展覧会遠征 島根編3

 

 さてこの週末は三連休だが、連休があれば遠征というのは社会の常識?である。問題は目的地であるが、諸々の条件を考慮した結果、行きつけと言って良い山陰にすることにした。主目的は足立美術館で行われる横山大観展。元より足立美術館は大観コレクションで知られているが、そのコレクションを一堂に展示した10年に1度の規模という触れ込みなので、これは見に行くべきであろう。とは言ってもこれだけだと二泊三日の日程の意味がない。そこで中国地方最後の未視察100名城である吉田郡山城を絡めて、山陰から広島方面へと移動する大遠征とすることにした。

 

 今回は目的地の一つに山城が含まれることから、移動には車を使用することにした。久しぶりの車での長距離遠征である。朝から我が愛車の老カローラ2を駆って中国道と米子道を突っ走る。正直なところ非力な上に老朽化の進んでいるカローラ2ではアップダウンの激しい中国道や米子道はしんどいのであるが、それでも流れに遅れずにかっ飛ばす。まだまだ頑張るご老体である。三連休なので道路が混雑していないかが心配だったが、特に渋滞もなく予定通りに目的地に到着する。まずは立ち寄ったのは米子。米子城が見える街を走り抜けると米子市美術館に到着。

 前方に米子城の石垣が見える


「生誕100年記念 所蔵作品による 辻晉堂展」米子市美術館で10/3まで

 鳥取に生まれ、彫刻の分野で活躍した辻晉堂の作品を集めた展覧会。

 辻晉堂は当初は木彫りから始めたのであるが、それがやがては陶土に彫刻を施してから焼いて仕上げる陶彫という世界へと変化をしていく。それと共に当初は具象的な作品が中心であったものが、抽象的造形へと変化を遂げていっている。彼の作品はキュビズムを立体化したような印象で(とは言うものの、キュビズムとは本来は三次元を平面上に投影するために登場した表現手法なので、キュビズムの立体化というのも実は妙ではあるが)、立体のある側面をバラバラに再構成しているような手法のようである。

 ただその割には妙にユーモラスで親しみやすく、例えば彼の「蛙」という作品では、造形自体はとても蛙には見えないのだが、グルリと見回していると確かに蛙そのものに見えてきて、思わずにやりとせざるを得ない。この親しみやすさこそが彼の作品の一番の魅力とも言えよう。


 米子を後にすると山陰道を経由して安来に。山陰道は現在無料化の社会実験中である。やはり無料が効いているのか利用者は結構多いが、車は一応はスムーズに流れている。安来で降りると目的地の足立美術館まで。

 


「真髄を究めた日本画家 横山大観展」足立美術館で11/30まで

 

 同館が所蔵する130点の大観作品の中から、選りすぐりの76点を全館を使用して展示した大展覧会。

 初期の朦朧体の作品から、晩年の円熟の境地に達した時代の作品まで代表的な作品を一堂に眺めることが出来る。特に山海二十題については、同館が所蔵している8点すべてが展示されているのでこれは一見の価値がある。

 日本画の帝王とも言われる画家であるが、題材に富士を好んだことからもうかがえるように、威風堂々とした作品が多く、特に戦時中には戦意高揚も絡んでその傾向が顕著である。ただ意外にもっと日常的なテーマを描いた作品にのびのびとした良作も多く、戦後の晩年などは何かが吹っ切れたような軽快さが画からうかがえるのが、作者の心境の変化というものであろうか。技巧的には行き着くところまで行ってしまった感があるのだが、精神的な充実が画に現れるようである。


 足立美術館は新館がもうすぐオープンとのことです。

 さてこれで初日の主目的は終了である。と言ってもまだ昼過ぎ。これからどうするかであるが、実はあまり細かい予定は考えていない。鉄道での遠征は綿密なスケジュールを淡々と実行していくことが重要であるが、車での遠征は出たとこ勝負のアドリブがものを言う。と言うか、細かい移動時間を読み切れないので綿密な計画の立てようがないのである。

 パターンから言えば島根県立美術館あたりが妥当なところなのだが、現在は企画展の狭間で常設展のみという状況。これだとわざわざ出かける意味があまりない。そこで浮上したのが松江城である。松江城は数年前に訪れたことがあるが、とにかくその頃は城郭に対する興味があまりなかったので、天守閣をサラッと見学して帰ってきただけという状況で、松江城に対する記憶はほとんどないというのが現実である。そこで改めて「松江城」を訪問してみようと考えた次第である。

 ほどなく松江に到着。県庁の駐車場が観光客に開放されていたのでここに車を入れて松江城を目指す・・・つもりだったが、この際だから堀川めぐりをしてやろうと思いつく。大手前広場の乗船場に行って次の船の時刻を聞くと、あと数分で次の船が出るとのことなのでそれに乗船することにする。

 遊覧船は小船に上下可能な屋根が付いたもの。4カ所ほどこの屋根をおろさないとくぐれない橋があるのだとか。定員は13名と書いてあるが、乗船しているのは私と5人組の家族連れだけ。全員出航前にガイドの合図で頭を下げる訓練をさせられる。

 コースは大手前の乗船場から出て、内堀をグルリと一周する周回ルート。まずは大手前周辺の立派な石垣の見える辺りからコースは始まる。松江城の石垣はこの辺りが一番立派である。なお松江城の石垣は実は大手周辺の一部だけであり、後は北から西にかけて自然の地形がそのままになっている。この理由については予算不足のためなど諸説あるらしいが、ガイドの弁は「西側にかけてはそもそも湿地体であり、とてもではないがそちら方面から攻撃を掛けれるような地形ではなかったから」ということである。

左 大手周辺の石垣  中央 城北の堀はかなり広い  右 白鳥が悠々と泳いでいる

 城北の武家屋敷などを眺めながら西に回れば堀幅がかなり狭くなる。これは市街地の城郭のご多分に漏れず、堀の半分が埋め立てられたからだとのこと。むしろ半分でも残っただけましと言えそうである。それはまだ堀が水運の通路として使用されていたからだという。しかしかつては生活用水にさえ使用されていた堀の水も、その重要性が低下するにつれてゴミの投棄などで水が汚れてドブ川化してしまい、何度も全面埋め立ての話が出たという。水路の再生に取り組まれるようになったのは比較的近年のことであるという。つくづくこの時に短絡的判断が行われなくて良かったものである。

左 城北にある武家屋敷  中央 西に回ると一転して鬱蒼  右 ここが一番の難所

 城の西側には一カ所、一番の難所がある。その通路を通る時は壁から数センチしか余裕がないというところであり、船はかなり注意しながらそこを通る。なお水位の上昇で船が橋の下をくぐれなくなり運休するということは、年に数日ぐらいあるとのこと。

左 城の南側は観光地ムード  中央 こんな橋もあります  右 城の東側は住宅地の裏

 南側は松江の繁華街やカラコロ横町などの観光地になる。そこの船着き場を通過すると城の東側へ。この辺りは民家の裏手を抜けていくようなコースになり、再び城の北側に出たところで堀はようやく本来の幅に戻る。またここからは天守を望むことが出来るので、船はしばし停船して天守鑑賞会。それが終わると大手前乗船場に戻って終了である。

  城北から望む松江城天守

 いかにもコテコテの観光コースであるが、船から眺める松江城というのもなかなかであり、実のところかなり楽しめた。運賃は1200円だが、その分の価値はあったように思われる。

左・中央 大手門跡を抜けると  右 番所跡を通り

左 二之門跡を抜け  中央 さらに階段を登ると  右 本丸の一の門に出る
 

 堀川めぐりを終えるといよいよ登城である。大手門から二の丸を経て本丸へと登る。以前の登城時はさんざん迷った挙げ句に裏口の北門から本丸入りしているので、このコースは取っていない。こうやって登ってみると、かなりの堂々たる城郭であると実感できる。

 

堂々たる松江城天守

 本丸に登ると目の前に天守がその姿を見せる。重厚な黒壁の天守はやはり感動を呼び起こされるものがある。実は先の訪問時も、松江城全体の記憶はほとんど残っていないのに、この天守の姿だけは強烈に印象に残っており、今でもたびたび夢に現れることがあるぐらいである。この時に「やはり現存天守はその風格が違う」と実感したことが、今日の城郭巡りの原点になっていたりする。この城が今日の私の原点(私の家族に言わせると、遊び人に新たな悪い遊びを仕込んだ悪の元凶)なのである。

左 天守脇にある祈祷櫓跡  中央 こちらは手前にある多聞櫓跡  右 両者の位置関係はこんな感じ

左 本丸から見下ろす二の丸下の段及び大手方面  中央 北の門脇の乾櫓跡  右 その南方にある鉄砲櫓跡
  

 例によっての急な階段に苦戦しつつエッチラオッチラと天守に登った後は、城域内を一回りする。城の南部は櫓などを復元して市街からの見栄えをかなり良くしてあるようである。なお復元櫓内には何やらゴチャゴチャと放り込まれており倉庫化していたが、ある意味でこれは櫓の正しい使い方でもある(本来、櫓や天守は見張り台の意味と倉庫の役割があったという)。

左 本丸東部の二の丸を回り込んでいく  中央 結構空間がある  右 これが下の段に続くギリギリ門跡

左 振り返ると北の門へ続く石段が  中央 天守を南方に見つつ進む  右 かなり堅固そうな北の門

 城の北側は神社があったり自然公園化している。なお北門から本丸に入るルートはかなり立派な石垣を目の当たりに出来て感動を呼ぶ。前回の訪問時には登るのに必死でこの石垣にはほとんと目を留めていなかった。実に勿体ない。

左 二の丸広場  中央 復元された南櫓  右 これは廊下橋(昔は屋根があったはず)
 

 城域を一周すると南の廊下橋(かつては屋根があったそうだ)を通って県庁に戻ってくる。実のところ、この県庁があるのはかつての三の丸跡だそうな。ここで車に乗り込むと今日の宿泊予定地である出雲を目指すことにする。

 車を走らせていると、前方にやけに迷惑な運転をしている車を発見。あまりに他の車のことをかまわないひどい運転ぶりに「なんだこの車は?」と思っていたら、やがて某カルト宗教の支部の建物に入っていく。運転は人格を反映すると言うが思わずなるほどと納得。なお経験的には、このような迷惑な運転をする車が入っていく建物で圧倒的に多いのはパチンコ屋である。やっぱりな・・・。

 

 出雲への道中の途中で「湯の川温泉」「道の駅湯ノ川」という表示が目にはいる。これを見た途端にビビッと思いついて、とりあえずは道の駅に立ち寄る。ここで土産物などを買い求めつつ情報をチェックしたところ、湯の川温泉には「ひかわ美人の湯」なる日帰り入浴施設があるようである。これは立ち寄らない手はないというものである。こういう思いつきの行動がとれるのが車による遠征の醍醐味でもある。

 

 美人の湯は「出雲いりすの丘」なる公園内に存在している。大きな露天風呂が売りになっている。ナトリウム・カリウム、硫酸塩・塩化物泉とのこと。施設には龍神温泉、川中温泉と並ぶ三大美人の湯と記載してあるが、まあこの手の「三大○○」は言った者勝ちなので割り引いて考えておいても良いだろう。

 露天には大きな露天風呂と脇に小さな石風呂があるが、この石風呂の方が源泉かけ流しのようであり、湯自体はこちらの方が力がある。湯はあたりがやさしい湯。弱アルカリ泉ではあるが、ことさらにヌルヌルするというタイプの湯でもない。露天でまったりとくつろぐというのが最適の施設である。

 入浴後は休憩室の方で一服。ちょうど「所さんの目がテン」が始まったので、それを見てから施設を出ることにする。ちなみにこの時のネタは「0カロリー食品」。0カロリー食品300品目食べ続けなんていうこの番組らしい過激な実験もしていたが、例によって番組から流れるいい加減な雰囲気に反して、実験自体は結構厳密に行っている。結果は体重は増加せず(というか微減)で、0カロリー食品は確かに太らないという証明。なおこの0カロリーのポイントは、砂糖の数百倍以上の甘みがある人工甘味料の使用。ただこの手の甘味料は甘さにクセがあるので(甘さはあっても嫌な味もあったりする)使いこなしが実は大変であったりする。

 

 温泉でさっぱりと汗を流した後は、再び車を飛ばして今日の宿泊予定地である出雲へと急ぐ。本日の宿泊ホテルは私の山陰での定宿、ホテルモーリス出雲である。

 

 ホテルにチェックインすると夕食のために町へと繰り出す。この時に入店したのは「山頭火」。やはりご当地ものと言うことで「シジミの酒蒸し」「ウナギの白焼き」さらに「ねぎま」を注文する。

 

 いずれも味はまずまず。ただシジミの酒蒸しはアサリよりも味は濃いものの、いくら大シジミと言ってもアサリよりは小さいことが災いして、食べにくい上に冷えやすいという難点があることも露呈した次第。なおこの店、基本的に飲み屋であるので、酒を飲めない私にはそれが最大の難点。とにかくドリンクワンオーダーを要求されて、一応コーラを頼んだが、これが料理には全く合わないことは言うまでもない。酒抜きで夕食をとれる店というのは残念ながらあまりないものである(特に地方ほどその傾向が顕著)。支払いは以上で3900円。まあ妥当な線ではある。

   

 夕食を済ませるとホテルに帰還。大浴場でゆったりとくつろいだ後、部屋でこの原稿を執筆しつつまったり。疲れたので夜はやや早めに床に就くのであった。

  

☆☆☆☆☆

 

 翌朝は6時過ぎに起床するとまずは朝食。ホテルモーリスはドーミーインと同様に朝食が充実しているのが特徴の一つ。この辺りが私がこのホテルを高く評価している理由である。朝食をたっぷりと腹に収めると8時半過ぎにチェックアウト。列車での遠征に比べるとややゆっくとした出発である。

 

 さて今日の予定であるが、今日は城廻をすることになる。大目的は吉田郡山城であるが、その前に浜田城に立ち寄る予定。出雲を出るとひたすら西に向かって走る。この辺りは高速道路がないので、山陰道が通っている江津まで国道を延々と2時間近く走行。時々海が見えたりする面白い道路ではあるが、意外に混雑しておりさすがにこれはなかなか疲れる。

 

 昼前にようやく浜田に到着する。目的の「浜田城」は浜田駅のやや西側の小高い山の上にある。浜田城は江戸時代初期に浜田藩の藩庁として建造された城であるという。浜田藩は小藩ではあるが、有力な外様大名である毛利氏の押さえとして重視されていたので、歴代藩主は譜代や親藩が務めたという。そのためかそう規模が大きい城ではないにもかかわらず、海を睨んだ三層の立派な天守がそびえ立っていたという。しかし幕末、大村益次郎率いる長州藩軍の攻撃を受け、最新装備の上に意気盛んな長州軍を前に浜田藩主・松平武聰は病に伏していたこともあり戦わずに逃亡、残された藩士達は浜田城及び城下に火を放って退却したとのことで、残念ながら「長州への押さえ」としての使命は全く果たされないままに終わってしまったのである。この際に建造物はほとんどが焼失してしまったが、今日でも石垣などが残存しており、一帯は城山公園となっている。

 現地案内看板より

 今は山の中腹に護国神社があり、そこの駐車場まで車で上がれると聞いていたのだが、肝心の上がり口がどこやらサッパリ分からない。結局は浜田城の周りをグルグル回った挙げ句に、護国神社の参道前に車を止めて歩いて上がることにする。なお上がり口は後で判明したのであるが、道路から横にそれる細い道であった。私はまさかこの道を車が上れると思わなかったので見過ごしていたのである。もう少し大きな案内でも出しておいて欲しいところだ。なお私が車を止めた参道筋入口は、車庫代わりに使用する不届き者でもいたのか「長時間の駐車お断り」の看板が出ている。私は短時間しか止めないのでここに置いたが、やはりなるべくこれは避けた方が良いだろう。実際、護国神社まで車で上がった方が楽でもあるし。

左 護国神社参道口  中央 登る途中に裏門跡がある  右 護国神社境内、浜田城はこの奥にある

 浜田城の遺構は護国神社の奥にある。大手門のような大きな門があるが、これは津和野藩屋敷の門を移築したもので、これはこれで立派なものであるが、実は浜田城とは縁もゆかりもないものである。

  これが移築門

 この門をくぐると石段を登っていくことになる。石垣は半分朽ちているがかなり立派なものである。二の丸門の虎口なども残っており、城全体の構造を把握しやすい。本丸を小規模の二の丸、三の丸、出丸などが取り囲む配置になっている。ただ一応下草刈りなどの最低限の管理はされているのだろうとは思われるが、頻度が少ないのかかなり鬱蒼としている部分もあって歩きにくいところもある。

左・中央 かなり立派な石垣が残っている中を登る  右 こちらが三の丸

左 二の門の虎口入口  中央 内部はかなり堅固な石垣を組んである  右 本丸方向登り口

  この部分の構造はこうなっている(現地看板より)

 本丸からは外の浦の港を見下ろすことが出来、この城が海を睨んだ要害であったことがよく分かる。本丸の隅にはかつての三階櫓の跡があるが、わずかに残っている石がその礎石だろうか。

左 本丸は広場になってしまっている  中央 海を一望できる  右 外の浦港

左 三重櫓跡  中央 これが礎石だろうか  右 当時の絵図(現地案内看板より)
 

 小規模な城であるが、海や川を外堀とした要害であり、決して防御力の低い城ではなかったと思われる。しかしながら銃も大砲も江戸自体初期とは比較にならないほど進化した幕末では、城の防御力のみに頼って戦うことは最早不可能であったのか。

 往年のイメージ図(現地案内看板より)

 全国的には無名に近い城であるが、遺構などにはかなり見るべきところが多く、期待以上に楽しめたというのが本音。この城も私の「続100名城」には余裕で当選である。

 

 浜田城を後にすると、いよいよ本日のメインイベントである「吉田郡山城」の訪問である。吉田郡山城は戦国期における毛利氏の本拠である。元就の代で山域全体に城郭が拡張され、この時に今日の形に整備されたという。毛利氏が中国の覇者へと雄飛した歴史を物語る城郭であり、100名城に選定されている。なお私にとっては中国地方の100名城で最後の未訪問の城郭でもある。

 浜田道から中国道に乗り継ぐと高田ICで下りてから山間をしばし走行、歴史民俗資料館に到着する。表には「選出日本百名城郡山城」という巨大な垂れ幕がかかっており、地元がかなり観光開発に力を入れていることも伺われる。実はこの「観光開発」というのも100名城の選定意義の中に入っていたりする。ただそのための配慮が、純粋に城郭として見た場合には「?」な城郭が100名城に含まれる原因にもなっている。

左 歴史民俗資料館  中央 デカデカと100名城をアピール  右 郡山城模型

 歴史民俗資料館の内部は大和郡山城に関する発掘成果から、地元の民俗資料までといったところで、その名の通りに歴史資料館と民俗資料館のドッキングである。ここの見学を済ませると、吉田郡山城散策用の地図を入手する。近くの商業施設で昼食にカツカレーをかき込むといよいよ吉田郡山城の攻略である。吉田郡山城の麓に公園が整備されており、その奥に駐車場があるのでそこに車を止めてさらに奥へと進むことにする。

左 元就墓所入口  中央 毛利元就墓所  右 百万一心の碑
 

 まずは毛利元就の墓所に向かう。しかしその道中からやたらに小さい虫(蚊・小バエの類)が絡んでくる。持参していた虫除けスプレーを使用したところ、体にとまるということはなくなったが、それでもこの連中は最後までブンブンとつきまとって鬱陶しいことこの上なかったのである。なお奇妙だったのはやたらにカメラにたかってくること。どうも黒いものを好んでいた節が見られる。

 現地入手資料より

 元就墓所は毛利家の墓所と共に鬱蒼とした中に存在する。やはり聖地的な趣がある。また元就の墓所の向かいに有名な「百万一心」の碑が立っている。山上の本丸に向かう登山道はこの奥から出ており、ここを進んで本丸へと向かう。

左 登山口には「まむし注意」の看板が  中央 嘯岳禅師の墓  右 さらに山道を先に進む

左 御蔵屋敷跡  中央 釣井の壇  右 二の丸に到着

 本丸への道はそう極端に険しいものではないが、序盤は延々と登ることになる。ただ登山道は整備されており足下は悪くない。体力不足のためにへたってくるが、途中のベンチで休憩を取りつつ登る。途中で尾根筋に出るとここは山道を水平移動。そのうちに目の前に岩場が見えるようになってきて、ここら辺りからが城域である。曲輪が何段にも連なっており、ここを登っていくと一番上が本丸になる。この辺りはそう険しくはないが、足下があまり良くないので要注意。一脚を杖代わりに使いながら慎重に登る。最上段の本丸の隅にさらに一段高いところがあり、ここがいわゆる櫓台。そもそもはこの山の山頂であったようである。非常に険しい堅固な城であり、戦国期に元就がこの地に居城を築いたのは合理的である。実際、この城で元就は尼子氏の攻略を退けている。ただし中国平定の渦中ではこの堅固な城塞が必要であるが、中国の覇者となった後の毛利氏にとってはあまりに不便な城であるので、毛利氏が広島城に本拠を移して吉田郡山城は廃城になったのも至極当然である。

左 二の丸の一段高いところが本丸  中央 本丸の奥がさらに一段高くなっている  右 ここが櫓台跡

左 櫓台跡から本丸、二の丸を見下ろす  中央・右 二の丸の奥が三の丸

厩の壇の先に進んでいくと、もう鬱蒼として何やら分からない

 各曲輪はここから放射状に出ており、二の丸、三の丸などは土塁や石垣で数段に分かれている。この辺りを一回りして見学、なおこの先にも出城のようなものがあるようだが、体力が心許ないのでそこまでは無理しないことにする。ただグルグルと回っている内に道が分からなくなり、三の丸石垣からさらに進んだところで完全に道がなくなる。足下には倒木などがゴロゴロ転がっており道を間違っていることは明らかであるが、進退窮まってしまった状態。下の方に平地が見え、どうも案内看板らしきものが垣間見えるところを見ると、そこまで行けば正規コースに復帰できそうである。前方の斜面を見ると私の足でもなんとか踏破可能と思える緩斜面。意を決して足下に注意しながら前方に進むことにする。そうやってようやく降り着いた平地が満願寺跡。ここには蓮池の後も残っている。三の丸はここから見上げる位置にあり、私が通ってきたルートは緩斜面ではあるがかなりの標高差があったことが分かる。

左 三の丸石垣  中央 その先で道を見失ってこの斜面を下る  右 降りてみるとかなりの急斜面だった

尾崎丸の堀切跡を通り抜けてさらに降りていくと、唐突に展望台に出る

常栄寺跡を抜けて毛利隆元墓所へ

 ここからは途中で尾崎丸を経由して降りてくる。かなり下に降りたところに展望台が。この下に郡山公園があるので、そこから少し上がったところという位置づけのようだ。ここで郡山公園に降りず、ずっと回り込むようなルートで毛利隆元の墓所を経て駐車場に戻る。カンカン照りの駐車場に出たところでようやく山中ずっとつきまとっていた虫たちが立ち去っていく。

 正直かなり疲れた。本格的な山城だけに、城郭見学というよりもハイキングである。たださすがに見所の多い城郭で、100名城選定は伊達ではないようであった。

 

 これで今日の予定は完全終了。また本遠征の主題も達成である。後はとりあえず今日の宿泊予定地まで車を飛ばす。今日の宿泊予定地は東広島の西条。宿泊予定ホテルは「ホテルモーリス東広島」である。この西条までの道程は山間を走り抜けるかなり長いものではあったが、特に問題もなく目的地にたどり着く。この山間の険しさがかつてこの地に山間ごとに豪族が割拠していた状態だったことを偲ばせる。この中国を平定した毛利の苦労もかなりのものだっただろうとは思われる。

 ホテルにチェックインするとまずは最上階の展望露天風呂でさっぱりと汗を流す。今日は山城の連チャンでかなり汗をかいたのでようやく人心地である。なお当初計画ではもっと吉田郡山に近い三次で一泊するつもりだったのに、急遽東広島に変更したのも、実はこの大浴場がある適当なホテルが三次にはなかったからというのが最大の理由。結果として出雲に続いてホテルモーリスを利用することになってしまった。ちなみにこれで鳥取・出雲・益田・東広島のホテルモーリス4店をすべて利用したことになる。私にとっては、山陰にはドーミーチェーンがないことを補う格好のホテルチェーンである。やはりホテルチェーンごとにコンセプトがあるので、合う合わないがチェーンによって分かれる。ホテルモーリスやドーミーはコンセプトが私に合うが、東横インなどはコンセプトが合わない。なおアパグループに関しては道義的問題から敬遠している。

 

 汗を流してさっぱりしたところで駐車場から車を出すと夕食に繰り出すことにする。最初はチェックしていた洋食屋に向かったのだが、どうやら休みの模様だったので次候補の「とんかつ一久」に行くことにする。注文したのは「赤城山麗豚ロース定食(1838円)」

 

 この店はトンカツ屋には珍しく、サラダバー形式になっている。そこで野菜類を中心に一渡りの付け合わせを皿に取って来た頃にトンカツが到着。肉を見ると適度に脂身の入ったいかにも旨そうなところ。これを好みでソースもしくは岩塩で頂く。一口放り込むと肉が甘い。これだけ良い肉になるとソースで食べるのは勿体ない。明らかに肉の甘味をそのまま楽しめる岩塩で頂くのが正解である。以前に岐阜のトンカツ屋に行って以来、私はトンカツは豚の脂身の甘さを楽しむ料理だと言うことを感じたのだが、ここのトンカツもまさにそれを楽しめるもの。なおサラダバーのメニューもこれだけでも十分に食事できるぐらいうまいもので、トンカツ定食としてはやや高めに思われた価格も、CPで考えると極めて妥当なものであると感じられた。

  

 食事を済ませてホテルに戻ると洗濯をしてからまた原稿の執筆。しかし山城連チャンの疲れはかなり強く、原稿の執筆はほとんど進まない。諦めてさっさと床に就くことにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 最終日の朝は比較的ゆっくりしている。とは言うもののサラリーマンの悲しい性で6時過ぎには目が覚める。そこで朝風呂に繰り出してから朝食にする。朝食をたっぷりと腹にたたき込むとしばしまったり。今まで大抵は7時台にチェックアウトなのだが、今回に限ってこんなにゆっくりしているのは「今日の予定がないから」。実のところ本遠征のスケジュールは昨日で終了で、一泊したのはさすがに直帰だとしんどいからというのが実情。そのために今日は珍しくゆっくりしているわけである。

 

 結局は9時過ぎまでまったりしてからチェックアウトする。後は帰るだけということで高速を突っ走ることになる。三連休の最終日のせいか高速道路には車が結構多い。その内にふと前を見ると明からさまに挙動不審な大型トラックが。見ていると風が強いわけでもないのに左右にふらついており、走行車線から追い越し車線にふらっと入ったかと思えば、突然にハッとしたようにウインカーを出す。しかもその内にまたフラフラと走行車線に戻るなんていう異常な運転。二車線道路を左右に行ったり来たりしており、これはほぼ間違いなく居眠り運転(でなければ飲酒運転)。うかつにこんなトラックを抜いて、渋滞にでも引っかかったら後ろから追突されるのがオチ(実際にこれで死者が出た例がつい最近もあった)。それどころか並んだところで幅寄せされかねない。もし助手席に誰かいたら警察に通報させるところだが、残念ながら車には私一人だからどうしようもない。結局は私はこのトラックと一定の距離を保って(もしこのトラックが高速上で突然とっちらかっても止まれるだけの距離)後ろから付いていく。私の後ろに付いていた車も、私の動きを見てその意図を察したらしく同様の行動を取る。

 しばらくその状態で走行、その内に直線道路に入ると共にトラックの運転もやや持ち直した感が現れる。そこで前方が混雑している様子がないことを確認すると一気にそのトラックを追い抜いて全力で逃げる。私の後ろに付いていた車数台も一斉に同様の行動を取る。これでようやく私は窮地を切り抜けたのであった。とにかく居眠り運転の大型トラックなんて走る凶器そのもの。これは何とかしてもらいたいものである。

 やがて岡山を抜けて兵庫に到着。その頃になってくると「このまままっすぐ帰るのもつまらないな」という気が起こり始める。そこで別の日程のために考えていたプランを急遽発動させることにする。龍野ICで高速を降りるとそのまま龍野市街を目指す。

 

 龍野市は城下町として栄えた町で、薄口醤油の生産でも有名である。かつて山の麓に「龍野城」が存在しており(と言っても陣屋に近いものだが)、その館や門が復元されているそうである。そこでまずはそこに立ち寄る。

 歴史資料館 

 近くの歴史資料館に車を止めると徒歩で城門や館の見学。それなりに趣のある空間になっており、龍野が観光にも力を入れようとしているのは分かる。

館は復元建築

左 復元櫓・・・と言っても実はそもそも存在しなかったとか  中央 裏手の高麗門  右 正面の埋め門

 

なかなか絵になりますが、実はこの門は飾りで奥は小学校のプール

 館の見学の後は町内を散策。かつての城下町の面影の残る趣のある町並みではあるが、観光開発が中途半端なせいで、町中で食事をとる店もろくにないのはつらいところ。薄口醤油記念館などの観光施設を一渡り回って帰ってくる。

街並みはかなり趣があります

 山の麓には館があるが、実は背後の鶏籠山の山上に「龍野古城」の跡が残っているとのこと。龍野城の後ろから登山道が続いているとのことなのでついでにと見学に繰り出す。しかしこれはさすがに少々甘く見ていたようである。確かにそう無茶苦茶に険しい山ではなく、健脚な若者なら斜面を直接登坂する事も可能ではないかと思うが、登山道自体はうねっていて距離があり、登っているとそれなりに体の負担はある上に足下が危ない箇所がいくつかある。やはり神経を使って登らないと、足を滑らせてけがをする可能性がある。

     登り口には注意看板が

 その上に登山道と言ってもきちんと整備された道路があると言うわけではなく、足場程度に木を置いてある程度なので、よく探さないと道を見失ってしまうのである。意外と神経と体力を使う行程であった。

大手道の表示がある道なき道をひたすら登る

途中で石垣や土塁跡、削平地(曲輪跡だろう)などがある

さらに登り続けるとようやく二の丸跡の平地に到着する

 かなり疲労した頃にようやく二の丸跡の平地が見えてきた。龍野古城は基本的に本丸と二の丸が前後に並んでいるのだが、その周囲には複数の曲輪が存在しているようである。実際に二の丸の手前にも明らかに人工的なものと思われる平地がいくつか存在していた。

 二の丸に到着するとようやく一息。結構な標高がある。北の方を見てみると堀切をした先に本丸が存在しているようである。しばし休息を取ってから本丸に向かって一端下っていく。

二の丸から本丸へは再び下って登ることになる

 

 本丸は堀切の底からいくつかの腰曲輪の跡らしきところを抜けると本丸へとたどり着く。そう大きな平地ではないので大きな建造物はなかったと思われる。恐らく簡単な見張り台や小屋程度のものが建っていたのではないだろうか。いかにも中世山城という印象である。この城はそもそもは赤松氏の城であったが、秀吉に攻められた際に籠城を覚悟した主君を赤松家の滅亡を憂う家臣が諫めた結果、開城することになったという。その後、江戸時代の初期ぐらいに山上の城は廃城となり、山麓に新城が築かれたのだという。

左 八幡宮跡の石畳  中央 本丸石垣  右 八幡宮跡

 本丸の回りを見渡すと、一段低いところに曲輪のようなものがあり石畳が見える。これは八幡宮の跡だという。下に降りて確認すると建造物はないものの石畳はそのまま残存している模様である。

 見学を終えたところで慎重に下山にかかる。ここに来て急に空模様が怪しくなってきたので急ぐ必要があるが、とにかく足下がしっかりしていない上に、落ち葉などが積もっていて非常に滑りやすいので要注意である。特別に険しいと言うほどの山ではないのであるが、とにかく神経を使う山である。なお帰路は往路以上に登山道を見つけにくく、途中で何度か道に迷いそうになりながらようよう何とか下まで降りてきたのであった。

 

 龍野城の見学を終えると後は姫路城近くまで移動、最後に姫路市立美術館に立ち寄って本遠征は終了となったのである。

 


「没後50年 白瀧幾之助展」姫路市立美術館で10/31まで

 

 兵庫出身の洋画家・白瀧幾之助の作品を集めた展覧会。彼は今まで日本洋画史の中で語られることはあったが、個人として取り上げられることはほとんどなかったという。その彼の作品を集めた珍しい展覧会ではある。

 黒田清輝の弟子筋に当たるので初期の作品はもろに「影は紫色」の黒田調。そして渡欧後は印象派の影響を受けて絵具の使い方が少々変わってきて、セザンヌの影響が顕著な静物画まで残しているという、典型的な「当時の日本人洋画家が辿る軌跡」を辿っている。明らかに人物画に秀品が多く。画風としては堅実にして正確であるが、やや地味という印象は否定できない。明らかに保守的な部類に属する画家であろう。

 ただ作品自体は非常に好感が持てるものが多く、人物画においてはその人物自体に迫ろうという姿勢もうかがえる。興味深い展覧会ではあった。


 

 なお姫路城は現在工事中で、以前に来た時よりもさらに覆いが大きくなっていた。これは近日中にすっかり姿を隠してしまいそうである。

 

 後のことを考えてなるべく疲労が残らない無理のない遠征のつもりで設計したつもりだったのだが、最後の龍野城が想定外だった。幸いにして足にガタが来るほどでもなかったので、その後の予定に支障が発生することはなかったのであるが、それでもかなり疲労は残ったのは否定できない。やはり自分の体力を考えないと・・・。

 

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