い

左 土塁のこのような位置はかつての櫓跡だろう  中央 本丸には図書館など  右 こちらは大手口の虎口跡

 トランクを引きずりながら土塁の上を歩いてみる。土塁は幅数メートルあって、高さもかなりのものである。これだけ立派な遺構が残っているとは感動ものである。もっとも、明らかに城郭としての規模は大きいものではなく、確かに平時の城であると感じられる。この城で、ましてや砲撃戦が既に一般的になりつつあった幕末では、篭城したところで守りぬけるものではなかったろう。

  

追っ手門跡と街角に立っていた謎の櫓

 土塁を半周して大手口の側に回りこむが、こちらにもはっきりと虎口の構造が見られる。ここから堀を越えた外に追っ手門の遺構が発見された場所があるが、現在は遺跡保存のために盛り土されているようだ。

 かつてはこの奥の山上の赤館城がこの辺りを治める城

 予想外に見ごたえのある立派な城跡であった。ここも私の続100名城に合格である。城跡を堪能した後は市街地をプラプラと駅まで戻る。どうやら駅前で消防の出初め式があったらしく、消防団員と消防車と次々にすれ違う。駅に到着すると、次の列車の時間まではかなり余裕があるが、新たにどこかに出て行くとなると今度は時間が足りないので、駅舎内でばし時間をつぶしつつ(つまりはこの原稿を打っている訳である)列車の到着を待つ。待ちくたびれた頃にようやく2両編成の列車が到着。車内は結構混雑しており、座席の確保がなかなか大変になってきている。

 ここからの水郡線沿線は小さな盆地とそれを隔てる山岳との繰り返しになる。そして最後に山を越えて大きな盆地に出れば、それが郡山盆地。終点の郡山はもうすぐである。この頃には車内は各駅で拾った乗客で満員で立ち客も結構いる状態。水郡線は途中で人口がかなり閑散となる地域もあるが、概ね常に乗客はそれなりにおり、ガラガラのローカル線というイメージとはかなり違っていた。単両編成の車内に乗客が3人(しかも私以外の2人は明らかに鉄道マニア)という三江線などとは全く状況は異なっている。

 

 久しぶりに郡山に降り立つと、とりあえず大急ぎで昼食の店に向かう。次の列車までに1時間ない。今回昼食を摂ったのは駅前の郡山シティホテルのレストランでもある「maman」「ステーキランチ(1200円)」を注文。

 ビジネスホテルのレストランと少々侮っていたが、存外まともである。ボリュームもまずまずで駅前にしてはCPも悪くない。これは正解。

  

 昼食を終えて駅に戻ると次の移動になる。ここからは東北本線で宇都宮を目指すことにする。実のところ、以前に郡山−白石間は乗車しているのだが、白石−宇都宮間が未調査路線。そこでこの際にその宿題を片付けてしまおうと言う考え。

 しばらく待った後、黒磯行きの6量編成の列車が到着する。この郡山−黒磯間は、それなりに乗客が多いにもかかわらず、なぜか2両編成での運行というJR東日本による嫌がらせとしか思えない列車があり、地獄の2両編成とも言われている。実際に以前に福島から白石に向かう際にこれに遭遇し、ラッシュアワーの御堂筋線並みの混雑に嫌気がさした記憶がある。とりあえずその地獄の再現にならなかったことにホッとする。

 ほどほどの混み方のロングシートでぼんやり。白石までは以前にも乗車したように郡山盆地を下るだけである。しかし白石城を後にした辺りから標高があがり始めて山岳列車となる。風景に全く変化のない郡山盆地と違ってこの辺りはまずまず風景を楽しめる。

左 山の中を抜け  中央 新幹線が見えてくると  右 黒磯で乗り換え

 山を下って新幹線と合流すると黒磯。ここは交直切り替えの駅なので列車を乗り換え。宇都宮方面からやって来たセミクロスシート車の211系電車に乗り換える。次の駅が新幹線乗り換え駅の那須塩原だが特に何もないところ。駅周辺は次の西那須野の方が活気がある。なお黒磯−西那須野間は新幹線は東北本線とずっと併走しているので、那須塩原でなくても黒磯でも西那須野でも駅を作ることは可能である。噂によるとこの両者が激しく誘致合戦を繰り広げた結果、中をとって那須塩原になったとか。しかし黒磯、西那須野共に新幹線の駅を置くべき理由はあるが、那須塩原にはその理由は皆無。結局は中をとった結果、全く使いものにならない駅が出来ただけという全員が不幸になるという結論のような気がしてならない。日本では三方一両損の大岡裁きが名裁きと言われているが、実はあれって関係者が全員不幸になるというだけの話では・・・。

  

 もうこの辺りは関東平野の北端である。大して変化のない風景の中を列車は1時間足らずで宇都宮に到着する。JR宇都宮は2回目(宇都宮の街自体は3回目)だが、相変わらずゴチャゴチャした街である。とりあえずロッカーにトランクを入れると、今まで未訪問で宿題となっていた宇都宮美術館を訪問することにする。しかしこの美術館、かなりのはずれにある上に、バスは1時間に1本程度という非常に劣悪な環境にある美術館。何を考えてこんなところに作ったのだろうと余所者の身としては思うが、車社会化が著しい宇都宮ではこれは疑問を感じないのだろう。バスの発車までは30分待ちで、バスの所要時間は20分ほど、結局は現地到着は閉館の30分前になる。

 宇都宮駅前は相変わらずゴチャゴチャしている


「創作版画の系譜 日本近代版画の青春」宇都宮美術館で1/10終了

 日本においての版画の歴史は、浮世絵に代表される絵師と摺り師の分業体制によるもので、版画とはあくまで絵画を大量に複製印刷する手段のない時代における印刷手法に過ぎない面が強かった。これに対し、近代になって「自画・自刻・自摺」によって版画を単なる複製手段としてではなく、芸術的表現手段として追究する版画家の一派が登場する。これがいわゆる創作版画と呼ばれる流れである。やがて創作版画協会が設立され、多くの版画誌が創刊されるなど、この運動はやがて巨大なうねりとなっていくのであるが、そのような創作版画の流れについて概観した展覧会である。

 最初期の版画はもろにヨーロッパ、特にアール・ヌーヴォーの影響を受けたものなどが多いが、やがては多くの潮流が入り乱れるようになり、まさに百花繚乱の様を示すようになっていく。一種のブームの発生であるが、ただその中で本来は独自に版画表現を追究していたはずの創作版画が、「稚拙で原始的な彫りこそが創作版画の味である」という安易な方向に流れた粗製濫造も始まり、混乱の様相を呈することになったようである。

 自刻自摺のせいか、繊細さを帯びた浮世絵版画と違い、かなり荒々しい味の作品が多かったような印象を受ける。正直なところ版画はあまり私の好みではないのだが、しかし作品の背後に垣間見える時代の活力というか、新たな表現に挑もうとする作家の意気込みなどというものが透けて見える作品も少なくなく、そういう点で非常に興味深かったところである。

 


 茨城県美術館の滝平二郎もそもそも版画家であったし、何やら版画づいた遠征になってしまった。

 企画展にコレクション展も加えて見学時間が30分しかなかったので、特にコレクション展の方はかなり急ぎ足の見学になってしまったが、この美術館のコレクションはかなり現代寄りということは感じられた。そのために個人的にはマグリット以外は印象に残った作品はなし。

 

 JR宇都宮までバスで戻ってくると、トランクを回収してから今日の宿泊ホテルに移動することにする。今日宿泊するのはキャッスルシティホテル。宇都宮中心部から若干距離があるのが難だが、大浴場付きで価格もリーズナブルなホテルである。

 それにしても以前に来た時も感じていたが、宇都宮は車社会であるというだけでなく、運転マナーも壮絶に悪い。信号の変わり際に猛スピードで車が通り抜けるなんてのは常態だし、ウインカーを出さない車線変更なんてのもあり、駅前のバス専用レーンに平気で車を停めてモタモタと乗り降りしているなんて輩もゾロゾロ。しかも今時、遠くから珍走団の珍音が聞こえてくるというかなり恥ずかしい状態。正直なところ、これだけで街の印象はかなり悪い。

 

 とりあえずホテルに荷物を置くと、夕食のために出かけることにする。とは言うものの、宇都宮の中心まではやや距離があるし、もう疲れているし、正直なところ遠くまで食事のために出かける気はしない。このホテルの周辺を食べログなどで検索しても飲食店は皆無なのだが、実は私は既に飲食店に目星をつけている。このホテルの裏手にそば屋があるらしいことを、ホテルに来る道中で案内看板で見つけていたのである。しかもその看板を見た途端に何やらビビッと感じるものがあったのである。そこでそのそば屋「藪蕎麦」を訪問する。

 店はまさに裏通りと言ったところにあるが、店自体は最近に建てたのか結構綺麗である。入店すると休日のせいか、それとも昼食と夕食の時間帯の狭間の微妙な時間帯のせいか、客は私だけである。注文したのは「カツ丼(970円)」「鴨南そば(730円)」

 しばらく待つとまずはそばから出てくる。そばは細身のそばだが、温そばにも関わらずしっかりと腰のある上質のもの。下手なそばは温そばにするとフニャフニャになるところだが、ここのそばはそうなっていない。出汁の味も良く、東京そばに多いただ単純に辛いという出汁とは違うようである。やはりこれは正解だったとこの時に確信する。

 一気にそばを完食すると、カツ丼が出てくる。当然ながらカツは揚げたての熱々。味付けだが、若干の甘口でありもろに私好み。これも一気に平らげる。

 私のうまいものセンサーもまだ錆び付いていなかったようである。それにしてもやはり食べログなどの口コミサイトは全く当てにならないということをつくづく感じる。とにかく自分の舌で味を判断しない輩が多すぎる。そのためにあの手のサイトでは「何でこんな店が?」という高評価店が続出することになる。とにかくネットや情報誌で評判が高いということになると、そこの店はおいしいはずだと考えて来店し、味も判断できずに頭からおいしいと思いこむ輩が何と多いことか。中には「あんなに評価の高い店をおいしくないと感じるのは、あなたの感覚がおかしい」というような、頭がどこかおかしいのではないかと感じるような批判をする輩までいるようだし(どれだけ他人の評価が高かろうと、自分がおいしくないと感じれば、それはおいしくないのである)。船が難破して海に飛び込むことになった時、船員が日本人の乗客には「みんな飛び込んでます」と言うという小咄があるが、まさに日本人の悪しき一面である。

 

 夕食を終えるとホテルに帰還。大浴場で温まってから、マッサージチェアで体をほぐしてゆったりとくつろぐ。近くにコンビニ等がなく、立地が不便なホテルではあるが、ホテル自体はなかなかに私の欲求に合致しているようである。部屋に戻るとインターネットをチェックしつつ原稿執筆、疲れたところでそのまま就寝したのである。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝も5時過ぎに自動的に目覚めてしまった。これはいよいよ睡眠外来に行った方がよいか? 若干の眠さはまだあるが、今朝は早朝出発なのでもうこのまま起床する。とりあえずテレビで天候を確認。晴れるがかなり冷えそうである。ややフライング気味だが7時前に朝食を摂りに食堂へ。朝食は和定食でなかなかに美味。朝食を済ませると直ちにチェックアウト。東武宇都宮西口まで歩くと、そこからバスでJR宇都宮へ移動する。

 修復なった駅前の餃子像

 さて今日の予定であるが、まずはJR烏山線の視察、さらに烏山城の見学である。ロッカーにトランクを置くと烏山線のホームへ。烏山線は、宇都宮から二駅北の宝積寺で東北本線と別れ、終点の烏山までを結ぶ単線非電化路線である。ちょうど駅の数が7駅のことから、車両及び駅のシンボルが七福神になっている。しばらく待つと二両編成キハ40の烏山線直行列車が到着。布袋尊と寿老人の二両編成である。2ドアで内部は長大なロングシート車両。2両編成なのだが、休日のせいか乗客はガラガラである(平日なら通勤通学客がいるのかもしれない)。

左 布袋尊号  中央 寿老人号  右 内部はロングシート

 宇都宮を出た列車は、宝積寺で若干名の乗客を拾うと烏山線へ。烏山線は二駅目の小塙までは平野部を走行するが、その後は山岳路線の趣になり、山間の集落をつないでいくイメージ。終点の烏山の手前で突然に平地に出て、烏山がこの沿線最大の町のようである。

左 沿線風景  中央 福禄寿に  右 恵比寿神

左・中央 いかにも縁起の良さそうな大金駅は大黒天  右 滝駅の弁財天

 さてここから烏山城の訪問だが、烏山城はこの駅から若干の距離があり、正直なところ徒歩ではつらい。しかしそこは事前に調査済みだ。この駅では観光用に無料でレンタサイクルが借りられるとの話。駅員に頼んで所定の用紙に住所氏名などを記入すると、いわゆるママチャリを貸してもらえる。

   烏山駅は毘沙門天だった

 ママチャリで市街を北上する。烏山城登城口と書いた看板はいくつもあるが、事前の調査に基づいて七曲がりに通じている寿亀山神社を目指す。途中で郷土資料館に寄ろうかと思ったが残念ながら休館、やむなく先を急ぐ。

   休館中の郷土資料館内には大手門基石が

 寿亀山神社はかつての三の丸のところにある。「烏山城」はこの地域に勢力を張っていた那須氏の居城であり、戦国期には佐竹氏の攻撃をたびたび受けてはそれを退けを繰り返していたようだ。安土桃山期に那須氏は改易され、江戸時代には烏山藩の政庁になるが、城主は転々としたという(その間に那須氏が復帰した時期もあるが、結局はまた改易になったとか)。そのまま幕末を迎え、版籍奉還で廃城。1872年に三の丸御殿が積雪で倒壊、1873年には山上の建物が失火で焼失してしまったという。

左・中央 三の丸跡の石垣  右 神社の脇に登城路がある

 三の丸跡には建物はないが石垣などは残存しているようだ。意外と規模がある。登城口は神社の脇にあるので、そこに自転車を置いて七曲がりを上っていく。足下はかなり整備されており、道に迷わないように案内標識なども設置されてある。これなら山城初心者でも心配無用である。ただ私の場合、久しぶりの本格山城に情けないことに足腰と心臓が悲鳴を上げる。とりあえず一休みした方が良いかと思った頃に前方に車橋跡が見える。現金なものでこうなると急に俄然元気が湧いてくる。

左 登城口  中央 車橋跡  右 石垣

 さらに進むと石垣が見えてくる。これが大手門跡。私のような石垣マニアはこういう光景を見ると俄然燃えてくる(「萌えてくる」でも大して意味は変わらない気もするが・・・)。ここで道は二手に分かれる。一方は本丸に向かう道で、もう一方は本丸の下を回って西の十二曲がりに達する道。とりあえずは本丸に向かうことにする。

左 大手門の跡  中央 二の丸跡では通路が規制されている  右 何やら発掘中の様子

左 奥に本丸へ向かう階段が  中央 堀切の底を横切って旧本丸へ  右 旧本丸奥には土塁の痕跡が

 大手門を抜けるとすぐに二の丸(本丸)。結構広大なスペースだが、現在発掘中とのことで通路が規制されている。その通路に沿って奥に進むと、空堀を越えて旧本丸に進める。旧本丸も結構広大なスペース。周囲には土塁らしき土盛りがあり、その先は切り立った崖である。

左 大手門跡の下を北に向かうと  中央 東には塩倉跡  右 さらに先に進む

左 本丸方向の崖はかなり急  中央 厩跡  右 桜門跡

左 十二曲がりは下に下っていく  中央 ここを西に向かうと侍屋敷跡  右 北曲輪は鬱蒼としていてとても踏み込めない

左 振り返るとかなり急な階段が  中央 階段を登ると中城跡に出る  右 中城奥のここから登ると旧本丸

 大手門跡まで戻ってくると、今度は十二曲がりの方への道を進む。まずはいきなり南に広大なスペースが、塩倉跡との看板があるが、先ほどの二の丸が本丸になったのなら、ここは実質的に二の丸ではという気もしないではない。さらに先を進むが、下から見上げると本丸の崖がとんでもなく急で高いことがよく分かる。十二曲がりを進むと下山してしまうので、そこから西に回ると北側に侍屋敷との表記がある。小郭のようであるが、上がってみるとあまりに鬱蒼としていて進めそうにない。また南側にはかなり急な斜面に後付けの登り口がある。そこを上ってみるとかなり広大なスペースでこれが北の城らしい。ここを進むと奥にまた空堀を越えて後付けの登り口があるが、この上が先ほどの旧本丸である。この辺りでざっと1時間以上かかっている。再び七曲がりを下って、自転車を拾って三の丸を一回り見学した頃には帰りの列車の時刻が気になる頃になったので慌てて駅に向かって自転車で走る。

  

 駅に自転車を返すと、再び烏山線で宇都宮に戻る。待っていたのは弁財天と大黒天の二両編成。行きと違ってこちらは途中で次々と乗客を拾い、最終的にはかなりの人数が終点の宇都宮で下車する。

 

 宇都宮に到着したのは昼頃。本来ならここで昼食にしたいのだが、先を急ぐことにする。と言うのも、今朝から東海道新幹線に遅れが発生しているとの案内が駅にずっと出ており、気になっているから。ここでは全く状況が分からないので、とりあえずは東京まで移動したい。移動は宇都宮線の普通列車ということになるが、ここは常磐線のリターンマッチで、あえてグリーン車を使用する。これは好奇心もさることながら、実は先ほどの山城&自転車で腰の調子が不穏になってきたこともある。2時間近くの行程をギュウ詰めのロングシートだとどうなるか分からない。

左 二階建てのグリーン車両  中央 グリーン車二階席内部  右 ここでSuicaを認識させる

 SUICAでグリーン券を購入すると、上野行きのグリーン車両に乗車。グリーン車両は二階建てなので、二階の方に行くことにする。やや天井が低い感があるが、視点が高いのは気持ちいいし、さすがにシートも良い。しかしよくよく考えると、通乗客には最悪の車内環境を提供し、それを快適にしたければ追加料金を請求するとはかなりエグい商売ではある。JR西日本も、もし競争相手の私鉄がなかったら、今頃は新快速を全車グリーンにしているのでは。やはり資本主義には自由競争は不可欠である。

 

 疲労でウツラウツラしているうちに上野に到着、東京駅に移動してトランクをロッカーに・・・と思ったが、ロッカーがこれまた一杯。さんざんウロウロした挙げ句にようやく空きロッカーを見つける。

 

 身軽になったところで次の目的地へ。今回は「江戸城」を見学しておこうと思っている。実際のところ今まで東京には何度もやってきているにも関わらず、江戸城を訪問したことは全くないのである(一度だけ三の丸尚蔵館を訪問したことがあるだけ)。とにかく私は江戸城に対して城郭としての認識がほとんどなく、せいぜいが「巨大な公園」もしくは「移動の妨げ」としか感じていなかったのが本音である。また徳川家康のことがあまり好きではない(関西人にはごく普通の心情)ということも影響しているかもしれない。しかし最近、以前にはほとんど城郭として認識していなかった名古屋城・大阪城などを訪問して、改めて意外におもしろい城郭であるということを感じたことから、やはり江戸城についても正式に訪問しておく必要があろうと考えた次第である。

 東京駅を出るとそのまま西に向かう。最初に目に入ったのは和田倉門との表示。と言っても門があるわけでなく、巨大な枡形が残っているだけである。ただここを見るだけでも江戸城の並外れた規模はよくわかる。和田倉門の先には巽櫓と桔梗門が見えるが、ここからは入場できないので北の大手門をを目指す。

左 和田倉門  中央 門を抜けたところは公園  右 巽櫓(奥が桔梗門)

 大手門は以前に一度だけくぐったことがあるが、とにかく巨大な門である。ここの入り口で入場証を受け取って内部に入ることになる。巨大な江戸城で一般開放されているのは東御苑と呼ばれている部分で、かつての本丸及び二の丸、三の丸にあたる。これに対して、いわゆる皇居がかつての西の丸と言うわけである。

左 大手門遠景  中央 手前の高麗門  右 奥の櫓門 この二つの門で広大な枡形虎口を形成している

 まずは三の丸尚蔵館に立ち寄る。ここでは皇室所蔵の美術品などが展示されている。国民に愛される開かれた皇室ということで入場料は無料。私の訪問時には日本人洋画の展示が行われており、高橋由一、山本芳翠など。いかにも真剣に取り組んでいる作品が好印象。

 三の丸尚蔵館

 三の丸尚蔵館の見学を終えた頃から、目眩が洒落にならない状態になってくる。どうやら本格的にガス欠になり、血糖が下がってきているようである。昼食も摂らずに山城を駆けずり回ったのがこの期に及んでツケになって出てきたらしい。とは言ってもここには食堂はない。かなりやばいので、隣の茶屋によって、とりあえずの応急措置としてアイスクリームとジュースを摂っておく。

 

 これで少し持ち直したところで見学を続行。門の跡を抜けて二の丸方面に向かう。ここの門も大手門と同様に巨大な枡形虎口になっており、門を抜けたところの枡形内に番所が建っている。さすがに要所要所で侵入者をチェックしていたのだろう。かなり門が多く、守りは厳重という印象である。

左 門跡をくぐると  中央 同心番所がある  右 さらに先に進む

 二の丸は今では公園となっている。白鳥濠に沿って北上する。奥に見える本丸石垣はかなり巨大で高い。石垣に比するとこの堀はやや狭いような印象を受けるが、実は江戸期にかなり縮少されたらしい。初期はもっと広大な堀だったらしいが、江戸期になって防御の必要性がなくなり、城内スペースの拡張のためにかなり埋められたようだ。

左 百人番所  中央 二の丸奥へと進む  右 本丸石垣はかなり高い

 とにかく何から何まで規模が多い。こう言うところにつくづく呆れる城である。大体、ここに残っている部分だけでもとてつもなく巨大なのに、本来の江戸城は現在の東京の主要部をすっぽりと囲む規模だったのだから、とんでもない話である。江戸城はとにかく徳川家康が他の大名に対する嫌がらせとして天下普請で建てさせた城なので、何から何までが巨大である。門や石垣の類も巨大だが、それは使っている石の尋常でない大きさからもうかがえる。これだけの城を建てさせられたら、家康の狙い通りに各国の大名はかなり経済的に疲弊しただろう。

左 汐見坂を進む  中央 埋められたとはいえまだこの規模の白鳥濠  右 ここから本丸へ

 汐見坂を登って本丸へ抜ける。ここの巨大な枡形虎口になっている。本丸跡も広大な公園になっているが、その奥に天守台が見える。この天守台が遠くから見ても分かるぐらいにとてつもなく巨大。かつてはこの天守台上に五層の巨大天守がそびえて、徳川氏の権威を示していたようだが、その天守も明暦の大火で焼失、再建も検討されたようであるが、既にこの時代には天守に戦略的な意味はなくなっていたし、今更改めて徳川氏の権威を示すまでもなく幕藩体制は盤石になっていた上、何よりも幕府・大名共にかなり財政的な余裕がなくなっていたことから再建は断念されたらしい。

左 本丸奥には天守台が見える  中央 かなり巨大な天守台  右 天守台上も広大

 天守台に上ると広大な本丸を見下ろせる。かつてここには巨大な本丸御殿があったのだが、何しろ「火事とけんかが華」の江戸だけに、この本丸御殿も何度も火事で焼失している。そして幕末の1863年に焼失した時点で再建を諦め、将軍は西の丸御殿に移ることになったのだとか。その状態で江戸城は明け渡されたので、現在の天皇は西の丸を皇居にしているというわけである。

左 天守台上から見た本丸風景  中央 富士見多聞櫓  右 これが現存の富士見櫓

左・中央 中雀門を抜ける  右 大番所

 天守台の見学の後は広大な本丸をプラプラ。現存の富士見櫓のある本丸南端部まで回ると、中雀門を抜けて大手門に戻ってくる。とにかく巨大さに呆れた江戸城であったが、同時に非常に足にキツイというのも事実。特に山城攻略の続きだったために疲れが半端ではない。とは言うものの、東京の予定はまだこれだけではない。ほとんど死にかけている足に鞭打って次の目的地へと向かう。その途中でようやくおなり遅めの昼食(もう4時頃だ)としてトンカツ定食を食べる。

 これで人心地ついたところで最終目的地へと。

 


「カンディンスキーと青騎士」三菱一号館美術館で2/6まで

 

 19世紀末ミュンヘン、ここに登場したのがヴァシリー・カンディンスキーなどを中心とした「青騎士」と呼ばれる芸術家グループである。新しい芸術を目指す彼らは、保守的な画壇に拒絶されながらも独自の展覧会を開催し、やがてはアヴァンギャルドの潮流を作ることになる。第一次大戦で青騎士の芸術家達はミュンヘンを去り、ミュンヘンからこの運動は消え去ることになるが、一時期カンディンスキーのパートナーとして生活していたガブリエーレ・ミュンターはその後のナチス台頭下においても彼らの作品を密かに守り続け(ヒトラーは偏狂に現代芸術を否定していたので、多くの芸術家が迫害を受けた)、戦後にそれらの作品及び自作をミュンヘン市とレンバッハハウス美術館に寄贈した。本展はこのようなレンバッハハウス美術館の貴重な「青騎士」コレクションを展示したものである。

 カンディンスキーと言えば抽象絵画の祖として知られる画家であるが、本展はちょうど彼が抽象絵画に至る過程を追うような展示となっているので非常に興味深い。彼も最初から抽象絵画を描いていたのではなく、最初期は具象絵画を描いている。ただこの頃からかなり派手で印象的な色遣いなどが、後の抽象絵画につながる要素を感じさせている。やがてこの傾向が更に進んで、色彩の乱舞のような抽象絵画の代表作「コンポジション」につながるのであるが、その連続性がかなり興味深かった。つまりは今時の安直な自称アーティストが、自身の稚拙な技術の誤魔化しとして絵具をキャンバスに叩きつけた自称抽象画とは違い、明らかに真摯な芸術的探求の結果にこの形態に行き着いていることを再認識できるのである。


 抽象絵画の祖の展覧会だけに私にはどうかなとも思ったのだが、予想以上になかなかに面白い展覧会で、訪問した価値は十二分に感じられた。もっともカンディンスキー自身はかなり真剣に抽象絵画にたどり着いたのであるが、そこに示された作品自体は一見あまりに楽に見える形態のため、デュシャンの便器と同様に多くの怠惰な自称アーティスト達の逃げ場になってしまったのは難しいところである。

 

 これで本遠征のすべての予定は終了である。とりあえず大丸地下で土産物を購入する。しかし毎度の事ながら、ちょっと良さ気な洋菓子を見つけると神戸のメーカーだし、ちょっと良さ気な和菓子を見つけると京都のメーカーという具合で、東京土産を購入するのは意外と苦労する。関西人としては、東京土産がユーハイムや鶴屋吉信では悲しすぎるというものである。とは言っても虎屋の異常に高い羊羹なんて買う気もしないし(私も以前に食べたことはあるのだが、特にうまいとは思わなかった)。

 

 土産物を購入すると、トランクを回収して新幹線で家路へとついたのである。なお午前中にはあれほど「雪のために遅れあり」と繰り返し表示されていた新幹線だが、私が帰途につく夕方頃には完全に平常通りの運行となっていた。

 

 なんとなく鉄分多すぎの遠征になってしまったようであるが、一応は美術館も押さえているので良しとする。実のところ、袋田の滝と棚倉城は、あまりに水郡線沿線に何もないので無理矢理に入れたのが本音だったのだが、いずれも事前の予想をはるかに超える内容だったので、結果としては正解であった。また今まではビジネスホテルを中心に宿泊してきた私だが、遠征先が地方になるにつれて温泉旅館に近いところが増えてきている。ただ未だに温泉旅館は「お二人様から」のところが多いのが困りもの(JR西日本か?)。それにこういう宿は部屋に入ってしまってから暇を持て余して困る。まだまだ温泉でゆったりと湯治という心境には至っていないようである。確かに二人連れならそれでも良いのかもしれないが・・・。と言うわけで、私と一緒に温泉に行ってくれる女性については引き続き募集中です・・・悲しすぎるわ。

 

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