展覧会遠征 飯田編

 

 先週は車を利用した遠征であったが、現在は鉄道の日記念切符の期間内である。ここはやはり鉄道での遠征を実施しておく必要がある。そこで「北陸・東海地方強化年間」という今年の目標に従って選定された次の目的地は、現在のところ未だに視察を達成していない飯田線沿線となった。実のところ、今回の遠征計画は昨日今日思いついたものではなく、半年以上前から綿密なるスケジューリングに基づいて立案されているものである。だから以前の静岡経由東京遠征の時に、豊橋地域はサクッとスルーしているのである。今回の遠征ではそのスルーした地域をまずフォローすることになる。

 

 まずは東海道線を経由しての豊橋までの移動。これは基本的にはポイントは米原での乗り換えだけである。一体このルートは何回通っているだろうか・・・。私にとっては今や通勤ルート並になってしまっており、面白味は著しく欠けるルートである。

 米原に到着すると例によっての「第四次スーパー席取り大戦」であるが、今年は麻生の「バラマキ高速1000円」影響で軒並み鉄道が低調であることと、鉄道の日記念切符は青春18切符に比べて知名度の点と使い勝手の点で圧倒的に劣る(使用期限が短い上に一日当たり単価が高いので損益分岐点が厳しい)ことなどから、これはかなり楽勝な決着となる。

 ここで乗り込んだのは豊橋行きの特別快速だから、後は車窓でも眺めながら豊橋までボンヤリとしているだけである。かなり疲れる行程ではあるが豊橋に予定通りに到着する。

 

 豊橋に到着するとまずは行動力を妨げる大きなトランクを何とかする必要がある。駅のロッカーに放り込んで先に進むかと思ったが、今日の予定はかなりゆったり目に組んであることから、ロッカー代をケチってホテルにまず向かうことにする。

 豊橋駅南口

 今回予約したのは「ニュー東洋ホテル2」。ホテルはやや駅から距離がある。例によって大浴場付きのホテル・・・のはずだったのだが、何と先日の台風で大浴場が被災して(ガラスが全部割れたそうな)使用不能とのこと。大浴場が使えないのなら、もっと駅の近くのホテルでも良かったのだが・・・。今日は疲れているので、早めにホテルに入って風呂でも浸かってくつろぐつもりだったのだが、いきなり当てがはずれてしまった。

 いきなり台風18号の余波でとんだ影響を受ける羽目になったが、とりあえず予定を先に進めることにする。ホテルにトランクを預けると豊橋駅に舞い戻る。もう既に昼時なので、昼食を先に済ませることにする。面倒なので駅に隣接した百貨店内の洋食屋で昼食を済ませたが、結果としてこれは正解とは言い難かった。オムライスとフライ類のセットだが、オムライスはあまりにシンプルにすぎ、フライ類も工夫がない。

 もう少し内容に工夫があれば・・・

 昼食を済ませると豊橋鉄道渥美線の視察のために、新豊橋駅に向かう。豊橋鉄道は豊橋で鉄道路線と路面電車を運営する鉄道会社だが、渥美線は豊橋と渥美半島の三河田原を結ぶ単線電化鉄道路線である。三河田原からはフェリーの発着港である伊良湖岬までバスの路線があり、ここからフェリーに乗ると伊勢湾を横断して鳥羽に到着することができる。なかなかに旅情を誘われる路線だが、残念ながらフェリー乗船は今回の予定には入っていない。

 豊橋鉄道新豊橋駅

 新豊橋で停車しているのは三両編成ロングシートのオーソドックスな電車である。利用者は結構多く、車内は満員に近い状態で発車する。

    

 列車はしばらくは市街地の中を走行していき、各駅での乗り降りも結構ある。途中でやや閑散とする地域もあるが、一貫して沿線には住宅が多い印象。ただどうしても豊橋から離れるにつれて乗客の数は減少していく。そして最後はやや閑散とした状況で30分強を要して終点の三河田原に到着する。

 三河田原駅に到着

 この路線は単線であるにも関わらず、交換可能駅が多いことから15分に1本という多頻度パターンダイヤを実施している。やはりこれだけ本数が多いと列車を利用しようと言う気も起こるようで、沿線のモータリゼーションは確実に進行しているようであるにも関わらず、利用者は比較的いる。こういう点を見ていても、やはり鉄道の利用者の確保のためには、いかに多頻度運転が重要かが分かる。

 

 三河田原はこの列車の沿線ではやや大きな町である。乗ってきた列車で折り返そうかと思いつつ、駅前の観光案内看板に目を通す。すると「田原城」という表記が目にはいる。実は田原については事前に全く何の調査もしていなかったのだが、城下町であったらしい。ざっと看板を見たところでは十分に徒歩圏内の模様。これは視察をしておく必要がありそうだという気が起こる。鉄道マニアなら単に鉄道に乗るだけで目的達成かもしれないが、「鉄道マニアではない」私の場合、それではそもそも意味が薄い。これはちょうど良い視察対象である。

 

 看板から大体の方向の目安をつけて後はひたすら歩く。幸いにしてさしたる傾斜もないのでそう苦労のない道のりである。途中でいかにも城壁を意識して造りましたと言わんばかりの白壁に誘われてそちらの方に向かうと、そこは公園。ここは総門跡だそうな。ここには報民倉という倉が建っているのだが、これは藩士・渡辺崋山が飢饉に備えて建てた穀物倉庫だそうな。

  

公園周辺の白壁と報民倉

 さらに案内看板に導かれて公園の反対側に出てみると、そこはかつての大手通りだったらしい。今では小学校が建っているが、そこの壁も城壁を意識したもの。どうやら田原では城を中心とした観光開発を意図しているようだ。

   

大手通と小学校の正門

 田原城はそもそもは15世紀に戸田氏によって建造されたが、その後は今川氏や徳川氏などの勢力下を転々とし、池田輝政の支配下の後に江戸時代には譜代の大名が配属されたとのこと。その後は大体お約束の経過をたどったようで、堀と石垣が当時の遺構ということになるらしい。

 田原城大手門

 大手通りを抜けると立派な門が見える。これは後に再建されたもののようである。これをくぐると正面が本丸跡でここは現在は神社となっている(よくあるパターンだ)。左手には櫓風の建物があるが、これは復元二の丸櫓で、中身には資料倉庫。またこの隣が田原市博物館になるようだ。なお田原城の復元模型がこの二の丸の中に展示してある。現地の地形を思い出しながらこの模型を見ると面白い。そんなに規模が大きい城ではないが、今でも本丸と二の丸の間の空堀の跡などは残っている。

復元二の丸櫓は資料倉庫で、その下の石垣は当時のものを復元。内部には城全体の復元模型が。
  

       

本丸跡は神社となっており、二の丸との間には深い空堀跡が残る

 博物館では能面や衣装に関する展示が行われていた。私は能については全く分からないし、興味もないのだが、写真類を見ていると面と衣装と後は姿勢などだけで年齢や人となりを表現しているのには感心した。

 博物館

 田原城見学の後は向かいの民俗資料館をのぞく。内部の展示はいわゆる古民具の類でことさらに珍しくはないが、建物がかつて女学校の校舎だったとのことでこちらの方が面白い。

   女学校を転用した民俗資料館

 後はブラブラと三河田原駅まで帰還。田原城の見学は予定外の完全な思いつきだったが、予想以上に楽しめるものであった。なおこんな思いつきを実行できるのも、渥美線が15分に1本という多頻度ダイヤだから。1時間に1本の路線ではこういうわけにはいかない。やはり鉄道にとっては運転頻度というのは沿線観光振興の点からも非常に重要。

 

 新豊橋まで再び戻ってくると、今度は豊橋鉄道の路面電車の方に乗車する。まずはこれで豊橋美術博物館を目指す。

 路面の駅はバスターミナルにある

 ローレル賞を受賞した新型車両

  こういうタイプの車両もあり


「三遠南信交流展 ミュージアム・サミット「美の競演」」豊橋市美術博物館で11/15まで

 東三河、遠州、南信地区にある豊橋市美術博物館、浜松市美術館、浜松市秋野不矩美術館、飯田市美術博物館の4美術館がそれぞれ特徴的なコレクションを持ち寄っての交流展である。

 この中で私が既に訪問したことがあるのは、浜松市美術館と秋野不矩美術館の2館であるが、浜松市美術館からは現代作品が、秋野不矩美術館からは館の看板でもある秋野不矩の大作が展示されており、いかにも両館の特徴が現れている。

 これに対して豊橋美術博物館からは同館のコレクションの中心の一つである近代日本洋画作品が多数展示されている。これらの中には岸田劉生など初期日本洋画を支えた画家らの作品が含まれており、非常に興味深い内容となっている。

 一方、コレクションのレベルの高さが際だっていたのは飯田市美術博物館の展示である。菱田春草、下村観山、横山大観などの日本画中心であったが、彼らが新しい日本画を模索する段階でのいわゆる朦朧体の作品から、晩年にかかって独自の境地を切り開いてからの作品まで幅広く展示されておりなかなかに楽しめた。

 


 実はこの美術博物館は吉田城の二の丸にある。吉田城はかつて池田輝政の居城で、その際にかなり大規模な城郭として整備されたが、彼が姫路に移動した後は譜代の小大名が配されたため、あまりに大規模な城郭は維持ができないとのことで整備が中途半端になったとか。現在は本丸周辺の堀や土塁の一部が残存しており、本丸には鉄櫓が復元されている(これが唯一の建造物)。ただこの鉄櫓の公開時期は限定されているようで、私の訪問時には残念ながら内部は見学できず。

 吉田城鉄櫓  

 鉄櫓の裏はすぐに川  二の丸御殿跡

 建造物の類は一切ないが、当時を思わせる石垣などがなかなか楽しませてくれる。特に本丸周辺の石垣及び堀址などはなかなか立派であり、池田輝政が建造を目指していた城郭の威容が想像できる。

左 本丸周辺の堀跡 中央 本丸門跡 右 三の丸の土塁と堀跡
 

 吉田城の見学を終えると後は路面電車の視察。とりあえず終点の赤岩口まで移動。競輪場前の手前から路線が単線になるが、どうもこの単線地域が運行上のネックになっているようである。次の井原で路線は二つに分かれ、その一方が赤岩口までつながっている。ここが終点だが、確かに数メートル先の橋の手前で線路が突然に途切れている。なお近くには車庫があり、ここが路面電車の拠点であることが伺える。さてこの路線だが、もう一つの終点として最近に運動公園前駅が建設されたという。ここからまた列車で戻ると井原で乗り換えになって運賃ばかりがかかるので、金をケチって豊橋市街散策がてら徒歩で向かう。歩くこと20分程度で運動公園前まで到着、これは歩いてみるとかなり遠かった。ここはその名の通り運動公園施設があるだけであるが、民家などもかなり多い地域であり、地域の足として機能しているようである。今後の豊橋の発展を考えるとさらに延伸についても考えても良いかもしれない。

今度の車両には1978年度のローレル賞のエンブレムが

       

赤岩口には車庫がある

運動公園駅から帰還

 それにしてもここの路面電車に乗っていて感じたのは、異常なまでの鉄道マニア密度の高さ。終点の豊橋駅手前のカーブなどでは、望遠レンズ付きカメラを構えた鉄道マニアの団体が陣取っていた。確かにいろいろなタイプの車両が次々と通過するので鉄道マニア的には面白いのかもしれないが・・・私にはよく分からん。

 

確かにいろいろなタイプの車両がある

 ホテルに戻った後はホテルで夕食。実は今回は豊橋で夕食の店を探すのも面倒だったので、ホテルで夕食を摂ることにしたのである。トンカツに刺身にそばという意味不明のメニューだったが、ボリュームは十分であった。ただレストランスペースが狭いにもかかわらず、喫煙が野放しであったのが大きなマイナス。

 夕食の後は部屋のユニットバスで「くつろぐため」でなく、単に「体を洗うため」の入浴。やはりユニットバスではくつろぐことはできない。手早く体を洗うと、まったりとしながらこの旅行記の執筆、そして翌朝の曹長出発に備えて早々に床についたのであった。

 

☆☆☆☆☆

 

 翌朝は5時に起床。昨晩の内に荷物はまとめてあるので、手早く身支度を済ませると5時30分にはホテルをチェックアウトする。今日からいよいよ飯田線に突入である。豊橋駅に入場すると、速やかに飯田線ホームに移動。この辺りは前回の東海遠征で土地勘をつかんでいるのでスムーズである。間もなく入線してきた6時発の天竜峡行きの列車に乗り込む。

 天竜峡行き列車

 列車は二両編成の119系電車。ちなみに車掌も乗車して無人駅での検札を行う形式である。車内は早朝にもかかわらず結構乗客がいる。例によって、豊川までは完全に市街地路線である。そこから先はやや田舎めいたのどかな雰囲気になってくる。

 この時間帯は豊橋方面に出る列車が多いのか、頻繁に対向車とすれ違う。いずれの列車もかなりの乗客が乗っており、この辺りでのニーズはかなり高いと言うことがうかがえる。

 いささか鬱蒼とした雰囲気

 前回の降車駅だった長篠城を超え、次の駅の本長篠はちょっとした集落だが、ここを越えた頃から沿線風景は一変し、天竜川沿いの山間の風景へと変わっていく。ただ残念ながら、沿線の森が深すぎるせいで視界がかなり塞がれており、「風光明媚」とは言い難いのが現実である。ところによって溝の中を走っているような雰囲気のところもある。また今朝は晴れていたのが、この辺りの地域になると朝靄がかかっているのか鬱蒼として薄暗い山なども出てくる。所々で渓谷の綺麗な光景が見えることがあるのだが、それは大抵は一瞬で、すぐにトンネルに入ってしまったり、また写真を撮ろうとすると架線が視界を邪魔したりなど、妙なところでストレスの溜まる路線である。

   佐久間レールパーク

 やがて列車は飯田線の拠点の一つでもある中部天竜駅に到着する。この辺りはちょっとした集落になっているだけでなく、中部天竜駅には佐久間レールパークという鉄道博物館があって、車両の展示などが行われているらしい。ただしこの施設は来月頭に閉鎖されることとなっており、現在は「さようなら佐久間レールパーク」と銘打って、臨時快速なども運行されている模様。と言っても、もとより鉄道マニアではない私にはあまり興味のないところ。ただ列車の中から眺めた印象では、意外と手狭な施設であるように思われた。

 小和田駅

 中部天竜を抜けると沿線はさらに深い山の中を突き進む。この辺りになるとダムが多くなってきて、実際にダム建設のために路線が付け替えられたところなども多々あるようである。おかげでとにかくトンネルが多くなる。途中で長野県、静岡県、愛知県三県の境界に位置する小和田駅を越えると長野県に突入。山岳地帯はさらにその深さを増してゆく。そのうちに進行方向左手に天竜川の渓谷や川下りの船などが見えるようになってくると、間もなく天竜峡に到着する。ここもちょっとした集落ではある。

 天竜峡近くでは川下り船がある

 ここで乗客は向かいに停車しているワンマン運転の車両に乗り換えることになる。これで飯田に向かうのであるが、沿線の風景は天竜峡を抜けたところで再び一変。今度は広々とした飯田周辺の盆地の風景が展開する。飯田周辺はかなり大きな街で、山に囲まれたすり鉢状の中に都市が存在している。やがて路線は有名な飯田市巡回ルートにさしかかる。鉄道マニアの中でも武闘派の連中は、ここで途中下車して、最短経路を突っ走って伊那上郷で列車に先回りするなんて遊びをやるそうだが、文治派の私にはとてもそんな体力はないし興味もない。

 飯田駅に到着

 やがて列車は飯田に到着。この列車は飯田止まりであるので多くの乗客が乗り換えをするが、私は飯田で下車する。実は私の計画では飯田線沿線最初の目的地はこの飯田である。とりあえず駅前のロッカーにトランクを放り込んで身軽になると、まずはタクシーで美術博物館へと向かう。飯田市美術博物館は飯田市街の東の方にある。飯田市自身はすり鉢の底のようなところだが、飯田市街自体は河岸段丘によって仕切られており、その先端部分に近いところに立地している。ここにはかつて飯田城が存在したのだが、その二の丸跡に立地している。

 美術博物館の目下の展示はいわゆる「県展」。これの展示に全館を使用しているので、コレクションが豊橋に出払っていたというわけである。県展の方は洋画も日本画もいわゆる「今時の絵」が多くて私には興味対象外。どちらかというと陶芸作品の方が面白く、この辺りの陶芸の歴史のようなものも感じられた。実は開催内容が県展であるのは事前に分かっていたので、当初の予定では今回はパスしようかとも思っていたのだが、先日の豊橋でのあまりのコレクションの充実ぶりに、一体どういう施設であるのかは見学しておく必要がありそうだと急遽予定に組み込んだというのが現実である。

 飯田市美術博物館

 正直なところ、地方都市の美術館と侮っていたところがあったのだが、その規模は予想以上に大きなもので、施設としてはなかなか充実していた。その絵画コレクションの一端は先日に豊橋美術博物館で目にしているが、そのレベルの高さといい、さすがに信州地域の文化レベルは侮れない。施設内には菱田春草の展示室などもあるようで非常に興味深い。いずれ所蔵品を中心とした展示を行っている時に再訪する必要がありそうだ。

   

美術博物館の展望台からの風景

 美術博物館を見学した後は、飯田城の痕跡を求めて周辺を散策。飯田城は武田配下の秋山信友によって整備され、江戸時代には飯田藩の藩庁として機能していたという。ただ明治以降にその遺構はかなり徹底的に破壊されたようである。かつての本丸跡には神社(これは毎度のお約束)と柳田国男の記念館があって全く痕跡をとどめていないが、辛うじて二の丸と本丸を隔てる空堀の跡と思われる崖が残っている。この城は背後は河岸段丘の急斜面なので、前方を堀などで固めることで防御を図っていたと思われる。

左 本丸跡に建つ柳田国男館  中央 本丸と二の丸の間の空堀  右 飯田城址の案内板

 この後は飯田市街を散策がてらプラプラと次の目的地である川本喜八郎人形美術館まで歩く。

 


川本喜八郎人形美術館

 NHKの人形劇シリーズの人形制作を手がけた川本喜八郎氏の作品を収めた美術館。氏の最近の作品もあるが、中心は三国志で使用された人形達。

 入館するや否や、いきなり諸葛孔明が出迎えてくれるが、このいかにも知的な風貌をした孔明に限らず、すべてのキャラクターがその役柄に応じて作り分けられているのに感心。いかにも高潔な感じの劉備、豪傑であるが愛嬌のある張飛、同じく豪傑だが理知的な印象の関羽など主人公キャラはいかにも主人公顔に作られている一方で、陰険なキャラはいかにもそのようにという雰囲気が全体から滲んでいるところはさすが。

 館内には人形制作の行程の展示などもあるので、作品の舞台裏を知るには最適。やはりあの人形劇シリーズのファンだった者なら訪問すべきだろう。飯田市自体がこの美術館に力を入れているのか、周辺には「人形劇の街飯田」という幟が林立していた。

 


 美術館を出た後は駅に戻るだけ。もし外でタクシーが待っていたら利用しても良いと思っていたが、生憎とタクシーは出払っているようだし、まだ時間に若干の余裕があるので距離的には十分に歩けると判断、そのまま徒歩で駅に向かう。途中でリンゴ並木の公園があったりなど、なかなかに飯田市の風情を堪能。結果としてこれは正解。やはり市街地は歩いてみないと分からないことも多々ある。行きは距離と方向を測る意味でタクシーを利用し、帰路は徒歩でというのはこれから新規な都市を訪問する時の一つのパターンになりそうな感じである。

 飯田駅に到着した時点で列車の発車まで30分ほどある。考えてみると、今日はホテルで朝食を摂れなかったので朝食代わりに買い込んでいたパンを1個車内で食べただけで、かなり空腹が身に染みている。駅前をざっと見渡すと、目の前に中華料理屋があったのでそこに入店。とりあえず列車の発車時間を告げて、それまでにラーメンが出来るかを確認(ラーメン程度ならそんなに時間がかかるはずがないと思うが、田舎ではたまにとんでもなく調理の遅い店があったりするからそのことを警戒した)。ラーメンならすぐに出来るとのことなので注文する。ラーメン自体はいかにも化学調味料を多用したもので今一つ感心しなかったが、価格も480円とそれなりだったので、とりあえず空腹を満たすだけで良しとする。

 

 飯田駅に戻るとここから再び飯田線でさらに北上する。次の目的地は伊那市である。沿線はしばらくは飯田盆地の続きで市街地であったが、だんだんと標高が上がり始めると共に、人家が少なくなってくる。ここからは飯田線は駒ヶ根高原に向けてひたすら上り坂である。辺りの風景も盆地のものから高原のものにと変化していく。途中で一部のアニメファンの聖地と化したことがある田切駅を通過するとまもなく駒ヶ根駅に到着。この駅は高原観光の拠点となっているのか、駅前も大きな集落のようで、ここから大量の乗客が乗り込んできて一気に車内は満員となる。

左 岡谷行き普通列車  中央 駒ヶ根に近づくにつれて高原になります  右 アニメファンの聖地・田切

 後は斜面を下りに入り、やがて辺りが盆地の風景に変わってきたと思えばほどなく伊那市駅に到着する。ちょうどここが伊那市の中心であり、多くの乗り降りがある。ただ私はここではなく次の伊那北駅まで乗車、駅前のファインデイズホテルに向かう。ここが今日の宿泊ホテルである。伊那北周辺は伊那市周辺よりも閑散としているが、ホテル自体は駅の真ん前で非常に立地がよい。

 伊那北駅に到着

 チェックインまで時間があるので、荷物だけを預けると再び駅に戻り、高遠行きのJRバスを待つ。高遠は「高遠には饅頭と城跡しかないぞ!」と言われて鳥坂先輩には不許可にされてしまった気の毒な場所だが、その城跡は桜の名所として知られているかなり有名なところであり、今は桜のシーズンではないものの訪問するだけの価値のある場所である。

 高遠行きのJRバスに乗車、揺られること30分ほどで高遠の町の中心部にある高遠駅に到着する。ちなみに「高遠駅」と言っても実際は高遠バスターミナルであり、過去において一度も鉄道が通ったことはない。しかしなぜか不思議なことにここは昔から「高遠駅」と呼ばれるらしい。

 

高遠駅に到着 前方に見える山の上に高遠城があります

 高遠駅から前方を見ると小高い山が見える。どうやらその上に高遠城址はあるらしい。毎度のことだがこの高低差だけは地図で見るのではどうしても分からないものである。その高さを見た途端に「徒歩で登坂する」という当初の私の計画は直ちに雲散霧消する(体調が万全な状態ならさほど無謀ではないのだが、本遠征では既にかなり私の体に疲労が溜まっている)。辺りを見回すと目の前にちょうどタクシー会社があったので、そこのタクシーを拾って高遠城址公園まで移動する。距離はワンメーターだったのだが高低差はかなりあり、やはり現在の私の体調ではタクシーの利用は正解のようだ。

 

左 本丸の門  右 案内図

 城址公園の駐車場でタクシーを降りると、そこから徒歩で高遠城址を散策する。高遠城は諏訪氏の居城であったが、武田氏の信州支配後に秋山信友が城主となり、その時に大規模な改修がなされたという。江戸時代以降には高遠藩藩庁として城主が転々として、明治に至り例によっての廃城となったという。現在、当時の建造物は売却・移築などをされたので残っていないが、城の遺構自体はよく残っている。特に本丸周辺の空堀などは圧巻。本丸裏手は川による切り立った崖になっているので、なかなかに堅固な防御を誇る城であることが伺える。

  

左 本丸周辺の深い空堀  中央 本丸跡は広場  右 太鼓櫓

 南曲輪へ向かう橋

 城址を一渡り散策すると、その近くにある高遠美術館に向かう。

 


高遠美術館

 地元ゆかりの画家の作品などを収めた美術館。美術館の雰囲気は悪くないのであるが、展示スペースは小さく、印象に残る作品も特になし。

 


 この美術館、比較的最近に建造されたのか、建物は新しいし洒落たデザインである。ただ後ろ側に回るとなにやら怪しげな三重の塔が建っている。城跡によってはこういういかにも顰蹙を買いそうな安っぽい建物が建っていることがあるが、どうもこれもその類のようである。今ではひっそりと美術館の裏に隠れて、高遠城側からは見えなくなっているが、これは正解。

 怪しい塔   歴史博物館

 美術館を見学した後は、さらに麓の歴史博物館を訪れる。この博物館内には「絵島囲い屋敷」が復元されている。当時大スキャンダルとなり、最近でも芝居のネタなどになる「絵島生島事件」であるが、その絵島が幽閉されたのがこの高遠の地であるとのこと。ただこの事件自体は当時の大奥内での勢力争いが絡んでおり、絵島はそれに巻き込まれたというのが真相のようだ。芝居などでは絵島と生島新五郎に男女の関係があったかのようにされているが、現実にはそれはなかったようである。高遠に流された絵島は、61才で亡くなるまで28年間をこの屋敷で軟禁状態での生活を余儀なくされたという。なお絵島もかなり不幸な生涯を送ったが、生島新五郎の方も一座の者も含めて流罪にされてしまったのだから、とんだ災難である。屋敷の方は窓にまで格子が入っており完全な座敷牢となっていたのが印象的。こんなところで28年も幽閉されて、それで正気を保つことができるものなのであろうか?

  絵島が幽閉された部屋はかなり狭い

 さてこれで高遠で回るべきところは大体回った。帰りであるが、タクシーを呼ぶことも考えたが、バスの発車時間までは十二分にあるし、これからの帰路は山肌に沿ってぐるりと回るだけなので、高遠城周辺を下から観察するという意味も込めて徒歩で高遠駅に向かうことにした。

 高遠城の麓を回る形で道が通っているが、この道自体が河岸段丘の途中を削っているような道であり、高遠城の険しさが非常によく分かる構造になっている。やはり信州は地形を活かした堅城が非常に多いようだ。

 高遠城の麓はかなり険しい

 ブラブラと戻る途中、民俗資料館があったのでそこにも立ち寄ることにする。民俗資料館は二軒あり、一軒はかつて藩のお抱え医師の屋敷跡。つい最近までその子孫が居住していたのだという。もう一軒は高遠駅の近くにあり、これは地元の大きな商家の跡とか。やはりこういう古いお屋敷は、とにかく良い木を使用している。こういう屋敷を見ると、木造建築というのは非常に日本の風土に合致しているのだということを感じるのである。

  

 高遠駅まで戻ってくると、土産に饅頭を買っていくことにする。駅の近くに「あかはね」という饅頭屋があったのでそこで購入。高遠饅頭はごく普通の薄皮饅頭の一種。桜の焼き印が押してあるのがいかにも高遠。なおこの店では地元民も買いに来ているようで、土産用の箱入りのものだけでなく、パック売りもしていたので私はこちらを購入。いわゆるいかにも土産物用の真空パック入りなどのものではなく、正真正銘の生饅頭なので賞味期限は5日ほど。和菓子の類は絶対にこういうところの方がうまいのは常識である。おまけに1つくれたので、それを高遠駅に戻ってから口にしてみると、餡の味がなかなか上品にして美味。やはりこの饅頭は当たりであった。確かに高遠は鳥坂先輩の言うように「饅頭と城跡しかない」所であるが、その饅頭も城跡も並ではなかったようだ。

  

 伊那市行きのJRバスに乗り込むと夕闇迫りつつある高遠を後にする。特別なものが何かあるというような所ではないのだが、来て良かったと思わせる土地であった。

 伊那市駅

 JR伊那市駅前でバスを降りると、とりあえずは夕食を摂ることにする。伊那に来た時に私が食べようと思っていたのは、地元の名物だという「ローメン」。マトンなどと野菜を炒めた麺で、炒肉麺(チャーローメン)とも呼ぶらしい。私が向かったのはこのローメンで有名だという「うしお」。店構え自体はそこらにある大衆食堂である。

 私が注文したのは「ローメン並セット(980円)」。ローメンにこれまたこの店の名物だといううしお煮(いわゆるモツ煮か)にトーフ汁などが添えられたセットである。ちなみに量に応じて並・大盛・超・超々などがある。

 

 出てきたセットを見て、並を選んでいたことが正解だったと感じる。とにかくボリュームがある。ローメンはいわゆる焼きそばの一種だと思われるが、関西などの焼きそばソースを使用した焼きそばと違い、ソースがサラッとしたウスターソース系。それに若干のすっぱみがある。なお伊那はソース文化圏なのか、ソースカツ丼の看板の掛かった店も数軒見かけたのが印象に残っている。このローメンを店内に表記されていた食べ方に従って最初はそのままで、途中から七味を少々ふりかけて頂く。七味を加えると味が引き締まってなかなかによく合う。

 また意外だったのがうしお煮のうまさ。私はいわゆるモツ系は苦手なのだが、このうしお煮にはモツに特有の臭さが感じられなかった。普通に軟らかい肉という感じで食べられ、これはご飯によく合う。またトーフ汁もなかなかに美味であった。これはB級グルメの王道を行くメニューである。果たして何度も食べたくなるかは微妙であるが、伊那市に来たなら少なくとも一度は話のネタに食べておかないといけないメニューである。

 

 夕食を済ませるとバスで伊那北駅まで移動、ホテルにチェックインする。今日の宿泊先であるファインデイズホテルは、例によって「安価な宿泊料、大浴場付き、朝食付き」という基準で選んだホテルである。部屋に入るとまずは入浴から。風呂でじっくりと疲れを癒し(今日は飯田&高遠ウォークで2万歩)、汗をかいた衣類はコインランドリーに放り込んでおく。最近は数日に渡る大型遠征が多くなったせいで、全日数分の着替えを持ち歩くわけにもいかないので(特にズボンなどは)、コインランドリーを使用することが多くなってきた。最近ではこれの有無も私のホテル選択の一つの項目に入りつつある。

 風呂からあがると旅行記の執筆・・・と行こうと思ったが、昨日よりもさらに疲労が溜まっており、とてもではないが頭が回る状態ではない。結局はそのままぼんやりとテレビを見て時間をつぶし、眠くなったところで早々に眠りにつくことになる。

 

☆☆☆☆☆

 

 翌朝は6時頃に起床する。昨日ほどではないが今日も早朝から予定が組まれている。6時45分から朝食が食べられるので、ロビーに降りるとまずは朝食。朝食時間は7時からのホテルが結構多いのだが、中にはここのように6時45分からというホテルもあり、そういう所は実にありがたい。と言うのは、鉄道中心の遠征の場合、7時30分ぐらいからの活動というパターンが多く、朝食開始時間の6時45分と7時の15分の差というのは非常にシビアに効く場合が多いのである。

 朝食を済ませると荷物をまとめてチェックアウト、目の前の伊那北駅に向かうとそこで上諏訪行きの列車を待つ。今日が本遠征の最終日となるが、まずは上諏訪に立ち寄ろうという予定。と言うのは、上諏訪地域に散在する美術館については以前の諏訪・長野遠征の時に攻略しているが、この時に松本城と共に訪問先から漏れていたのが上諏訪の高島城である(単純に忘れていたというだけでなく、この頃の遠征では城郭の比重が低かったというのも大きい)。ここに立ち寄っておくというのが本日の最初の予定。

 

 やがて到着した列車は先日の119系と違って、都会でよく見かける313系である。どうやらこのタイプも飯田線を走行しているらしい。

     

 飯田線はここからは伊那の市街から続くのどかな風景を北上していく。沿線は谷間の平地であり、辰野まで激しいアップダウンはあまりない。沿線は非常にのどかで、山本正之の名曲「飯田線のバラード」が似合いそうな雰囲気である。

  沿線はのどか

 ほどなく辰野に到着、ここで飯田線は終了して中央本線に突入すると共にJR東日本のエリアに突入する。ただし列車はこの先の上諏訪まで運行される。JR中央本線のこの地域は、辰野、岡谷、塩尻を中心として三角形の路線になっている。そもそもは中央本線は辰野を経由していたのだが、シールド工法などトンネル掘削技術の進歩によって、岡谷と塩尻を長大トンネルで直接つなぐショートカットコースが建造され、現在のこの形態に至ったという。今では中央本線のほとんどの列車は岡谷と塩尻を直接つなぐショートカットコースの方を経由しており、取り残された辰野ルートの内、辰野−岡谷間の中央本線は事実上飯田線の一部として運用されており、辰野−塩尻間は他と切り離された地方運行路線になっているようである。

 出典 JR東日本HP

 辰野からは山裾を回り込むように路線がつながっている。この辺りは単線の上に行程も長いので、確かにショートカットコースの建造は所要時間の短縮に大きく貢献したものと思われるが、その代わり味気なくもある。事実、この区間の沿線風景はなかなかに魅力的なものがある。

  かなり高い山

 間もなく岡谷に到着。岡谷から上諏訪の先までは単線区間で、この地域が中央本線の運用上のネックに未だになっているという。ただ沿線を見ていると特に上諏訪周辺はかなり立て込んでいるので、複線化のスペースは物理的になさそうである。

 上諏訪に到着するとまずはトランクをロッカーへ。ここから高島城へ向かうのだが、どうも距離と方角を測りかねるので、ここは無理をせずに駅前からタクシーを利用する。

  上諏訪に到着  

 高島城へはワンメーターで到着。高島城では石垣や堀などの遺構が残存しているところに、天守などを復元してありなかなかに威風堂々としている。この復元天守は例によって鉄筋コンクリートによるお手軽復元だが、遠目に見る分には結構様になっている。

  東と南方向の堀は広い

 城内に入ってみると、幅広の堀と石垣・土塁で厳重に守られている東面・南面に対して、西面が極端に城壁も低くて防御が弱いことに気づくが、これはそもそもこちらの面は本来は諏訪湖に面していたからである。当時は諏訪湖の湖岸はこの城のところにあり、この城は諏訪湖に突き出た浮城になっていたという。今では干拓によって周辺が陸地化して、湖岸がかなり遠い位置になっているので往年の面影は全くないが、当時は船着き場として使用されていたという門の存在が、この城が諏訪湖の浮き城であった事実を今に伝えている。

左 今では湖岸はかなり遠く  中央 北方向はこのように城壁が低い  右 この門は元船着き場
 

 高島城の見学を終えると、今度は徒歩で上諏訪駅まで戻ってくる。上諏訪は昔から温泉地として栄えているが、街並みも江戸時代の面影と昭和レトロが入り交じったような趣のあるもので、私の好きなタイプの街である。やはりこういう街並みを楽しむには実際に歩いてみるのが一番である。やはりこの「行きはタクシー、帰りは徒歩」というのはこれから一つのパターンになりそうな。なおこの諏訪地域は前回訪問時にも非常に心強く惹かれているので、いずれまた時間(と予算)が出来れば、この地域にじっくりと滞在したいように思う。

 

 さて上諏訪駅まで戻ってきたが、目的の列車の発車時間まではまだ少々時間がある。どうやって時間をつぶすかと一思案したところで、この駅の中には足湯があったことを思い出す。そこで改札をくぐると足湯に向かう。

     駅の中の足湯

 ホームの一角を仕切って結構立派な足湯場が出来ている。既に先客が数人いるようなので、私もさっさと靴を脱ぐとその仲間入り。足をつけてみるとこれが、プンと硫黄の匂いと共に若干のヌルヌル感があるなかなかに本格的な湯。湯自体は脇からダバダバと注がれている「かけ流し」。正直、足湯だけでなくて全身入浴したくなる。なお私は正直なところ、足湯なんてと少々馬鹿にしていたのであるが、これが意外に全身が温まってくるし、足の疲れも抜けてくる。これは馬鹿にしたものではないと驚いた次第。

   辰野まで逆戻り

 極楽気分に浸ることしばし、列車の発車時間が近づいてきたのでホームへと向かう。これからはとりあえずこの中央本線三角地帯を調査するつもり。まずは辰野行きの列車に乗り込んで辰野まで逆戻りすると、そこで隣のホームで待っている塩尻行きの列車に乗り換え。このロングシートのこじんまりとした車両は、他では見かけたことのない珍しいもの。表に回ると「ミニエコー」と愛称が書いてある。この車両は国鉄123系電車と言って、旧国鉄が荷物電車を改装したものなのだとか。JR東日本で運行されているのはどうやらここだけらしい。この小型車両が辰野−塩尻の区間を1日数往復しているようである。

   荷物車を改造したという独特な車両

 典型的なローカル線なのであるが、意外と乗客が乗り込んできて車内はそれなりの混み具合になる。沿線はのどかな田園風景。沿線人口は明からさまに少ないが、それでも途中の駅での乗り降りは数人おり、地域の足としての存在理由はあるようだ。やがて山が近づいてくるとトンネルに入る。この辰野−塩尻間は実は分水嶺になっているとのことで、トンネルの連続を抜けると、列車は甲高いブレーキ音を響かせながら塩尻駅に向かってかなり急に下っていくことになる。

 

 塩尻は中央本線だけでなく、長野方面行きの篠ノ井線も出ている一大ターミナル。とは言うものの、駅前には特に何があるわけではない。これからの予定はバイパスルート経由で一端岡谷に戻るというものだが、中央線の上り列車の発車までにはまだ時間があるので、とりあえずは軽い食事をしておこうと駅前をうろつく。

       

塩尻駅で分岐する中央本線

 駅前商店街的な施設があったので、その中のそば屋「遺跡そば幸楽」に入店。いきなり突き出しが出てくるのに驚いたが、メニューを見ても普通のそば屋よりもいささか高いのに驚かされる。本来ならざるそば系を注文するところだが(やはりそばの味を確認するにはこれが一番)、今日は寒気を感じている状況なので温そばを頼むことにする。注文したのは「てんぷらそば(2480円)」

   

 そばはかなり細めのそば。しかし細くても腰はキチンとある。出汁の味はやや薄め。以前に松本で入った別のそば屋といい、最近入店したそば屋はみんな薄味である。どうも私は信州そばと言えば辛いというイメージを持っていたのだが、こちらの方が本来の信州そばなのか? それとも県をあげて減塩活動に取り組んだという結果なのであろうか? 現地の事情に疎い私にはそこのところは謎である。

     

やけに濃いそば湯とデザート

 普通の天ぷらそばに比較すると、とにかく天ぷらが豪華。普通のエビを3本ほどつないだと思われる巨大なエビ天が目につくが、これ以外にも野菜の天ぷらが次々とどんぶりの中に潜んでいる。これが食べ応えがあり、これだけで腹一杯。そもそも私は昼食は松本で摂る予定だったので、ここでは空腹を軽くごまかすためにそばをと思っていたのだが、予定に反してかなりヘビーな昼食になってしまった。またさらに驚いたのが、この後に出てきたそば湯。未だかつてここまで濃厚なそば湯は見たことがない。しかもこれにデザートが付いてくるのである。

 価格はやや高めだが(実のところ、今回の遠征の食事での最高額となってしまった)、確かにそれだけの中身はあるのは事実だろう。ただ、そばとして考えた場合のCPは・・・。そばを食べると言うよりも、そば懐石を食べるぐらいのつもりで来る方が正解の店か。

 

 昼食(にするつもりはなかったのであるが)を終えた頃には適度な時間になっていたので、再び駅へと舞い戻る。既に私が乗車する予定の列車(甲府行き普通)はホームに到着していた。ただ発車時間になっても先行するはずの特急あずさが遅れているとのことで数分待たされる。

 路線は複線でほぼまっすぐに伸びており、いかにも高速運転対応という印象。トンネル手前にみどり湖駅があるが、ここでの乗り降りは大してなく、ここを過ぎるとまっすぐにトンネルに突入である。このトンネルが中々に長く、確かに鉄道草創期にはとてもではないが掘削不能だったろう。日本の土木技術の進化を身をもって体験できると言える。この長大なトンネルを抜けて緩いカーブを過ぎるとすぐそこが岡谷駅である。この間は数分で、確かに辰野経由のルートよりは劇的な時間短縮になっているのは間違いのないところである。

    

 岡谷に到着すると直ちにUターンである。当初の予定では折り返しの列車(松本行き普通)との接続時間は1分しかなく、その間に地下通路を通ってのホーム移動が必要なので、乗車は不可能と判断して40分先の次の列車を待たないといけないと思っていた。しかし先ほどの特急あずさの遅れの煽りを受けたのか、折り返し電車の到着が遅れており、結果としてはこれに乗車が可能となる。再び長大なトンネルを抜けて塩尻、そのまま松本まで乗車する。なおこの区間の車内は満員状態であり、やはり松本に出るルートはかなりの需要があることを伺える。

 久しぶりの松本である・・・とよく考えてみたら、この間の信州遠征から1ヶ月もたっていない。「松本か・・・何もかもが懐かしい。」などと呟きながら駅に降り立つと、この前に利用したコインロッカーにトランクをと思ったが、なんとロッカーの空きが一つもない。これは困ったと思っていたら、どうやらもう少し離れたところにもコインロッカーがあるとのことでどうにかトランクを入れることができる。一体何が起こっているのだろうと辺りをよく見てみると、やけに駅前の道路が渋滞している。現地ガイドによると松本でそば祭が開催されており、今日がその最終日なのだという。そのために観光客が殺到しているらしい。これは全く私の予定外だった。

 ところでこうして松本に来たものの、実はこれからの予定が全くない。帰りはここから特急しなのを使用するつもりで、既に事前に指定券を確保してあるので松本発の時間は固定されている。本来の予定では松本で昼食を摂るつもりだったし、松本到着ももっと遅くなるはずだったので、食事で終わりだったはずなのである。それが塩尻で昼食を摂った上に、予定よりも一本早い列車で松本に到着したので、松本で想定外の時間が空いてしまったのである。

 このままここでボーッとしているのも馬鹿らしい。こうなった場合にはやはり「困ったときの美術館頼み」と先人も言っている(?)。幸いにして松本市美術館の出し物は前回訪問時と変わっているようである。そこでとりあえずは美術館へと向かうことにする。美術館へは市内巡回バスを使用。ただこのバスも交通渋滞の影響を受けて予定よりも遅れて到着する。

 


「石井鶴三展 芸道は白刃の上を行くが如し」松本市美術館で11/29まで

 

 画家であった石井鼎湖の三男であった石井鶴三は、幼少期より立体造形に興味を示し、彫刻家への道を志す。その後、家族の生活を支えるために新聞の挿絵を手がけたりしながら、彫刻や絵画の分野で活躍、特に信州を舞台にした作品を大量に描きためてきたという。その石井鶴三の多彩な創作について展示した展覧会。

 変に技巧に走ることなく、自身の感覚が捕らえた事象をそのまま表現しようとしている傾向が見られる芸術家である。本来が彫刻家志向であったことから、立体的な構成に関心が高かったことは作品からもうかがえ、絵画などにおいてもどことなく構成に安定感が感じられる。相撲をモデルにした一連の彫刻作品など、その力強い構成と、ゴツゴツとした印象は彼の作品の特徴が端的に表れているようである。

 


 

 美術館をゆっくりと見学したところで松本駅へバスで戻ると特急しなのの到着を待つことにする。「必要経費を最小限にする」という条件を設定されている今回の遠征では、その趣旨に沿うと普通列車を乗り継いで帰宅すべきなのだろうが、さすがに帰路はもう体がヘロヘロになっていることが予想された上に、前回の遠征において特急しなのでさんざんな目に遭っていることを考えると、ここはやはり特急しなのでのリターンマッチが必要であると判断して、この帰路には大枚をはたくことにしたのである。

 夕食代わりの駅弁を購入してホームに入ると、既にホームでは自由席待ちの大量の行列ができている。私は前回に懲りて、今回は二週間前ぐらいにチケットを押さえておいたのだが、それが正解であったようだ。ほとんど満員乗車の状態で特急しなのが到着。車内放送によると指定席は完売している模様。

   

 特急しなのは滑らかに走り出す。やはりこの列車は座席に着いている限りは特に問題はないようである。あの時は立ち続けの上に異常な混雑で車内の空気がかなりよどんでいたのが決定的だったようだ。こうやって座席にさえ着ければぼんやりと外を眺める余裕もある。

 中央本線については正直に言うと、特に車窓については見るべきものがないという印象。ひたすら山が続くだけである。白い巨石がゴロゴロと転がる川辺は印象的であったが、さすがにそれも延々と続くと飽きる。カーテンを引いてしまって爆睡中の乗客も結構多いようだが、確かに仕事で何度か通ると風景にも飽きるだろう。やはり以前から感じていることだが、○○本線とつく路線は実用性優先で面白みに欠ける路線が多いようである。東海道本線然り、山陽本線然り。

   

 それにとにかく長い。特急しなのに乗車してさえ、松本から名古屋まで2時間以上である。やはり信州は特に関西からは非常に遠いということを痛感せずにはいられない。おかげで特急に乗車していたにもかかわらず、途中で背中が痛くなってきてまいった。やはり今まで3日間に渡って列車のシートで揺られ続けたツケがここになって出てきてしまったようである。

 

 ようやく列車が名古屋に到着した頃には日は西に傾いていた。名古屋で大半の乗客が降車するが、この列車は大阪まで運行される。なお旅費を最優先にする私は当然ここで快速に乗り換えるべきなのであるが、実は今回は米原まで乗車券を購入している。と言うのも、先に言ったように既にヘロヘロの私はここから米原までの長い旅程に耐えられそうにないだろうと予測されていたからである。競合私鉄のない部分では徹底的に顧客に不便を強いるのがJRの戦略だが、それが端的に出ているのがJR東海では岐阜以西の路線である(JR西日本の場合は姫路−岡山間)。ここではすべての列車が各駅停車になり、とにかく時間がかかる上に、乗客はかなり多くて車内は混雑するのが常なのである。また私が帰宅するには米原でさらに新快速に乗り換える必要があり、とにかく大変である。かつての若い頃ならともかく、もう人生の折り返し地点を過ぎたのではないだろうかと思われる今の私には少々キツイのである。そこでこのまま米原まで特急しなので移動し、JR東海の米原行き新快速の乗客よりも先回りしてJR西日本の新快速に乗車してやろうと考えたという次第。最小限のささやかな贅沢である。

   

 松本で夕食代わりに購入した岩魚寿司をパクつきながら、もはや見慣れた感のある沿線風景をボーっと眺めている内に岐阜に到着する。岐阜からは数人の乗客が乗車してくる。どうやら新幹線が接続していない岐阜駅では、この列車は大阪行きの移動手段として若干のニーズはあるようである。これらの乗客を拾うと列車は西に向かって疾走する。

 そのまま大垣を過ぎたところで、列車が突然右側にカーブして山の方向に向かって走り出す。この時に私は初めて垂井での迂回線の存在を思い出す。かつて登坂力の低い蒸気機関車が運行していた時代、関ヶ原の急勾配を列車が越えることが難しいため、西行きの路線は北側に大きく迂回したコースをとっていたという。今日ではその斜面を電車が余裕で越えていくため、大抵の列車はこの迂回コースを通らないのだが、それでも特急のいくつかはこのコースを通っているとのこと。この迂回ルートの方が距離は長くてカーブもあるが、線路自体はこちらの方が高規格とか。それにそもそも振り子特急のワイドビューしなのはカーブを苦にしない車両である。実際にかなりの高速で山間を突っ走っていく。やがて山間のトンネルを抜けるとすぐに左手を走行していた東海道線に合流。もう米原は目の前である。

 米原で下車、数分待ったところで新快速が到着する。さらにその数分後に東からの列車が到着、大量の乗客が乗り移ってくる。後は最終目的地まで、私は眠りにつくのだった。

 

 結局は飯田線周辺をうろつき、中央本線に対して先ほどの信州遠征のリターンマッチをしてきたというのが今回の遠征内容になってしまった。しかし「鉄道マニアではない」私にとっても十分に堪能できるだけの内容はあった。飯田にしても伊那にしても高遠にしても、どことなく私との相性の良さを感じさせ、やはり信州地域は形を変えての再訪がいずれはあるだろうと思われた。なお広場恐怖症の傾向があって地平線や水平線を見るとゾッとする私としては、山に囲まれた盆地地域は何となく落ち着く相性の良さを感じた。やはり私には海より山の方がむいているようである。

 これでJR東海地域は高山本線、飯田線という大物を制覇したことで、残るは多治見と美濃太田を結ぶ太多線のみとなった。私の最寄りはJR西日本のはずだが、北陸部分で手間取っている内に、JR東海の方が先に完全制覇になってしまいそうである・・・あっ、知らない間に言っていることがほとんど鉄道マニアになってしまっている・・・。

 

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