展覧会遠征 北陸・高山編

 

 さていよいよ夏の青春18シーズンも終わりに近づいてきた。ここは最後の遠征を考える必要がある。18切符の残りは2回。となると週末を使用しての一泊二日というのが妥当なところ。そこで展覧会スケジュールその他を綿密に検討した結果、浮上したのは北陸遠征であった。しかしただ北陸往復だけではあまりに工夫がない。そこで帰路に変化を付けることにする。

 

 まずは湖西線経由の新快速で敦賀まで。この行程は私にとってはまるで通勤経路のようなもので今更面白いものはないので、早朝出発の疲れでほとんど爆睡状態。ただ気になるのは京都をすぎた頃から車内が異常に混雑し始めたこと。もしこの連中がそのまま北陸線に向かえばとんでもないことになるが、出で立ちを見たところハイキングスタイルの模様。案の定、この連中は途中の湖西線の駅でバラバラと降りていく。とは言うものの、やはり敦賀到着時には乗車率が100%を越えている状態。麻生のバラマキ高速1000円の影響と、既に夏休みは終わっていることから大混雑とまではいかないものの、やはり敦賀駅では第4次スーパー席取り大戦北陸版が勃発することになる。

 とりあえず座席はなんとか確保できたものの、隣がずっとカップ酒を飲んでいるようなアル中親父。アルコール類が天敵の私としては、これは少々困った。このまま福井まで、アルコールとつまみの臭いにおいで苦しめられるのだった。底辺層から金をむしり取って底辺のまま固定するための効果的な装置は、酒とタバコと博打(パチンコ)などと言われるが、実際にこれらにはまり込んでいる者を見ると、いかにも底辺な雰囲気の者が多いのは事実である。底辺だからはまるのか、はまることによって底辺になってしまうのかは定かではないが。

  とにかく紆余曲折を経て金沢に到着した時には既に昼頃になっていた。列車に乗り続けで疲れた体をほぐしながら、とりあえずは昼食を先に済ませることにする。

 今回訪れたのは、以前にも訪れたことがある「グリル中村屋」。以前の時はコキール巻き定食を注文したのだが、今回は急いでいることと、前回の訪問時に気になっていたことから「カツ丼(650円)」を注文する。

 

 洋食屋でカツ丼というのも妙なものだが、ここのカツ丼は通常の和食屋のカツ丼と違って、カツの上にあんかけのようなとろみのあるたれをかけてある。これがまた甘みが絶妙でうまい。正直なところ、かなり変則的なカツ丼なので大丈夫かという懸念はあったのだが、あんかけにすることによって出汁がシャバシャバになることがなく、カツにまぶしてもカツがサクサクするというメリットがある。なるほどこんな手もあるのかと感心した次第。

 

 次の目的地への移動は通常なら歩いていくところだが、今回は時間もないし、トランクをゴロゴロ引いている状態なのでタクシーで移動する。


「古代カルタゴとローマ展」石川県立美術館で9/20まで

 

 フェニキュア人が築いた都市国家カルタゴは、古代において地中海に覇を唱える一大国家として繁栄した。その後、ローマ帝国と地中海の覇権を競って三度に渡って争うことになり、第二次ポエニ戦争では英雄・ハンニバルの活躍でローマの本土に迫るなどローマを苦しめたが、ついには第三次ポエニ戦争でローマに敗北。その後、痕跡をとどめないまでに完全に破壊された。しかしそれから100年後、ローマの支配下で再び地中海の重要都市として復活している。そのような数奇な運命をたどったカルタゴの文化を示す品々が展示されている。

 この地域の文化で面白いのは、エジプトとギリシア・ローマの中間のような特徴を持っていることである。装飾品のデザインなどは多分にローマ的に見えるのだが、そこにヒエログリフが刻まれていたりと、何やらごった煮の印象がある。また貴金属に恵まれたカルタゴにおいては、金属加工の技術の発達がめざましかったとのことで、圧巻だったのは彫刻細工を施された鎧。あくまで実用品であったはずにもかかわらず、そこに施された細工の妙には感心させられる。

 後半部はローマ支配下でのカルタゴの文化を示すもの。ただここになると一般的なローマの物品と差がなくなってしまっている。とは言うものの、終盤に展示されているモザイクの緻密さには唖然とさせられるのであるが。

 


 本遠征における美術展面でのメインイベントは本展になるのであるが、本展だけで十分に金沢くんだりまで出張ってきた価値があると思わせる内容であった。なおカルタゴの盛衰に興味のある向きは、塩野七生氏の著作を参考にされるのが良いと思う。

 

 展覧会の後は駅までとんぼ返り。これも時間があればバスで帰るところだが、スケジュールがカツカツなのでタクシーを使用することにする。これからの予定は富山まで移動の後、一旦富山を通り越して糸魚川まで沿線視察の後に富山に帰還するというもの。北陸線は現在のところ富山までしか視察していないので、その範囲を糸魚川まで伸ばしておこうというものである(時間があれば一気に直江津まで行きたいところだが、さすがにそこまでの余裕がない)。

 JR西HPより

 当初の予定では富山まで一気にサンダーバードで飛んで、そこから直江津行き普通に直ちに乗り継ぐというものだったのだが、予定通りに駅に到着するとサンダーバードの到着が10分以上遅れているとのこと。これだと富山で普通列車に乗り継ぎができない可能性があり、それではわざわざ特急料金+乗車賃まで払う意味がない。この時点でプランAを破棄、直ちにプランBに切り替える。私の遠征計画ではこういう事態を想定して、大抵は複数プランを用意しているのである(なぜその緻密さを仕事に活かせないのかについては説明するまでもなかろう)。10分以上遅れて到着したサンダーバードをやり過ごし、富山までの移動は後続の普通列車で済ませることにする。

 金沢−富山間は以前にも乗車しているが、沿線は田んぼが中心であまり面白味のないところ、また車両も敦賀からこっちは交直両用の457系ばかりで変化がない。457系のボックス型セミクロスシートは、シートは固いし狭いしとあまり快適とは言い難い。これは暗に長距離は特急に乗れと言っているのであろう。JR西のお得意の貧乏人への嫌がらせである。救いは路盤の方はサンダーバードの高速運転に対応できるように強化してあるので、路盤の狂いから来る不快な揺れはないことか。ちなみに北陸新幹線開通後は、北陸本線はJR西から経営分離されることになっているとのことだが(第三セクターになるようである)、それは現在よりサービスの向上を促すか、それとも財政的逼迫で条件の更なる悪化を促すか、注意が必要なところである。ただ東北新幹線の開業などで在来線がJRから切り離された東北地方では、在来線がズタズタの状態になり、青春18切符などが極めて使い勝手が悪くなっているが(現在のところ東北地域に未だ踏み込んだことのない私には実感としてはよく分からないが)、これと同じ状況になれば北陸地方が現在よりも縁遠い地域になりかねない。

 富山に到着すると直江津行きの普通に乗り換え。これもまた457系で3両編成。車内は結構混雑している。富山を出ると列車はまずは北上。富山の市街地を抜けるとすぐに沿線は田んぼの風景になる。途中で富山地方鉄道と併走したりしながら、最初に到着する都市は魚津。ここでかなりの乗客が下車する。その後は黒部の先で富山地方鉄道とクロスすると(富山地方鉄道はここから山岳地帯を目指していく)、JRは海岸線に沿って走る。とは言うものの海がそこに見えるというわけでなく、海がすぐそばに見えるようになるのは越中宮崎を過ぎた辺りから。しかし残念ながら、山陰本線のように海岸に砂浜があったり奇岩があったりというわけでなく、護岸工事されている人工海岸が多いので風景には面白味がない。やがて市原を過ぎた辺りから大型トンネルの連続。この辺りは海岸の海の中を高速道路が通っていたり、山には大型の発電施設のようなものが見えたりと、とかく人工的な建造物が多い。これは田中角栄時代の土建王国新潟の名残だろうか。しかし風景的には面白くないとしか言いようがない。おかげでやけに長いという印象。

  糸魚川駅には煉瓦の車庫が

 列車は間もなく糸魚川に到着。列車はここで大糸線からの列車の接続を待ってしばしの停車だが、私は途中下車。本来は北陸本線の終点である直江津まで行きたいところだが、富山に引き返す時間を考えるととても無理(直江津まで行くとさらに1時間はかかる)。今回はとりあえずここからUターンである。一旦駅の外に出るが別に何もすることはなし。なお引き返す普通列車が出るのは1時間以上先だが、こんなところでそんなに時間をつぶしようがないので、20分後に到着する特急北越の自由席券を購入する。

  古色蒼然とした大糸線車両

 特急券を購入して駅構内に再入場した頃に大糸線の車両が到着していた。大糸線のJR西領域は非電化なので到着した列車は古式ゆかしいキハ52形の単両編成。すると構内のあちこちで一斉に写真撮影会が始まる。突然にカメラを出してくるおじさんを始め、一見鉄道とは無関係そうなお姉ちゃんや、電車とディーゼル車の区別もつかないのではと思えるようなおばさんまで、全員がカメラを構えてパチパチ。鉄道マニアが巷に増殖しているとは聞いていたが、ここまで比率が増加しているとは呆気にとられる。ちなみに富山まで行程では、首からカメラを三台ぶら下げて(しかも一眼レフフィルムカメラのようである)巨大な機材トランクを引っ張った絵に描いたような強者鉄道マニアもウロウロしていた。最近は鉄道ブームだと言われるが、確実に鉄道マニアの低辺が広がっているのだろう。おかげで昨今では私まで鉄道マニアと間違われる。ちなみに筋金入りの鉄道マニアの場合、鉄道の「道」はまさに「武道」や「茶道」の「道」と同じ意味になり、非常に禁欲的であったりする。とてもじゃないが私のような一般人にはそれは無理である(そもそも私は非常に雑念が多いタイプだし)。

 

 ホームで待つことしばし、金沢行きの特急北越がやってくる。私の予想通り自由席はガラガラで難なく席を確保できる。乗車してみて感じるのは、特急と普通でのシートの違い。あの固いシートに数時間揺られてきた身とすれば、特急のシートは極楽である。格差社会などと言われるが、その格差を身を持って感じずにはいられない。なおこの時に分かったのは、人間の時間感覚なんていい加減なものであるということである。この特急はそんなに速いわけではないので、先ほどの往路に比べると大幅に時間短縮と言うほどでもないにも関わらず、主観的にはあっと言う間に富山に到着したのであった。気を付けないとこれは堕落してしまいそうだ。

 

 富山に到着するとホテルの送迎バスで移動。今回の宿は「ドーミーイン富山」。私の利用するホテルチェーンの中では「高級ホテル」の位置づけになる(笑)。どうせ今回の遠征は無理な行程でクタクタになることがわかっていたから、ホテルには若干はりこんだということである(と言っても宿泊料は7000円以下だが)。ちなみに私がよく利用するホテルチェーンには後はスーパーホテルとルートインがあるが、スーパーホテルは宿泊料は安いがどうもチープ感がぬぐえない印象があり(それといつも部屋の照明が暗い)、ルートインは施設によって当たりはずれが大きいというのが経験則。これに対してドーミーインは金沢が私の定宿なので、富山もまさか大はずれはないだろうとの読みである(東京方面のドーミーは今一つであったが)。

 

 ホテルにいったんチェックインした後は、とりあえず夕食に繰り出すことにする。と言っても遠くまで出ていく気は毛頭ない。ホテルに比較的近い位置にある「寿司栄総曲輪本店」で済ます。以前にも一度行ったことがある明朗会計が売りの寿司店である。

 

 ここで地場もののネタを腹一杯堪能。特別にすごい寿司店というわけではないが、回転寿司などと違ってきちんと職人が握るまともな寿司。また初めての人間でも行きやすい敷居の低い店である。個人的には「禁煙・禁酒の店」であるために、食べることに専念できるというのが一番良い(寿司店で隣に馬鹿喫煙者でもいたらぶち壊しである)。一渡り握ってもらったが、絶品だったのは焼きたてのアナゴ(タレでなくて塩でいただいた)とポン酢をあえたカワハギ。これらを腹一杯食べて支払いは4510円。なかなかにリーズナブルである。

 夕食を済ませた後はホテルの大浴場で疲れをいやす。このホテルは天然温泉の大浴場を売りにしているのだが、これが赤っぽい色をしたアルカリ単純泉で、同じ系列の金沢のものとよく似た泉質。旅の疲れを抜くにはなんと言っても風呂が一番。やはりこのホテルを選んだの正解だったようだ。こうしてこの夜は暮れていったのだった。

 

 

 翌日は5時30分に起床すると、まずは朝から温泉。これが何とも言えない贅沢である。荷物の片づけをした後、ホテルで朝食。これも質量ともに十分。やはり「高級」ホテルにしただけの価値はあったようである。

 出発準備が整ったところでチェックアウトを済ませると、送迎バスで富山まで移動。駅でみやげなどを買いつつ待つことしばし、1番ホームに猪谷行きのキハ120系二両編成の車両が到着する。JR西の非電化エリアでおなじみのこの車両、軽量コンパクトで馬力のある山岳ローカル線向き車両である。ただし単両運行を見ることがほとんどなので、2両編成はいささか珍しい。

 

 出発時間が近づくと車内は満員状態になる。乗車率はかなり高い。そのまま列車は富山市街地を南下。だんだんと民家が減って田園風景になると共に、南方の山々が接近してくる。越中八尾を過ぎた辺りから大きく路線はカーブすると共に、標高を上げていく。笹津を過ぎて神通川を渡った辺りから本格的に山岳地帯に突入、この後は川沿いを延々と南下することになる。とにかく山岳列車なのでトンネルが多いのが特徴の一つ。

 沿線にはダムが多い

       

 

        

猪谷駅にて列車を乗り換え

 1時間弱で猪谷到着。ここれで車両乗り換えになる。ここがJR西と東海の境界駅になるが、猪谷自体は全く何もない駅。前方のホームに移動するが、かつて神岡鉄道が利用していた切り欠きホームが封鎖されているのが悲しい。そこで待つこと10分ほど、南方からやって来たのはJR東海の2両編成のキハ48形。元々はそんなに馬力のある車両ではないが、JR東海の48形は山岳路線に合わせてエンジンを換装してあるとのことなので、乗客を満載したまま車両はエンジンを高らかに快調に加速する。

   山岳の風景が続き

 それがやがて盆地の風景に変わると高山に到着

 ここから先は延々と川沿いの山岳地帯を走行。ところどころの集落ごとに駅があるという印象。それにしても驚くのはダムの多さ。この路線は最初は神通川、途中から宮川に沿って南下するのだが、とにかくこれらの川にはダムが多く、何重もダムが連なっているような印象である。このような風景をボーっと眺めること1時間ほど。辺りの風景が山岳地帯から盆地になったと思えば、間もなく高山に到着する。

  高山駅と駅前風景

 高山駅では大勢の乗客が一斉に下車。この列車はこのまま美濃太田まで運行されるが、私もここで途中下車する。駅の前が高山バスターミナルで、ここから白川郷など各地行きのバスが運行されているようである。駅前には観光案内所なども設置されており、観光客が非常に多い。私はとりあえずバスターミナルのロッカーに重たいトランクを放り込んでからしばし駅前を散策。そうこうしているうちに目の前に二階建てバスが停車する。

 これが美術館のシャトルバス

 この二階建てバスは1967年製でかつてロンドンで運行されていたもの。現在は高山美術館へのシャトルバスとして運行されている。元より「美術館遠征」のために来ている私はここを訪問予定。迷うことなくバスに乗車すると二階席の最前列を陣取る。この席はちょうど運転席の上方に当たり、前方視界抜群の特等席である。このバスは美術館までの往路はわざわざ高山市街を30分かけて大回りして運行されるので、これがちょうど市街地見学になるという仕掛けになっている。

          

左 一階席 中央 狭い階段 右 二階席

 そのうちに多くの乗客が二階席にドカドカと上がって来始め、ようやく発車時間。バスはエンジン音も高らかに発車。しかし年代物だけに、エンジン音はやたらに甲高くてうるさいし、その上に背丈がやたらに高くてしかも超トップヘビー(大抵の乗客は二階席に上がってくるから、余計にそれに拍車がかかる)のため、安定性が悪いのかやたらに揺れるし当然のようにスピードは出ない(出す必要もないが)。それに当然のようにクーラーなどはついていないから、車が停車すると窓から風が入ってこなくなって中は蒸し風呂になるといった結構難儀なバスである。入口が一つの上に階段が狭くて乗り降りがしにくいということを考えても、明らかに日本向きのバスではない。

 目線はこの高さ。標識がギリギリです

 とは言うものの、この高さから見下ろす街並みは最高である。何しろ道路標識が天井スレスレという状態(多分、このバスの運行ルートはバスの背丈に合わせて標識を高くしていると思われる)。普段には見られない目線で街並みを見下ろせる。またこのバスはやはり目立つので、観光客にとっては格好の被写体のようだ。

  

 バスは古い街並みな高山陣屋の脇などを通ってから30分で高山美術館に到着。美術館は町からやや外れた小高い丘の上にある。


高山美術館

 ガレなどのガラス作品や19世紀ヨーロッパの調度品などを中心とした美術館で、いわゆるリゾート向け美術館の範疇に入る。

     

     

 ただコレクションに関しては私が予想していたよりも遙かに良いものがあった。ガレやドーム兄弟などの興味深い作品が多々。また外光が入る展示室などもあり、自然の木々(とは言っても人工林だが)をバックに眺めるガレの作品なんてのもなかなか乙である。ガレの作品はあちこちで見かけることが多いため、最近は正直なところ食傷気味になっていたのだが、ここの展示のおかげで再びこの分野に興味を持つことができた。

 


 美術館の見学を終えた後は、市内周回バス(さるぼぼバス)で高山陣屋まで移動する。やはり高山で一番の観光の目玉と言えば、古い市街地とその象徴である高山陣屋である。

 

 国の史跡というだけあって立派な建物である。いわゆる城の本丸御殿などと雰囲気は非常に似ているが、代官所であったので取り調べを行うお白州などが設置されている。それと驚いたのは、外は結構暑いのに建物の中では涼しさを感じたこと。これこそ気候に合わせた日本建築の妙。風通しが非常に良い建物となっているようである。なお隣接している蔵の中が展示室となっており、その中には高山城の復元模型などもあって興味深かった(残念ながら撮影禁止である)。

   

 陣屋の見学を終えたところで次は高山城址を目指す。高山城は戦国時代に金森長近が築いた山城だが、元禄時代になって金森氏が国替えになり、後に高山の地が天領になったことで取り壊されたという。

  高山城址はこの山の上

 いつものことであるが、地図を使った事前の調査ではどうしてもイメージがつかめないのが、現地の高低差である。高山城は山城と聞いていたが、いざ現地でその山を見た私は思わず絶句する。地図で見た時はせいぜいお寺の裏山ぐらいのイメージしか持っていなかったのだが、こうして現地で見てみるとかなり本格的な山。お寺の裏山と言うよりも、お寺がやまの中腹にあるイメージなのである。

  中腹にして既にこの高さ

 とりあえず遊歩道から登山にかかるが、体力不足が祟って最初からややへばり気味。公園整備されているので明知城のようにひどくはないが、やはり蚊がかなりたかってくる。そこで以前に恵那で購入した虫除けスプレーを久しぶりに取り出すことに。

  搦め手からの登城口

 高山城はネットの情報などでは「非実戦的な城」などと書いてあり、確かに陣屋で見かけた復元模型でも要塞と言うよりは館というイメージではあったのだが、どうしてどうしていざこうやって現地で登ってみると地形自体が既に要塞である。やはりそこは痩せても涸れても戦国時代の城、そう易々と攻め落とさせてくれるものではないようだ。

   分岐を過ぎてさらに登る

 しかもここに来て残り時間が心許なくなってきた。帰りの列車の発車時刻に合わせて例によっての緻密なスケジュールを立てていたのだが、高山陣屋の規模を読み違えていたことで見学に思ったよりも時間を要した上、高山城がここまで本格的な山城というのも計算違いだった。とりあえず早足で先を急ぐが息切れすること甚だしい。私の前をスリムな若者が身軽に登っていくのがうらやましい限り。私にあの若さとスリムなボディがあれば苦労はないのに、現実は衰え始めている体力とメタボ一直線のボディである。何と無惨な有様か。

  しばらくしてようやく曲輪のようなものが

 私が登城を始めたのは搦め手口側からになるのだが、九十九折りの階段が続いて行っているイメージ。曲輪址などは残っているが、石垣等はそうあまり残っていない。鬱蒼としているので森林浴に良さそうだが、今はそんな余裕はない。かなり急斜面なので、よろけて落ちたら洒落にならないなという考えが頭をよぎる(実際、無理に飛ばしすぎたせいで若干頭がフラフラしている)。

  本丸跡はこの状態

  往年の姿はこうだったそうな

 ようやく本丸に到着。本丸跡には案内の看板が出ていて、石垣の一部が修復されているようだが、建造物の類は一切ない。また標高はそれなりにあるのだが、視界が気で遮られているせいで残念ながら眺望はない。高山陣屋などに比べると、これはあまりにマニアックすぎる場所のようだ。道理で観光客の類がほとんどいないはずである。

  ここから大手門方向に向かえるようだが・・・。

 このまま反対方向に突き抜けると大手門方向に出られるようだが、残念ながらそこまで回っている時間的余裕がないので、そのまま二の丸方向にひたすら下っていく。二の丸跡は今では駐車場や売店になっていてかつての面影は全くない。とりあえず売店で燃料補給代わりにジュースを一本飲み干すと、再び高山市街へとって返す。

 

 当初の予定では陣屋近くで昼食を摂ってバスで駅に戻ってから土産物でも物色する予定だったが、残念ながらもう時間的にゆっくりと昼食を摂っている余裕はない。仕方ないのでそのままあるいて駅まで移動すると、駅前のラーメン屋「伝馬」に入る。トマトラーメンなんてものがあるようだが、私はオーソドックスに「高山ラーメン(650円)」を大盛(+200円)で注文する。

    

 とにかく何か食べておかないと身体がもたないということで入った駅前のラーメン屋なので、実は味には全く期待していなかったのであるが、これが案に反してうまい。鶏がら系スープのようだが、完全に澄んではいずに若干濁りがあるタイプのスープ。鶏がら系スープは結構薄っぺらい味のところが多いのだが、ここのはそういうことがない。麺は細麺で結構腰が強く、これがスープと合っている。特別なキャラクターはないが、オーソドックスにうまいというラーメンである。

 とりあえず腹を満たした後はそこらの店で適当な土産物を物色、トランクを回収して駅に向かうと大勢の乗客がゾロゾロと駅に入場するところであった。大半の乗客は特急ひだに乗車するために1番ホームに、特急に乗車する金のない私のような貧民は美濃太田行きの普通列車に乗車するために3番ホームに移動である。これも格差の縮図と言える。

 

1番線で特急ひだを待つリッチな方々と3番線で普通列車を待つ○○な連中

 特急ひだ

 

  こちらは18キッパー御用達列車

 しばらく待つと南の方から美濃太田行き普通列車が到着。どうやら高山発らしい。この時間帯はちょうど観光客が帰り始める時刻のようで、1番ホームは客がひしめいていたが、こちらの貧民組も結構の人数がいる。これで2両編成ぐらいのがやって来たらどうしようかと思っていたが(私が猪谷から乗ってきたのは2両編成だった)、そこに到着したのは4両編成の車両。おかげで座席は十分に確保できた。

  さらば高山盆地

 高山から南下すると、すぐに辺りは山岳地帯に突入する。これから美濃太田まで2時間半ほど川沿いにこの手の山岳風景が延々と続くことになる。昨日の北陸本線なんかに比べると遙かに見応えのある風景だが、さすがに朝からこれだけ見続けだとさすがに少々辟易してくるのが本音。そう言えば猪谷から高山に来る時に乗車していた鉄道マニアと思われるオッサン二人が「高山に来る普通の観光客は普通列車なんかには乗らない」と大きな声で話していたな。

  下呂温泉は突然にビルが林立している

 延々山里風景が続く中で、突然にビルが見えだしたと思えばそこは下呂温泉である。高山本線の沿線での一番の観光地は高山とこの下呂温泉になるようである。ここでの乗り降りも結構多い。

    

 下呂を過ぎると再び山岳風景とダムが連なる川。やがて上麻生、下麻生などというどこかの馬鹿総理を思い出させる名前の駅を通り過ぎ、ようやく美濃太田に到着する。

 高山本線は岐阜まで続くのだが、列車の運行はここで一端途切れるようだ。この美濃太田もターミナルで、高山本線だけでなく、多治見に向かう太多線と越美南線が転じた長良川鉄道がここから発している。とは言うものの、駅前にはホテルは何軒かあるようだが、あまり活気があるという雰囲気もない。

  

美濃太田で乗り換えて岐阜を目指す

 こちらは長良川鉄道の車両

 ここで再び40系の列車に乗車すると、岐阜を目指す。しばらくは今まで同様に川沿いの風景だが、新鵜沼で名鉄と併走するようになったところからは、岐阜の郊外住宅地を疾走するというような車窓風景に変わる。高山本線もこの区間は名鉄との勝負のために運転本数を増やしているようであり、駅で多くの列車とすれ違うことになる。ようやく岐阜に到着した頃には、既に日はとっぷりと暮れており、ここからまだまだ続く帰路の長さを思うと気が重くなるのであった。

 結局は自宅に帰り着いたのは夜もすっかり更けた頃。しかもその間、ひたすら列車に乗り続けであり、昼に食ったラーメン以降は、岐阜駅で乗り換えの間にキオスクで購入したあんパンを一つ食べただけで終わってしまったのである(こんなことばかりをしていたら痩せそうだな(笑))。さすがにこれは私にはいささかハードすぎる遠征だったかもしれない。

 

 

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