展覧会遠征 高知編

 

 さて今年も後残すところ一ヶ月となってしまった。今年中に行っておかないといけない場所と考えた時、脳裏をよぎったのは高知だった。と言うのは四国地区のJR及び第3セクターは完乗、琴電及び伊予鉄も完乗なのだが、高知の土佐電だけが未だにほとんど視察できていなかったからである。

 とは言うものの、鉄道マニアではない私が、土佐電に乗りに行くためだけに高知を訪れると言うのでは筋が合わない。そこでいろいろと調べたところ、高知地区には長宗我部元親ゆかりの岡豊城、さらには安芸城などが存在することが確認されたことから、この地域の未訪問城郭探訪がメインの遠征となることになった(ありゃ?美術館がどこにも出てこない)。また岡豊城、安芸城を訪問する関係から交通機関は車を使用することに決定。さすがに高知は日帰りだとしんどすぎることから一泊することにして、これで遠征計画の輪郭は作成されたのである。

 

 当日は早朝(未明の方が正しいか)の出発。山陽自動車道から瀬戸大橋を渡ると、高知道で一気に南国ICまで突っ走った。最近、私のカローラ2はエンジンがやや不調だったのだが、先日にオイル交換をしたためか意外なほどに順調に走行する。まだまだ元気なご老体である。

 南国ICで高速を降りると「岡豊城」はすぐそこである。岡豊城は辺りの平地を見渡す小高い山の上に存在している。岡豊城は現在は遺跡として整備されており、近くに歴史民俗博物館が建っている。そこの駐車場に車を止めると、まずは歴史民俗博物館の方から見学をする。

 高知県立歴史民俗博物館

 展示内容はまさに施設の名前のとおり。長宗我部に関する資料などはさすがに存在するが、その他の歴史系展示は考古時代から昭和レトロまでといった、どこの博物館でもよく見かけるパターン通りのものである。それにしても歴史博物館はともかく、民俗博物館というのはどうしてどこでも展示内容は同じなのか。

 博物館の見学を終えるといよいよ岡豊城の見学に入る。岡豊城は長宗我部氏の本拠であった城で、長宗我部元親はこの城を拠点として四国の覇者へと雄飛していったのである。岡豊城はこの辺りの平地を見下ろす高台の上にあるが、四国は山々によって分断されたこの手の小さな平地が多く、信州などと同様に中小豪族が乱立しやすい地形になっている。長宗我部氏の嫡男として生まれた元親であるが、幼少時は色白で軟弱、「姫若子」などとも揶揄されていたとか。そのためか初陣も遅くて20才を越えてから。しかしこの初陣においては自ら槍をとって大活躍、「姫若子」転じて「鬼若子」と呼ばれることになったとか。こうして頭角を示した元親は、次々と周辺勢力を平らげて、一躍四国の覇者として躍り出るのである。どうも彼は、一見軟弱な外観をしている者にありがちな「キレると恐いんです」というタイプだったのかもしれない。もしくはコンプレックスの裏返しか。伊達政宗といい、この時代に頭角を現すのは、こういうどこか危ないところのある輩である。

左・中央 東にある二の段 右 二の段からの風景

左・中央 堀を越えて進む  右 詰下段

左 ここから一段上がると詰  中央 詰  右 一段下が三の段

 博物館の横に岡豊城への登城路が整備されており、案内看板も設置と完全に史跡公園化している。一番高地にあるのが「詰」であるが、これがいわゆる本丸か。辺りを見下ろせる要地だが、面積としてはそれほど大きくなく、地方豪族らしく小規模な城であったと思われる。その下に二の丸、三の丸が存在、また虎口跡の石垣なども残存している。城郭自体はシンプルで、一番高台の詰めを二の丸、三の丸などの曲輪が取り囲む形。ウロウロしてみたところ、このような表示の出ていない小曲輪はいくつもある模様。

左 三の段の土塁・石垣跡  中央 さらに一段下が四の段  右 四の段の下が見晴台になっている

左 西方に見える小山が伝厩跡曲輪  中央 虎口跡  右 曲輪を囲む空堀跡

 少し離れたところに出城の伝厩跡曲輪があるというからそっちの方にも見学に向かう。途中でどんどんと道が下っていくから不安になって再確認するが、そっちで正解の模様。そこでさらに進むとようやく竪堀跡に到着し、そこから西方に急な登りがある。その頂上が曲輪跡。確かにここは岡豊城を守るための要衝であり、本城の二の丸などと指呼の間にある。ここが落ちるようだと落城も近いというところか。もっとも攻め手としては、ここを攻略できても頭上からもろに矢玉を食らう形になるだろうから、攻撃の足がかりとしては使いにくそうである。

左 竪堀  中央 さらに先に西に登る道が  右 登った先が伝厩跡曲輪

左 曲輪全景  中央 西方をかなり見晴らせる  右 四の段下の見晴台がそこに見えてます

 岡豊城の見学を終えた後は、ちかくのうどん屋で昼食(セルフうどんだったが、これは店の選択を誤った)、次の目的地へと向かう。次の目的は土佐電鉄の視察である。この近くには土佐電鉄の東の終着駅である後免町駅があるので、そこから西の終着駅である伊野まで一気に視察しようという計画である。土佐電鉄は以前の高知訪問時に高知−桟橋通五丁目までの区間と県立美術館−高知城前区間は乗車しているのだが、後免線と伊野線の両端部分が全く未乗車だったので、この際にその宿題を片づけておいてやろうという考えである。

 後免町駅の駐車場に車を止めると、まずは鏡川橋行きの列車に乗車。ここからの軌道は路面軌道と専用軌道が入り交じったルートだが、複線になっている上に、路面軌道部分も道路中央ではなくて道路端を通っており、交差道路の数も多くないので信号が少なくスピードが比較的出る区間となっている。

 幅広道路の中央を走るようになるのは橋を渡って知寄町三丁目から。ここからは周囲が住宅地から繁華街に雰囲気が変わってきて、車の量が急増するとともに信号も多くなり、列車の進行が急に時間がかかるようになる。高知の中心街のはりまや橋を過ぎると、高知城の前を通過、鏡川橋までは広い道路の中央を走ることになる。

鏡川駅で乗り換え。それにしても平仮名で「ごめん」と書かれると謝られているようだ

 私の乗車した列車は鏡川橋行きなのでここで乗り換え。ここからは土佐電鉄は単線区間になるので、運行本数が一気に減少するようで、ここでしばしの乗り換え待ちとなる。しばし待った後にやってきたのは朝倉行き。とりあえずこれに乗車するが、ほぼ垂直に折れて鏡川を渡った路線は、ここから先がすごいことになる。当然のように路面区間を通ることになるのだが、ここの道路が非常に幅が狭く、なんと東行き車線が線路の真上を通っているという究極の併用軌道となる。そのために車内から見ていると、正面から車が接近してきて、直前になって道路脇に待避するという光景が繰り返されることになる。周囲が込みすぎているので道路の拡幅ができないが、一方通行にするわけにもいかないのでこういうことになっているようである。慣れている地元の車は良いが、他県ナンバーの車など勝手が分からずに混乱して右往左往している。

左 線路が完全に片側車線と重なっている  中央 正面から車がやってくる  右 電停と言っても道路のど真ん中
 

 朝倉で下車。と言ってもホームもなく、道路の真ん中が緑に塗ってあるだけ。車は普通に通っているので正直なところかなり危ない。道路脇に待避するとそこには待合室のような建物は一応ある。ここから先はさらに本数が減って、伊野に行く便は1時間当たり2〜3本程度のようである。

左 伊野行き列車が到着  中央 JR朝倉駅前を通過する  右 この山の上に朝倉城がある

左 単線区間ではタブレット交換がされているようだ  中央 沿線風景  右 終点の伊野駅
 

 しばし待った後、ようやく伊野行きの列車が到着したので乗り込む。しかし一向に発車する気配がない。どうやら対向車との行き違いのための待ち時間のようである。鏡川橋−朝倉間には短い区間に交換設備が2カ所あるが、ここから先は終点の伊野までの間に交換設備は一カ所しかないため、これがまた本数が極端に減少する一因になっているようだ。もっともここから先は沿線は急激に郊外化していくので、乗客もそう多いというわけでもなさそうである。列車はいかにも郊外道路という雰囲気の道の端を走行。ただ線路をまたいだ先に店がある場合が多いので、時々ボヤッとした車が線路に乗りだしてきて列車が警笛を鳴らす場面も。

 結局は途中で2回も乗り換えがあった関係もあり、終点の伊野までは2時間弱を要して到着する。これから再びこの路線で引き返すのも正直だるい。時刻表をチェックしたら、今からJRの伊野駅まで急げば、何とか高知行きの普通列車に間に合い、高知でごめん・なはり線と乗り継げそうである。とにかくJR伊野駅に急ぐ。

    

 JR伊野駅で待っていたのは単両編成の1000形気動車。内部は片側がロングシートで反対側がボックスシートという変形セミクロスで、別名「さらし台シート」(ボックス席に座っていると、横からロングシートの客にもろに見られる形になるので)。車内はかなりガラガラ。列車は後から来た特急南風にここで追い越されるとエッチラオッチラと発車する。

 土讃線はこの辺りは単線非電化。特急南風はここを高速で突っ走るが、普通列車はかなり鈍重な走りである。また高知までに意外と駅数が多く、市街の中を走っていた土佐電と違って、あまり何もないところを走る印象。ただ学校は多いようで、駅ごとに学生を拾って車内は混雑していく。やがて住宅が増えてくると高架に転じてようやく高知に到着する。

 

 向かい側のホームで待っていたのは、ごめん・なはり線のタイガース列車。黄色と黒の派手な色彩が目眩を呼ぶが、中には金本や安藤の写真が。アンチタイガースだったら気が狂いそうな車両である。私もアンチタイガースとまではいわないが、タイガースはあまり好きではないので愉快とは言い難い車両である(基本的にメジャー球団は嫌いだが、タイガースについては昔にファンに「関西人のくせにタイガースファンでないのはおかしい」と言われ続けたことへの反発が大きい)。

タイガース車両とその内部

左 ここまで乗車してきた1000形気動車  中央 後免町駅のごめんまちこさん  右 後免町駅遠景

 学生を満載した車両は、高知を出ると東へ何もないところを突っ走る。途中で特急とのすれ違い待ちなどで時間を食いながらようやく後免駅に到着、ここからはJRと分かれてごめん・なはり線のエリアである。目的地の後免町はすぐ隣の高架駅である。ようやく後免町まで戻ってきた。かなり接続はスムーズだったはずだが、これでも1時間弱の行程となっており、後免町−伊野間はイメージよりも遠いようである。ただやはり路面電車については、この距離を乗り通すことは想定しておらず、基本的にははりまや橋を中心として西行きと東行きは別個に考えているのだろう。これで四国地区の鉄道路線は完全視察完了ということになるが、鉄道マニアではない私としては疲れたというのが本音か。

 

 さてようやく後免町に戻ってきたところで次の予定だが、まだ2時頃と時間に若干の余裕があるので、いくつか用意していたプランの中から、一番遠くに繰り出すことにする。目的地は安芸。世間的にはタイガースのキャンプ地としてしられている町であるが、ここには安芸城が存在している。安芸城はかつてこの地を治めた安芸氏の居城であり、戦国時代に勢力拡張を目指す安芸氏は隣接する長宗我部氏と小競り合いを繰り返していた。しかし一条氏と結んで長宗我部元親の岡豊城を攻めた時、逆に総崩れになってしまって安芸城を攻められる羽目になり、籠城して抵抗するも内通者が井戸に毒を入れる始末で、とうとう長宗我部氏に屈してしまったとのこと。その後は元親の弟の香宗我部親泰がこの城に入城したが、関ケ原の合戦後に長宗我部氏が改易されてからは、山内氏の重臣の五藤為重がここを居城としたという。なお当時は一国一城令があったので、山のふもとに屋敷を構えて「土居」としたとのこと。

安芸の街並み 右は武家屋敷跡
 野良時計 ちなみにこの建物は民家で私有物らしい

 車で走ること1時間弱で安芸に到着する。安芸の市街地は当時の城下町の面影が残っており、路地が入り組んだ奥に安芸城跡が残っている。城下町地域のはずれにある野良時計駐車場に車を止めると、徒歩で見学に繰り出す。途中には武家屋敷跡なども残っており、非常に風情がある。

 「安芸城跡」は今でも石垣や土塁が残っており、五藤氏が整備した屋敷の面影が残っている。門跡を抜けて中に入ると、内部には歴史民俗資料館と書道美術館が建っている。書道の方は全く興味がないので歴史民俗資料館を見学。内部はこの地に関連した人物に関する展示(私の訪問時には岩崎弥太郎を特集)、またよくある「昭和時代の生活に関する展示」などがあったが、なぜか一室がタイガース資料室になっていた(いきなり星野監督の胴上げ写真が飾ってある)。

   

歴史民俗資料館と書道美術館

 書道美術館はどことなくお城的な外観の建物。これも一種のインチキ天守か。なおそもそもの安芸城は土居跡の奥の山上にある。書道美術館の脇に登山ルートがあるのでそこから登ってみることにする。

左 登城口  中央 登城路は一応整備されている  右 少し登ると曲輪跡らしきところに奥の小高いところは櫓跡か?
 

 山上は一応の整備がされており下草なども払われているし、元々そう高い山でもないので登ることに困難はない。もっとも情けないことに、私は日頃の運動不足が祟って、少し山道を登っただけですぐに息が上がる惨状。岡豊城との連チャンが足に来てしまっているようである。

左 さらに登ると 中央・右 本丸跡と思われる平地に出る

左 平地の奥が一段低くなっている  中央 降りてみると段のところに石積みの跡が  右 これは山の麓石垣

 途中には曲輪跡らしき平地があり、山頂には本丸跡と思われる平地がある。この平地は奥は一段低くなっており、その間にはかつては石垣があったような形跡がある。この低い部分は二の丸だろうか? ただ何にせよそう規模の大きい城でもない。大勢力の拠点の城というイメージではなく、せいぜい前線基地レベルの印象である。実際に長宗我部氏の支配化にはいった後は、阿波攻略のための前線基地であったのであるが。

 

 これで今日の予定は終了である。宿泊地である高知まで車で戻ることにする。帰り道は途中で渋滞があったりなどで予定以上に時間がかかり、高知に到着したときには既に日は西に傾いていた。

 今回の宿泊ホテルはホテルファースト。以前にも宿泊したことがある低料金の非常にCPが高いホテルである。大浴場付きで簡素ながらも朝食もつく。難点は禁煙ルーム設定がないこととインターネットがやや遅いことか。

 

 ホテルにチェックインして車を置くと、すぐに夕食に繰り出すことにする。よくよく考えてみると、今日は朝方にうどんを食べただけなので非常に空腹である。夕食を摂る店であるが、遠くまで繰り出すのも探し回るのも面倒なので、適当に目に付いた店に入店する。入店したのは「おもてなし処 恩」という店。

 

 飲み物はウーロン茶をオーダーしてから、とりあえずは高知に来るとこれを食べないと嘘になるので「カツオの塩タタキ」を注文、後は目についたところで「カワハギの刺身」「牡蠣の酒蒸し」を注文。

 カツオはさすがに高知。また塩タタキはさっぱりしていてうまい。さらにカワハギはやはりうまい刺身。特に肝は絶品。牡蠣もやや小振りだがまずまず。これでこの店の実力のほどは大体分かったので追加注文をする。

 

 次は「ウツボの唐揚げ」。以前にウツボのタタキを食べた時は鳥と魚の中間のような味と感じたが、これについてはスルメの唐揚げに近いイメージ。次は「レンコンの饅頭」を注文。これはいわゆるあんかけで、中にはウニらしきものが入っている。表現しにくい味だが、なかなかに美味。

 そして最後は「カツオ茶漬」けで締め。新鮮なカツオに出し汁をかけた茶漬けが何とも絶品。以上で支払いは5700円。まずは妥当なところ。

 

 夕食を堪能するとホテルに帰還。屋上の露天風呂でさっぱりと汗を流し、この日は早めに床に就いたのであった。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝の目覚めはあまり良くなかった。四十台にして老化が始まっているのか、どうも最近は睡眠が浅いことを感じるのだが、この日も夜中に目が覚めることがあり(どうも良くない夢を見たらしく、ストレスでもかかっているのか)、朝も予定よりも早い目覚めとなってしまった。仕方ないのでしばらくゴロゴロしてからシャワーを浴びて、朝食を摂りにホールに出向く。朝食はパンと飲み物にサラダ程度のもので和食派の私には寂しい限りだが、洋食派にはこれで十分だろう。私も今後の行動を考えてやや多めのパンを腹に入れておく。

 

 朝食を終えるとホテルにいても仕方がないので、予定よりも早めではあるが8時前にチェックアウトする。とりあえず今日の予定はまずは朝倉城の訪問。朝倉城は先日に土佐電で通った朝倉駅の南西方向にある山の上にあった城で、1520年頃に本山梅慶が築城した城郭だという。土佐に勢力を張った本山氏にとっての拠点の城であるが、その後に長宗我部氏との争いが激化、梅慶の子の茂辰の代の時にこの城を維持することが困難と判断して廃城となったという。こうして見るとこの城が使用された期間はそう長くないのだが、最前線の城と言うことでそれなりの規模を持つ城郭であるらしく、近年も発掘が行われているらしい。

 

 とりあえず車で現地に向かう。高知大学の横手に朝倉城跡を示す標識が出ているのでそこから入るが、とにかく道は狭い路地で車一台通るのがやっとというところ。やがて公民館に突き当たるがそこから先は車で行くのは困難そうなのでそこに車を置いておく。ちなみに以前にこの城郭を訪問した者の記事では、公民館の駐車場に車を置いたという記述があったりするのだが、そういう人間が多いのか公民館の駐車場には駐車禁止の表示が出ていたので、なるべく邪魔にならなそうな場所に路駐することにする(何にせよ長時間の駐車は不可能である。もっともそう長時間停めるつもりはないが)。

  途中の道路はこんな調子

 ここからさらに奥に歩いていくと朝倉城東登り口の標識が立っているのでそこから山に入る。しかししばしそこを歩くとまず行き当たるのは畑。畑の脇を歩くような形になるので「本当にここが登城路か?」と疑問を抱きつつも、間違って畑に踏み入らないように足下を気を付けながら先に進む。

農道のような道を進むと登城口の標識があるが、その先は畑のような場所

 畑を抜けると山道らしき通路に出る。一応は足下の整備はされているようだが(下草などは刈られたのだろうと思う)、途中には落ちたら洒落にならないだろうな思われるような土橋があったりなどとかなりワイルドな雰囲気。

 ちなみに冬は山城回りには適したシーズンである。まず山城回りの大敵であるマムシ、スズメバチ、熊などの活動が鈍るし、木々の葉が落ちることで見通しが良くなる。さらには山登りしても汗まみれにならなくて済むことなどがある。もっとも当然ながら良いことばかりではない。まず日没が早くなるのでスケジュールが非常にタイトになるということがある。さらに落ち葉が足下に降り積もることは、それだけ足下が滑りやすくなるということである。これについては気を付けないと最悪の場合は命に関わる可能性もある。ここの場合も落ち葉には注意する必要があるが、周囲がかなり竹林化しているので落ち葉自体は多くはない。

左 落ちたら洒落にならない土橋  中央 やや開けた場所もある  右 進路を竹に阻まれる

 先に進むと曲輪跡らしき開けた場所に出る。ここに案内看板が出ており、一応は間違いなく登城路を進んできたことが確認される。なおここのところで道が分岐になっているので、帰り道でルートを間違えないようにキチンと周辺の風景を確認しておく。

 ここからさらに本丸跡(詰めの段)に向けて登る。この辺りは路面に石が轢いてあるのだが、これが果たして当時の遺構か、それとも後世のものなのかは定かではない。ここを進むと行く手を遮るように竹が倒れている。しかし意図的に進入禁止にしているような風ではないので、ただ単に自然に倒れた竹がそのまま放置されているだけなのだろう。実際、ここに来てから人っ子一人見かけない。さすがにあまりにマイナーな城跡だけに訪れる人も少ないか(また時間もかなり早いし)。

左・中央 登り切ったところで開けた場所に出るがここが本丸  右 本丸跡につきものの神社

左 西側に降りていく急な段がある  中央 降りたところは多分空堀の底  右 ここから先は鬱蒼として踏み入ることはためらわれる

 ようやく開けた土地に出るとここが詰めの丸跡。かなり堅固な防御を巡らせた城だが、詰めの広さ自体はそう広くない。やはり日常的な居城と言うよりは戦のための城だったのか。現地案内板によると、ここの西方に堀切があって、その先に詰め西の段があるとのことなので、急な階段を降りて堀切の底まで行ってみるが、そこから先は鬱蒼として踏み込めそうにない。無理に先に進んでこんな人気のない山で事故でも起こしたら大変なので無理をせずに引き返すことにする。

 どうやら私のような城郭初心者が踏み込むにはレベルが高すぎる城郭か。最低限の整備はされているが観光地という雰囲気ではないので、本格的に見学するなら山城探検隊でパーティーを組む必要がありそうだが、個人活動中心の私にはそういう同好の士はいないので無理な話だ。さすがに熊はいないと思うが(と言いつつ、常に辺りの物音に注意を配っているのは言うまでもない)、イノシシでも出たら洒落にならん。

 

 登った道を逆に辿って車まで戻ってくると、近くにある朝倉神社に立ち寄っていく。ここの本殿は重要文化財とのこと。拝殿の後ろに極彩色の派手な建物が見えるが、これが朝倉神社の本殿。参道筋をJRの線路が横切っているというとんでもない状況で、私の訪問時には参拝客もなくてひっそりとしているが、由緒正しき歴史ある神社らしい。

 

 朝倉神社の見学を終えると車で高知市街まで戻ってくる。予定よりスケジュールがかなり早く進んでいることから、ついでに高知城でも立ち寄るかと思ったが、高知城周辺は車が異常に多くて駐車場はおろか道路上まで車が溢れている状態なので、ここは車で訪問するべき場所でないと判断して次の目的地に移動することにする。

 


「坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち」高知県立美術館で12/12まで

 

 龍馬ブームにあやかって強引に坂本龍馬の名前を冠しているが、内容的には龍馬とはほとんど関係ない企画である。幕末の土佐においては、絵画の世界でも多くの才能が出現したりなどとかなりめまぐるしい時代を迎えていた。そのような時代を代表する芸術家達の作品を紹介。

 最初は御用絵師の狩野派の画家達の作品などが登場するが、形式化が進みすぎている狩野派の絵画にはあまり興味が湧かない。面白いのはむしろ芝居屏風など。ここで活躍したのが絵金。元々彼は狩野派の技法を習って若くして土佐藩の御用絵師になった天才画家だが、贋作騒動に巻き込まれて職を追われる(これについては嫉妬によって嵌められたという説があるようだ)。高知を離れて市井の画家となった彼は、芝居絵などを手がけつつ、多くの弟子も育てたという。卓越した技術に裏打ちされた彼の芝居絵は、いかにもの誇張表現を使っても下卑た感じにならず、外連味に満ちてはいるが小気味よさを感じさせる爽快なものである。

 

 明治以降は百家争鳴な感がある。多くの画家が洋画・日本画共に方向性を模索していた時期であり、多くの実験的作品も登場している。そのような時代の雰囲気を感じられて面白い。

 


 

 さてこれで予定していたイベントはすべて終了である。とは言うもののまだ昼前。このまま直帰するのはあまりに素っ気ないような気がする。そこでどこか立ち寄るところはと考えたがあてがない。ここから車で行けるところと言えば龍河洞があるが、わざわざもう一度訪問する意味をあまり感じない。その時に頭に浮かんだのがアンパンマンミュージアム。とにかく四国はやなせたかしの支配下にあるので、あちこちでアンパンマンを見かけるが、その総本山を訪ねたことはない。まあオッサンが一人で行くべきところかに非常に疑問があるのだが、どうせすることもないのだから話のネタに野次馬でもしてくるかという気が起こる。

 

 アンパンマンミュージアムは高知から車でしばし走った山の中にある。かなりの山奥だが道は整備されており、そちらに向かっていかにも家族連れの車が多く走っている。物部川沿いをダムを通り過ぎたりしながらしばし走行。やがてそこを抜けると開けた土地に出るがそこが香北町。山間ののどかな集落だが、今はアンパンマンを核に観光開発に力を入れている雰囲気である。

アンパンマンミュージアム外観 屋上のアンパンマンはたまに現れるものらしい

 駐車場に車を止めて辺りを見学するが、とにかく子供連れが多い。アンパンマンの集客力は侮りがたいものがあるようだ。ここまで来たついでだからアンパンマンミュージアムにも入館する。窓口で「大人一枚」と言うと、「お一人様ですか?」と確認されるが、そこは取材に来ているフリーの記者ですという風で「ええ」と簡単に答えておく。

 普通の美術館と違って、館内は子供の歓声に満ちており、バタバタと走り回る子供など賑やかそのものである。またやなせたかし氏の意向で館内は撮影可なので、あちこちで記念写真を撮っている家族連れがいる。まさにここは子供の天国。正直なところやかましい子供は嫌いな私だが、こういう空間では不思議に子供の元気さが微笑ましい。

 ただ実際はここは単なるお子様遊園地ではない。実際のところは作品としてみた場合、アンパンマンをモチーフとしたイラストアートとしてなかなかに完成度が高く、そういう観点で見ても実は結構楽しめる施設だったりする。正直なところ私はやなせたかし氏を見くびっていたのか。

 

 昼食のために近くの産直売り場のようなところを訪れるが、メニューはなぜかカレーなどの類しかない。産直売り場でカレーというのも風情のないものだが、仕方なくカツカレーを注文。嫌な予感はしていたが予想通りお子様向けの甘甘カレーで私の好みではない。まあここは子供の国なので仕方ないか。

 

 ここに来る途中で道路脇に「夢の温泉 一般入浴歓迎」という表示を見ていたのが記憶にあったので、帰りはそこに立ち寄ることにする。夢の温泉は川沿いのごく普通の旅館。ここで入浴料を払うと浴場で汗を流す。温泉自体は特別な浴感はなく、どことなくさら湯に近い雰囲気。ただ加熱循環ではあるが塩素臭はほとんどしない。また私が入浴時には先客1名だが、ちょうど入れ替わりのようなタイミングになったので浴槽独占でゆったりと汗を流した。泉質的には特筆すべきものはないが、ゆったりとくつろぐには良いところという印象。

    温泉からはこの島が見える

 これで全予定が終了ということで後は高知道を突っ走って帰るのみ。途中で休憩のために豊浜SAに入ると、何やらサービスデーとかで全品2割引セールなるものをにぎにぎしく行っているので(まるでスーパーである。ろくなことの起こらなかった自由化政策であるが、SAの自由化だけは成功したと思う)、土産物を買い求めて帰宅と相成った。

 

 半分以上思いつきに近い遠征だったのだが、それなりに楽しめた内容となった。なお関西ではこの週から寒波が到来していたので、ダウンジャケットなども持参したのだが、さすが南国高知と言うべきかむしろ暑いぐらいの気候であり、ダウンジャケットどころかジャンパーさえ不要な局面も多々あった。ちなみにこういう過剰装備気味で行けるのは車での遠征のメリットである(鉄道による遠征、特に飛行機を含む場合は装備は最小限にする必要がある)。

 とは言うものの、久しぶりの長距離ドライブは肉体的よりも精神的には疲労があったというのが本音。特に高速では運転には不安がないが、公営暴力団によるノルマ達成のための悪質なかつ上げが横行しているので、そちらに余計な神経を使わされ安全運転がおろそかになりかねない。つくづくあの連中は事故防止なんかよりも、本音はむしろ事故増進を行いたいようである(実際に事故がなくなると、仕事がなくなって困るらしい)。

 

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