展覧会遠征 福山編

 

 さて先週は北九州・山口方面の大型遠征を実施したが、これで体力・旅費共に尽きてしまった。と言うわけで今回は比較的近場の日帰り遠征と言うことになる。今回の目的地は福山である。これは現在ふくやま美術館で実施されている展覧会を見に行くというのが主目的であるが、もう一つの目的として福山南部の鞆の浦の見学がある。鞆の浦は最近になって「ポニョ」の舞台として注目を浴びると共に、埋め立て計画の是非を巡って大騒ぎになっている。そこでその現場を実際に見に行きたいということである。

 今回は青春18シーズンから外れるために移動には車を使用する。実際に今まで福山は何度も車で訪問している。実のところ、ふくやま美術館だけなら、ここは駅の近くであるし、駐車場の料金は高いしなので鉄道利用の方が良いのだが、今回は鞆の浦も目的地に入っているからということも車にした理由である。

 

 いつものように山陽自動車道を経由で福山東ICで高速を降りると、混雑する福山市街を抜けて駅前に。目的地は福山城のすぐ脇である。

 


「イタリアの印象派マッキアイオーリ展 光を描いた近代画家たち−」ふくやま美術館で11/29まで

 

 19世紀後半、それまでの歴史画や宗教画を中心としたアカデミズム絵画に反発したイタリアの若い画家達が、新しい絵画を求める運動を開始する。後に「マッキアイオーリ」と呼ばれることになったこの運動は、当時フランスで興隆しつつあった印象派の影響を受けつつ、独自の発展を遂げる。また時はまさに、それまでの小国が乱立している状態だったイタリアにおいて、統一運動(リソルジメント)の動乱が発生したまっただ中であり、若き画家達の中には、自らその運動に身を投じる者もいたという。そんな中から、現代の事実を描くことで社会に影響を与えるというリアリティを求める流れなども現れる。

 結局彼らの運動は、強力な指導者の不在、後進的だったイタリア画壇の無理解などから後には四分五裂して自然消滅してしまったようだが、後のイタリア美術界に与えた影響は無視できないものがあるという。このようにイタリア美術史にとっては非常に重要な一派であるにもかかわらず、日本では知名度は皆無に等しい彼ら達に脚光を浴びせたのが本展である。

 確かに言われるまでもなくフランス印象派の影響は見て取れる。しかしながらだんだんと先鋭化していったフランス印象派と違い、リアリティに力点を置いていたせいか、最終的な進化形態はフランスバルビゾン派レベルの比較的穏健な絵画にとどまっているという印象である。実際に初期の作品などはかなり古典主義的な影響も残存しており、現代の我々の目から見れば、これらの絵画はそんなに激しく拒絶されなければいけないほどそれまでの絵画と異なっているとも思えない。

 むしろ私のような者にとっては、尖りすぎていない分むしろ好ましい絵画に思われる。どうも私には先鋭化しすぎたフランス印象派の本流よりも、スコットランドやロシアやイタリアなど、むしろそれよりは遅れていたと認識されていた地域の絵画の方が共感を持てるようである。そうして考えると、ヨーロッパ近代絵画の進化って一体何だったんだろうか?

 


 美術館の見学を終えると車で福山市街を南下、鞆の浦を目指す。鞆の浦は車でのアクセス道路が狭く、観光客が殺到してとんでもないことになっていると聞いていたのだが、鞆の浦港の手前までの道路は特に何の問題もない。一番大きな市営の第一駐車場をやり過ごすと、さらに南下して仙酔島への渡船場の手前の第二駐車場に車を入れる。

 ここからプラプラと西を目指して歩くと、目の前に港の風景が広がってくる。なかなかの風情である。問題になっている埋め立て計画は、この湾を埋めようというものらしいが、これは細かく視察するまでもなく「正気の沙汰ではない」と判断せざるを得ない。この湾は観光地鞆の浦においての一番のメインステージである。ここを無粋な埋め立て地と架橋にしてしまったら、鞆の浦を完全破壊するに等しい。こんなところを埋め立てることを考えた輩は、土建業者に金を撒くことだけが頭にあって目が曇っているか、それでなければ鞆の浦に恨みでもあるのだろうかと思われる。確かにこの辺りの道は狭く、車がすれ違うのは大変そうであるが、そもそもここを車で通り抜ける必要はない。観光客が殺到して問題だというなら、北部の方にいくらでも土地が余っているから、そこに大きな駐車場を作ってそこからアクセスバスでも出し、鞆の浦地区は観光客の車は立ち入り禁止にしてしまえば良いのである。

鞆の浦港東部。計画ではここの沖に橋が出来て港の口を塞ぐような形になる。
   

 今まで「開発」の名の下に無駄な工事によって肝心のその土地の最大の良さが完膚無きまでに破壊された様を全国各地で目にしてきた。「国破れて山河あり」と言うが、「道路通って山河なし」などという悲惨な様が各地で起こっているのである。こんな馬鹿なことが起こった原因としては、日本の政治があまりに土建中心主義であったということが第一にあるが、地元民自体がその地域の良さを意外と分かっていないという例が多い。例えば余所者の目から見て風情があって貴重と思われる風景も、地元民にとってはあまりに見慣れているせいか、単に田舎で遅れているとしか映らないことが多いようで、道路やビルなどを造ってもっと都会にしたい、観光客をさらに呼びたいなどと考えるらしい。しかし道路やビルが出来たから都会になるということはない。むしろ観光客にとっては何の魅力もない街並みだけが残り、足が遠のくということになってしまう。結局は一番貴重なものを完全に失ってから、取り返しのつかないことになったことに気づいても、もう既に手遅れなのである。後に残るのは廃集落だけということになってしまう。その点、鞆の浦では地元民にも大事なものの価値が分かっている者がいるようなので、それが救いではある。とにかくこんな馬鹿げた工事は絶対にさせるべきでない。

   路地の多い町並み

 港の向こう側にはいろは丸展示館と鞆の浦のシンボルでもある常夜灯が見える。とりあえずは町中の路地をウネウネと抜けながらそちらを目指す。こういう住宅裏の狭い路地に風情のある町である。こういう町並みの貴重さというのを意外とそこに住んでいる人は分からないんだよな・・・。またこういう町並みを楽しむには徒歩で行くのが一番良い。やはり鞆の浦地区は観光客の車は進入禁止で良いように思われる。

 鞆の浦のシンボルでもある常夜灯はいろは丸展示館のすぐそばにある

 

 いろは丸展示館は、鞆の浦沖に沈んだいろは丸に関する資料を展示した博物館である。当時いろは丸は海援隊が運用していた商船で、各藩に売却するための武器を積んで航行中、鞆の浦沖で紀州藩の船舶と衝突、鞆の浦への曳航中に沈没したとのこと。この事故は日本で初めての蒸気船同士の衝突事故になるという。この事故についてはどちらに非があるかは今日でも諸説あるようだが、補償交渉においては坂本龍馬がその交渉力を人脈を最大限に発揮し、紀州藩から多額の補償金を得ることに成功したらしい。現在もいろは丸は鞆の浦沖に沈んだままで残っており、発掘調査の類も行われたらしい。

左 いろは丸展示館  中央 沈没したいろは丸の発掘調査風景  右 二階に潜伏する坂本龍馬

 いろは丸展示館の次は重要文化財に指定されているという太田家住宅を見学。ここはかつてこの地域の地酒であった「宝命酒(養命酒のような薬草酒のようである)」の醸造所だったようでだが、長州に下る途中の三条実美らの公家達が立ち寄ったことがあるとのこと。瀬戸内航路の要衝だった鞆の浦の歴史を物語る屋敷である。

左 太田家住宅外観  中央 醸造用の倉内部  右 この絞り器で酒を絞っていた

 なおこの辺りは鞆の浦でも最も「観光地」している一角であり、観光客相手の土産物屋や飲食店なども各地にある。こういう辺りの住民は一番鞆の浦の観光地としての価値に敏感なわけで、埋め立て反対派の中核らしい。逆に賛成派は土建関係者は言うまでもないが、観光に関与していない住民ということで、住民の中でも対立の図式が出来てややこしいことになっているらしい。

  常夜灯西側のこの港は計画では完全に埋め立てられてしまう

 ちなみに私は鞆の浦の潜在的観光価値は、高山などに十分匹敵すると感じた。演出をうまく行えば白川郷クラスになるのも無理ではない。問題はそういう発想力が出てくるかである。ちなみに白川郷のアクセス道路は山の中を通っているが、例えばあの道路が茅葺き集落をなぎ倒して、白川郷のど真ん中に通されていたらどうなったか。それを考えると鞆の浦の埋め立て計画がどれだけ無謀かが分かるというものである。

  

左 鞆城跡へと登る階段  中央・右 本丸跡には宮城道雄の像と民俗資料館が建つ

 次は民俗資料館を目指す。この民俗資料館は鞆の浦を見下ろす小高い丘の上にあり、かつては鞆城と呼ばれる城郭のあった地だとのこと。この城郭は元々は毛利元就によって建造され、安土桃山時代にはかなり大規模な城郭として整備されたが、一国一城令で廃城となって今日に至っているという。しかし今はほとんど遺構が残っておらず、一部石垣が現存するのみとのことだが、それがどこの石垣かは私には分からなかった。なお本丸跡には現在は民俗資料館があり、地元出身の宮城道雄の像なども立っている。ここからの鞆の浦の風景は見事である。ちなみにここから西側の一段低いところには公園があり、もしかするとここはかつての曲輪の跡ではなどと思ったのだが、民俗資料館にも鞆城に関する資料などは一切なく、当時の縄張りが全く分からないので判断のしようがない。

本丸跡から眺める鞆の浦の風景。左の小高い丘はかつて大可島城のあったところで現在は円福寺。

 鞆城跡を西方に降りると、山際の寺院などが居並ぶ通りを北方に向けて散策、そのうちに沼名前神社に到着する。ここは由緒正しい神社で、伏見城から移築されたという能舞台が存在するとのことで、見学がてら参拝をする。ちなみにここの境内からは東の仙酔島を望むことが出来る。

  沼名前神社と能舞台

 沼名前神社の参拝をすませると、そのまま市街地をフラフラ。鞆の浦一番の絶景地とも言われている対潮楼を訪問。ここは東に大きく視界が開けており、目の前に仙酔島をハッキリと見ることが出来る。かつて朝鮮通信使が「日東第一形勝」と称えたというのも頷ける風景。

    

対潮楼とその座敷から眺める仙酔島の風景

 これで鞆の浦の見学は終了。駐車場から車を出すと昼食のために移動する。向かうのはホテル鴎風亭。鞆の浦の入口辺りにある宿泊施設である。と言っても何も一泊するわけではなく、ここのレストラン「海浬」で昼食を摂るのが目的。ホテルレストランらしく、席ごとに区切られた落ち着くスペースになっている。注文したのは「潮待ち膳(2625円)」

 刺身に小鉢類を組み合わせたオーソドックスなお膳。いわゆる典型的な旅館の夕食的な内容。これに鯛飯がついている。特別に驚くものではないが、一品一品が普通にうまい。食事を済ませるとデザートをロビーで海を見ながら頂く。ここのホテルの最大の売りがこの海の眺め。

 食事の後はこのホテルの大浴場で入浴することにする。実は上記の昼食には入浴がついており、食事だけで2625円だとCPは微妙なところだが、入浴込みで考えると十分にペイするという仕組み。大浴場は当然のように海が見えるロケーションで、内風呂と露天風呂とサウナというオーソドックスな構成。海風に吹かれる露天風呂が非常に爽快である。なお泉質は弱放射能泉。なので無色無味無臭であるが浴感はまずまず。

 なお入浴後にこのホテルで売店でみやげ物を探す。坂本龍馬ゆかりの地ということで龍馬関連のグッズもあるのだが、その顔が坂本龍馬本人ではなく、明らかに福山雅治であるのはちょっと・・・。何やらどこぞに立った本木雅弘そっくりの徳川慶喜像のような変なことが起こりつつあるのでは。やはり少なくとも写真が残っている人物は本人のイメージをもっと大切にしましょう。

 

 以上で今回の予定は終了。後は帰宅への途につくのであった。帰りに吉備SAに立ち寄り、おみやげに「おかやまロール」を購入。岡山名物を盛り込んだロールケーキで、中心にきび団子が入っているという変わり者だが、これがなかなかに美味であった。

  

 日帰りの短期中距離遠征というのが今回。しかし展覧会の内容は良かったし、鞆の浦の現地視察によってもいろいろと考えるところがあったというわけで、短時間の簡単な遠征であったが、それなりに中身はあったと感じたところである。それにしてもあのような馬鹿げた埋め立て計画が浮上するに当たっては、やはり日本もまともな地域振興策を本気で考える必要があると痛感した次第。地域が妙に軽視されているから、こういうおかしなことになるのである。地域が観光や農林水産業を中心に十分に自立するためにはどうすればよいか。これは難しい政治課題である。ただその過程において過密すぎる都市の解体。特に東京の解体は不可欠のように思われる。結局は地方の拠点都市を中心とした地域ブロック構想しか方策はないと思われるのだが、それを強制ではなくて自然にその方向に向かうにはどう誘導するかは難しい。いくら東京解体と言っても、まさか中国の文化大革命であるまいし、都市住民を無理矢理に地方に移住させるわけにもいかないのだから(もし強権的にそうやったとしても成功するはずもないし)。まずは第一歩はやはり、農林水産業が産業として成り立つような方策がもっとも急ぐべきところだろう。仕事のないところに人間は住めない。差し当たって緊急避難的な策としては農家の個別所得保障などもあり得るが、これは永久的に使える策ではないので、これで短期的に凌ぎつつ、いかに自立できる農林水産業を育成するか。かつて日本の工業製品が、安かろう悪かろうの猿まね製品から、世界に誇れるメイドインジャパンに進化したように、農林水産業も高付加価値の高品質製品の方向を志向するしかないように思われるが。幸いにしてこの分野でも日本ブランドは結構評価が高いと言うから、そこに活路を求めるか。

 

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