展覧会遠征 小田原・東京編

 

 さて今年も青春18シーズン真っ盛りであるが、こうなると例年のように再び浮上するのが東京遠征である。

 東京遠征となると問題になるのはその交通費。政府の無策で不景気が続いて収入は減少している上に、小泉インチキ改革のせいで税金はたっぷり搾り取られるご時世では、交通費削減は至上課題である。

 となるとやはり青春18切符を最大限使用するという方法しか考えられない。普通列車を乗り継いででも、朝一番に出発すると夕方過ぎには東京に到着することは可能である。とは言うものの、丸一日列車に乗っているだけなんていうのは、鉄道マニアではない私には耐え難い。やはり途中でどこかで一泊するというのが無理のない計画というものだろう。前回の東京遠征では、掛川で一泊して身延線を使用して甲府経由で東京入りというルートをとった。

 日程であるが、目的とする展覧会の会期を考えると夏休み中にならざるを得ない。盆頃の混雑を避けるとすると必然的に夏休みの終盤の週とならざるを得ないのである。どっちみち私はお盆は特に休みはなく仕事である。そこでその分の休暇を翌週に取れるように仕事の方を手配、結局は木〜月というかなり平日を絡めたスケジュールを組むことにしたのである。

 

 まずは毎度のように新快速で米原まで移動。ここで例によっての第4次スーパー席取り大戦だが、今日は平日の上に今年の18シーズンは麻生の人気取りばらまき高速1000円政策のために低調であるので、例年になく楽な展開。難なく大垣行き普通の座席を確保。大垣では豊橋行きの快速に乗り換えるが、これも難なく座席を確保。そのまま豊橋に到着する。

 暇なので参考資料を開く・・・いよいよ鉄道マニアめいてしまっているような

 豊橋に到着すると一旦改札を出てから、今後の行動の妨げとなる重たいトランクを、ロッカーに入れてから再び改札をくぐる。今日はこれから飯田線で移動する予定。飯田線は豊橋から長野県の辰野を結ぶ単線電化のローカル線である。山岳地域を進むのどかなこの路線は鉄道マニアの聖地とも言われるほど彼らに人気だという。

 飯田線路線図 恐るべしはこの駅の多さ

 とは言うものの、何も私は今回は飯田線を全線走破しようというわけではない。今回の目的は飯田線沿線にある長篠城を訪問することである。長篠城は織田・徳川連合軍が大量の鉄砲を用いて武田騎馬軍団を壊滅させた有名な長篠の戦い(最近は設楽が原の戦いという呼び名の方が一般的)の発端となった城である。この戦いはそもそも西方進出を目指す武田勝頼が織田方の長篠城を囲み、織田・徳川連合軍がその救援のために駆けつけたことによって生じた戦いである。長篠城に籠もる奥平信昌は500の兵で実に2万5千の武田軍の包囲に耐えたと言われており、かなり堅固な城だったようです。ちなみにこの城は100名城の1つにも選ばれている。

 豊橋駅はJRと名鉄で共用

 豊橋駅はJRと名鉄が共用する駅になっている。面白いことに、下り線と上り線がそれぞれの会社の所有なのだという。飯田線のホームは行き止まりホームになっていて、そこに119系の二両編成が入ってくる。内部はセミクロスシートになっているが、学生などを中心にほぼ満員の状態であり、飯田線ののどかなローカル線というイメージとはやや違う。

 

車両内は意外に混雑しています

 出発するとしばらく飯田線は東海道線と並行して走るが、この部分の路線は名鉄との共用である。なおこの区間には船町駅と下地駅があるが、私の乗車した本長篠行き普通列車はこの二駅を通過するので、最初に停車するのは次の小坂井駅になる。大久保を経て次が豊川稲荷で知られる豊川駅だが、この辺りまでは町中を走る印象。なお路盤が良くないのか車両がよく揺れる。やはり最高速度にはかなり制約がありそうである。豊川稲荷で有名な豊川では乗り降りが非常に多い。私は豊川稲荷には立ち寄らないが、豊橋駅で購入したいなり寿司を遅めの朝食兼昼食第一弾でぱくつく(少し何かを腹に入れておかないと、今後の行動に響く)。いかにも名古屋エリアらしい濃いめの味付けだが悪くはない。

 

 次の三河一宮駅で大量の学生が下車すると共に、周囲がやや田舎めいてくる。とは言うものの山の中というイメージとは若干違う。そして再び沿線に住宅が増えてきたかと思うと新城に到着。ここで残りの乗客のかなりの部分が降車し、車内の乗客は数人になる。飯田線はローカル線で本数も少ないというイメージがあるが、新城までは近郊路線として乗客も多いようで、この辺りまでは1時間に2本という比較的多い本数が運行されているようである。

 長篠城駅は無人駅

 新城を過ぎると大分ローカル線めいた雰囲気になる。そして私が下車したのは終点の本長篠の1つ手前の無人駅・長篠城駅。城をかたどった簡単な待合室があるだけの簡素な無人駅であり、駅前も特に何もない。ここから昔の登城筋であったと思われる道を長篠城に向かって10分程度歩く。

 

 一応長篠城は観光整備されているようであり、案内看板なども立っており、資料館も建設されている。資料館は小さいものの、中には長篠合戦にまつわる物品が展示されてあり、当時の火縄銃なども大量に展示されている。また展示の中で力を入れていたのは鳥居強右衛門のエピソード。彼は援軍を求めるために完全包囲下の長篠城を抜け出して無事に織田軍の本陣に到着したものの、援軍到着を知らせるために長篠城に戻ろうとしたところを武田軍に捕らわれる。彼は勝頼から、城兵に「援軍は来ない」と嘘を告げれば命を助けると言われて承諾するものの、城兵を前にすると「援軍はそこまで来ている」と叫んで武田軍に磔にされたという。勝頼は城兵の士気をくじくつもりだったのだが、彼の行為によって逆に城兵の士気は上がり、結局は長篠城の攻略を果たせぬまま設楽が原の合戦に突入することになり、これが武田の敗北、ひいてはその滅亡にまでつながったというわけである。なお鳥居強右衛門の行為に感動した武田の家臣の落合左平次道久が、磔にされている強右衛門の姿を絵に残してこれを旗指物に使ったとのことで、この絵はこの資料館だけでなく、この周辺のあちこちで見かけることになる。

 

長篠城跡資料館と鳥居強右衛門の磔図

 さて現在の長篠城であるが、建造物は全く残っておらず本丸跡はただの広場になっている。しかも飯田線の線路が本丸のすぐ脇を通っている。どうもこちらから見たのではよく分からないのだが、実は本丸の向こう側は三方を川に囲まれており、そちら側は切り立った崖の天然の要害であり、正面方向だけ何重かの堀や城壁を巡らして固めればかなり堅固な要塞になることは分かる(当時の堀の跡も残っている)。

 

本丸跡はただの広っぱだが、回りはかなり深い断崖になっている

 現地案内板より城の縄張り

 とりあえず見るものは見たので先に昼食をとることにする。今日の昼食はここから少し西に歩いたところにある「こんたく長篠」。農協直営の食堂で、いわゆる道の駅の類に設置されており、隣は産直販売場といういかにもの施設である。ここでは地元の農家が育てた牛の焼き肉が食べられるとか。

 私が注文したのは「焼肉Cランチ(1500円)」。牛肉と鶏肉のセットに野菜に赤だし、フルーツなどが運び込まれてくる。肉質としてはまずまず。決してCPとしては悪くないだろう。ただ私はつい最近に、養老焼肉街道での圧倒的なCPを体験しているだけに、どうしてもそれと比較してしまうとつらい。

 

 昼食をとっているうちに列車の時間が近づいてきた。このあたりの飯田線は1時間に1本のダイヤなので、これを逃すと1時間待ちになる。予定の列車に乗るならやや急ぎ気味に昼食を片づけて駅まで移動する必要がある。しかし私はここで瞬時に決断する「次の列車にしよう」。実際のところ、当初に予定を立てた時から長篠城での見学所要時間が計算できなかったので、私は長篠城見学の1時間半コースと2時間半コースの2プランを用意していた。ここで2時間半コースを選択することを決断した次第。これは昼食をセカセカ食うのも今一つだと感じたこともあるが、実はもう一つ考えがあってのこと。

 

 ゆっくりと昼食を終えると、再び灼熱地獄の中へと出陣していく。それにしても暑い。頭に日が照りつけて日射病になりそうだし、首からはあふれるように汗が流れている。この時の私のスタイルというのが、先ほどコンビニで購入した3枚組の安物タオルを取り出し、1枚は帽子代わりに頭にかぶり、もう1枚は汗止めに首に巻いているという超怪しいスタイル。しかし身なりをかまっているような状態ではない。

  周辺はかなりのどか

 その怪しいスタイルのまま、長篠城駅の1つ手前の鳥居駅まで歩く。しかし実のところ目的地はさらに先である。そのままさらに歩くと宇連川を横切る牛渕橋が見えてくる。私が目指していたのはそこである。実は長篠城については現地に行っても原っぱがあるだけであり、その城郭としての勇姿を堪能するなら、この橋の上から見るのが一番と事前の調査で情報を得ていた。先ほど今後の行動を判断する際に私の頭をよぎったのはそのことだった。

 

 その風景は想像以上だった。実は事前に写真を見たことがあったにも関わらず、自分の眼前に展開する光景には唖然としたのである。百聞は一見にしかずと言うが、それはまさしくこのことであろう。長篠城はちょうど二つの川の合流点に位置しているのだが、その川の側は断崖絶壁であり堅固そのものである。重火器が中心の現代戦ならともかく、飛び道具と言えば火縄銃や弓矢が中心だった戦国時代においては、こちら方面からの攻撃は不可能であったろう。この堅固さを実感するには、先ほどの本丸跡から見下ろしたのでなかなか困難である。

 城に見とれることしばし、この何もない城が100名城に選ばれた理由を今更ながら納得したのであった。ふと気がつき、時計を見ればそろそろ飯田線の下り列車が通りかかる時間になっていた。ついでだからこれを待ちかまえて写真におさめる。なんかだんだんと行動が鉄道マニアみたいになってきた。

 写真を撮影後は、途中で鳥居強右衛門が磔になった場所などに立ち寄りながら、鳥居駅まで舞い戻る。そこから飯田線の車両に乗車して豊橋まで舞い戻ったのである。今回は飯田線のほんの入口部分を体験しただけだが、何となく鉄道マニアがこの路線に心惹かれる理由は分かったような気がする。実際私も、やはりここについてはいずれは全線走破しておく必要があるなと感じずにはいられなかったのである。

  帰りの車両はまた違うタイプ

 沿線ののどかさが旅情を誘う 

 豊橋にも美術博物館と吉田城という城が存在するが、残念ながら今回の遠征では立ち寄っている時間的余裕がない。これについてはいずれ捲土重来することとして(その時には飯田線を絡めた遠征計画になろう)、先を急ぐことにする。今日の宿泊予定地は静岡市になっている。豊橋から延々とJR普通列車での静岡までの長い道のりである(それにしても隣の県であるにもかかわらず、名古屋と静岡はつくづく遠いということを感じずにはいられない)。

 結局、乗り換え一回、トータル2時間近くを要して静岡に到着した頃には日没寸前であった。静岡に到着すると早速ホテルにチェックイン。今回のホテルは静岡第一ホテル。例によって例のごとく、大浴場付き、朝食付きのホテルである。ホテルの部屋に入るとしばらく一服した後、夕食のために静岡駅前に繰り出す。しかし予定していた店は閉まっていた上に、どうも静岡駅前にはピンとくる店がない。結局商店街のはずれのそば屋に入ったが、正直なところ今一つ。何となく不完全燃焼のままホテルに帰ってきたのである。

      

 静岡の名物は、目下売り出し中が静岡おでんと聞いているが、残念ながら私はおでんはあまり好きではないし、酒を飲まない私はおでん屋には入りにくい。そんなこんなで静岡では食べるものがなくなってしまったというのが実態。しかしやはりそばでは腹が中途半端なので、結局は風呂に入った後、ホテルの一階にある中華料理屋に入店、そこで炒飯と麻婆豆腐にデザートの杏仁豆腐を注文。これが意外と旨く、支払いは締めて1940円とまずまずリーズナブル。これなら最初から夕食をここで済ませておけば良かった・・・。

 

 

 翌朝はホテルで朝食を済ませると直ちにチェックアウト。今日はこの遠征の目的地である東京への移動である。とは言うものの、このまま東京へ直行するわけではなく、途中でいろいろとイベント(主に「21世紀の地域振興と交通について考える市民の会」の活動である)を盛り込んである。

 まずは静岡から東海道線で移動である。しかし今日は平日の朝ということで、列車は完全に通勤車両。満員のままエッチラオッチラと移動である。こうなると昨日の疲れ(長篠で歩き回ったせいで2万歩を超えている)が体に徐々に効いてくる。

 通勤列車に揺られること1時間ほどで吉原に到着。ここで下車すると岳南鉄道の駅まで移動する。岳南鉄道とは吉原駅から出て、この地域の工場街を縫いながら、町中心部とJRを結びつけている単線電化の路線である。物流の中心がトラックになるまでは貨物輸送が中心であったとも言われている。

 岳南鉄道連絡通路

 まずは終点までの往復切符を購入。これがまた今時珍しい硬券切符。これは後で記念に頂くことにする。駅構内は1面2線の行き止まりホームがあるだけ。そこで待つことしばし、行き止まりホームに入ってきたのは2両編成のロングシートの電車。ワンマン運転されているようである。東海道線方面から多くの乗り換え客が乗車してきて車内はすぐに満員になる。やがて列車は発車するが、路盤が良くないのか結構揺れる。そのまま列車は最初の駅であるジャトコ前に到着。するとここでいかにも通勤客らしい一団が一斉に下車、車内の乗客は半分になる。次の吉原本町では一般客の大半が下車、この時点で車内はガラガラになってしまう。

 

二両編成の車内は直にガラガラになってしまう

 その後の車両は工場の隙間や住宅街を縫って進む。しかしそれが工場の間を走ると言うよりも、まさにプラントの中を抜けていくという印象。しかも路線は単線で距離も大した距離もないにも関わらず、やけに分岐線が多いところが、この路線がそもそもは貨物線であったということをうかがわせる。

 岳南鉄道路線図 出典 岳南鉄道HPより

 やがて周辺はいよいよ何もなくなってくるが、このあたりにくると富士が間近に見えて実に風光明媚。今日は生憎の曇り空で富士にも雲がかかって見にくいのだが、これが晴天ならまさにそこに富士山が見えるだろう。

       

左 終点の岳南江尾駅 中央 ホームに並ぶ車両 右 すぐそこに新幹線の高架が見えている

 終点前の神谷で最後の乗客2人が降車すると、いよいよ車内は私1人になってしまう。やがて目の前に新幹線の高架が見えてくる。それをくぐったすぐそこが終点の岳南江尾駅である。駅前といっても商店があるわけでもなく、普通の家が数軒に何やら町工場のようなものがあるだけで、後は新幹線の高架があるだけ(と言っても新幹線の駅があるわけではないので何の意味もない)の何もないところである。こんなところで下車しても仕方がない(と言うか、どこにも行けない)ので、乗車してきた列車でそのまま引き返す。終点と言いつつもこの駅は無人駅であり、利用者はごく一部の地元民か、私のような物好きしかいないようである。

 こうして岳南鉄道を全線乗車すると、この鉄道の利用者は短距離利用が多く、しかもほとんど路線の前半部分に偏っていることが分かる。この鉄道の存在意義は、吉原中心部とJRを結びつけることと、ジャトコの通勤客の輸送に限られており、財政的にもそれにほぼ依存していると思われる。実際、全線の乗車賃が350円に対し、吉原−ジャトコ間の一駅は200円と乗車賃の設定が高い。と言うことは、ジャトコ社員の通勤手当に経営が依存しているわけで、浮くも沈むもこの地域の経済状況次第といったところ。途中での富士の風景はなかなか良いのだが、観光路線として売り出すというのもしんどそうだし、何よりも終点の岳南江尾に何もないというのはつらい。ここに新幹線の駅でもできていれば大逆転にもなったろうが、結局はこの地域の新幹線駅は新富士などと言う訳の分からんところにできてしまったし・・・。

 

 吉原まで戻ってくると次は三島まで一気に移動である。三島からは修善寺まで伊豆箱根鉄道駿豆線がつながっているが、これもさらに調査しておいてやろうという考えである。

 出典 伊豆箱根鉄道HPより

 三島駅で下車するとそのまま伊豆箱根鉄道の駅に移動。駅は隣接しており、定期券使用者などは構内改札もある。三島の駅前は地方の観光都市のイメージ。熱海のようにホテルが林立しているという光景ではないが、それにも関わらずどことなく近しい空気がある。

       

 JR三島駅と駿豆線三島駅は構内改札でもつながっている

 伊豆箱根鉄道の三島駅にはセミクロスシートの三両編成電車が到着していた。駿豆線は単線電化路線であり、その区間を数編成の電車がピストン運転している模様。運行本数は1時間に数本とかなり多く、その合間にJRから乗り入れた特急なども運行するようである。交換設備のある駅が多いようなので、単線にも関わらずダイヤにある程度の柔軟性を持たせられるようだ。

 

 沿線は最初の数駅は三島の古い市街を走行。何となく昭和情緒のある古い町並みであり、シンパシーを感じさせられる。これらを抜けると後は遠くに伊豆半島の山々を見ながら田圃の中の走行になる。伊豆半島の山々は結構険しく、今日はそこに雨雲がかかっている。そもそも伊豆半島は多雨の地域であると言われており、それもさりなん。

 

 終点の修善寺はいかにも温泉観光地のイメージ。温泉宿地帯はここからやや離れたところにあるようだが、駅前から観光地ムードがある。とは言うものの、私は別に修善寺に用があるというわけではないので、駅弁の鰺寿司(1100円)を購入するとすぐに折り返す。

  修善寺駅前は観光地

 鰺寿司は人気の弁当とのことだが、寿司飯に鰺とショウガと紫蘇を乗せただけのシンプルなもの。味は悪くないのだが、やや弁当自体が小振りでCPがいまいち。また私の好みとしては、もう少し酢が効いている方がよい。

 

 三島まで戻ってくると、直ちに沼津まで一駅とって戻す。これから小田原を目指すのであるが、ここは東海道線ではなく御殿場線経由で行く予定。御殿場線はそもそもはかつて最初に鉄道が敷設された時の東海道線の名残である。当時は長大なトンネルを掘削する技術がなかったため、「天下の険」である箱根を迂回するルートで鉄道が敷設されたのである。その後、丹那トンネルの開通によって東海道線は熱海経由のショートカットルートを経由することになって大幅な時間短縮となったのであるが、旧来のルートも沿線の衰退を懸念して残されたという経緯がある。

 沼津に到着するとすぐにホームを移動。そこには既に御殿場行きの2両編成の313系セミクロスシート車両が到着している。車内は学生などが多く、かなり乗車率は高い。車窓からは常に住宅が見受けられ、沿線人口もなかなか多そう。ローカル線で山の中を走行するというイメージがあったが、さすがにやせても枯れても元東海道本線である。

 御殿場に到着するとそこで乗り換え待ち。なお御殿場はこの路線で最も富士山に近い駅であり、富士山観光の玄関口でもあるのだが、今日は生憎の曇天で富士の姿は全く拝むことができない。しばし御殿場で時間をつぶした後、到着した国府津行き列車に乗車する。

  御殿場駅前はかなり賑やか

  国府津行き列車に乗り換え

 御殿場からの行程はこれまでと違ってローカル線ムード。金太郎で有名な足柄などかなり深い山の中を走行しており、風景が俄然おもしろくなる。この辺りは駅なども観光地ムード。「箱根の山は神奈川県、静岡県のものならず・・・」。風光明媚な山の風景を見ているうちに、口に出てきたのは、滝廉太郎からクレームの付きそうな例によっての怪しい替え歌。

 

 やがて山岳地域を抜けた頃には急に住宅が増えてきて、車内が極度に混雑し始める。これらの乗客は小田急線乗換駅である松田で一斉に下車。後は列車は雨雲でくすむ箱根の山を遠くに見ながら平地を疾走、やがて国府津に到着。国府津からは東海道線に乗り換えて小田原入りとなる。

 小田原に到着するととりあえず重たいトランクをロッカーに放り込み、まずは小田原城を目指す。しかしこれが「中途半端に嫌な距離」。徒歩で十分に行ける距離でありながら、実際に徒歩で行くと結構疲れる。しかも今日は曇ってはいてもかなり暑い。現地に到着した頃にはクタクタになる。

 

 小田原城は関東に覇を唱えた北条氏の名城だが、最後は豊臣数十万の軍勢の完全包囲にあい、小田原評定の末に開城に至った城である。これが戦国大名北条氏の最後であるとともに、秀吉による天下統一の完成を示す行事となった。

 馬出門

 

  銅門

 

  資料館と展示してあった模型

 私は小田原城は平城だと思っていたのだが、実際には天守閣は小高い丘の上に立っており、後ろ側は切り立った崖になっている。その崖の底のかつては堀だっただろうと思われるところを現在はJRが走っているのだが、非常に規模が大きくて堅固な城だと言うことが分かる。ちなみに江戸時代以降、小田原城はそのあまりに巨大で堅固な城郭が恐れられ、幕府によって規模が縮小されている。さらに明治の廃城後は城郭のかなりの部分が宅地化したはずなのだが、それでもかなり規模の大きな城郭である。現在は鉄筋コンクリートによる「なんちゃって天守」が存在するが、この上から眺めると遠く関東が一望でき、この城に根拠を構えた北条氏が関東制覇を夢見たことはいたく自然に思われる。一方、西側は箱根の山々で守られており、西方の徳川氏と同盟していれば北条の領土は安泰だと考えていただろう。しかし結局は家康の裏切りにより、脅威は西から訪れた。この見渡す限りの風景をグルリと囲む豊臣軍の大軍勢を目にした時の北条氏の心境やいかにと思いを馳せることしばし。

 小田原城天守

            

秀吉の小田原攻めではこの光景一面に秀吉軍が陣取った

 小田原城の見学を終えると再び駅まで戻ってくる。ちなみに私は小田原と言えば田舎の小都市というイメージを持っていたのだが、こうして実際に訪れると予想していたよりも大きな町である。かつての城下町は今も繁栄しているということか。ちなみに小田原にはいずれまた改めて来ることがあろうと思われる。

 次の予定に進みたいところだが、もう夕方頃になり、とにかく腹が減った。考えてみると今日は昼食には鰺寿司を食べたきりであり、明らかに燃料不足。それにも関わらず小田原でかなり歩き回ったので、体が明らかにガス欠を起こしている。そこで駅ビル内にある「海鮮茶屋魚国」でとりあえず夕食をとることにする。

 注文したのは「花膳(2310円)」。お造りに煮魚、天ぷら、茶わん蒸しなどにご飯、味噌汁、小鉢などを組み合わせたオーソドックスなお膳である。店構えが駅前の居酒屋という趣だったので、実のところはあまり期待していなかったのであるが、お造りなどの魚の味が予想外に良い。またさらにうまかったのが煮魚。金目鯛の煮付けなのだが、これが味付けが実に絶妙で、関西人の私にとっても違和感のないもの。一品一品がキチンと手が入っている感じがして、安直な居酒屋定食とは異なるものであった。この店は正解。

      

 夕食を済ませた後は小田原で最後の予定である。ここ小田原からは伊豆箱根鉄道の大雄山線が 小田原−大雄山間を結んでいる。当然のことながらこれも私の視察対象に入っている。そもそも大雄山線は最乗寺へのアクセス路線という色彩が強く、終点の大雄山からは最乗寺への連絡バスが出ている。とはいうものの、私は殊更に寺院には興味はないし、もう既に日は西に傾きつつあり、全く時間がないので最乗寺に立ち寄る気はさらさらない。

  出典 伊豆箱根鉄道HPより

 大雄山線の小田原駅はJR小田原駅の東方にある。ここに3両編成のクロスシート車両が停車している。乗車人数は結構あり、駿豆線と似たような雰囲気がある。小田原を出るとしばらくはJRに沿ってかなり狭苦しいところを走行。次の緑町駅などはかなり無理のある設置をしている。

    

 緑町駅を出ると車両をこすりそうな狭苦しいトンネルでJRの下をくぐる。ここから先は今までほどではないが、それでも線路の両側に結構住宅が建て込んでいる。そもそもは最乗寺へのアクセス路線だったはずだが、沿線の宅地化がかなり進行しているようで、沿線人口はかなり多く(終点まで住宅が途絶えることがなかった)、沿線住民の日常の足としてかなり利用されているようである。また単線電化路線ではあるが、上下線の車両交換の設備が整っている駅が多く(実際の交換は和田河原、相模沼田、五百羅漢の三駅で行われているようだが、これ以外にも車両交換可能と思われる駅があった)、12分間隔というかなり多頻度運転が行われており、利便性が高い。

 箱根の山は曇り模様

 沿線は遠くに箱根の山々が見えるが、住宅地が立て込んでいるので、終点近くになるまではあまり風光明媚という印象はない。路線地図から私は岳南鉄道のような沿線風景を予想していたが、その予想とはかなり違ったようである。

 大雄山駅に到着

 終点の大雄山に到着すると列車は折り返し運転になる。大雄山駅前はごく普通の町という印象。特徴的なのは地元出身のヒーロー・金太郎にちなんだ像があったり、名前にあやかった商店街があったりなんてことぐらい。私はここに何のようもないので、帰りの切符を購入するとただちにUターンする。

 

左 地元の有名人の像 右 それにあやかるとこうなります

 大雄山線については、沿線人口がかなり多そうなことと、最寄りの都会である小田原がモータリゼーション無期ではない町であることから、当面は経営は安泰のように思われる(親会社が他の事業で大失敗したりしない限り)。やはり鉄道は周辺環境に大きく左右される。

 これで小田原での予定は終了。ロッカーから荷物を取り出すと、そのまま東海道線で東京入りしたのである。宿に着いたのは夜も遅く。例によって私の東京での定宿「ホテルNEO東京」に転がり込んだのである。

 

 

 翌朝は連日の無理がたたって体にかなり疲れが残っていた。当初の予定ではさらに鉄道で繰り出すことになっていたが、その予定は明日に変更して、美術館巡回の予定を先に持ってくることにした。そこでホテルをやや遅めに出発して、まずは本遠征の最大の目的であった美術展を目指す。

 

 実は今回の遠征で一番状況を読みにくかったのがこの展覧会である。ゴーギャンがそんなにメジャーな人気があるとも思えないのだが、そう甘く見た結果、名古屋で痛い目にあったという苦い経験がある。あまり混雑しないようだと、閉館時間が遅くなる金・土の夕方に行くというのが一番都合がよい。しかし混雑するようだと、これだと駄目な可能性もある。結局いろいろ悩んだ結果、「無難に」朝一番に出かけることにした。

 国立近代美術館の最寄り駅は竹橋になるのだが、この竹橋が地下鉄の駅の中では行きにくいところ(必ずといって乗り換えが必要になる)の上に、駅から微妙な距離がある(距離的には大したことがないのだが、途中で大きな道路を横断する必要があるため、心理的な距離が遠い)という嫌なところである。主催のNHKもそのことを了解しているようで、太っ腹にも東京駅との間にシャトルバスを運行しているようである。

 地下鉄経由で私が現地に到着したのは、開館の20分前ぐらい。この時点で待っていたのは100人以下。やがて開館時間が近づくと、観客を満載したシャトルバスが到着したりでこの行列は数百人にまで伸びたが、私の正直な感想は「大したことないな」というもの。まあ日本でのゴーギャンの知名度と、あの好き嫌いの分かれる絵柄から考えるとこれが妥当な線だろう。チケット売り場の方にも行列ができていたが、当然のように私はチケットは事前にオンライン購買で購入済みであるので、開館と同時に入場できる(もっともこのオンラインチケットの扱いに窓口の方が慣れていないのか、入場の時に少しバタバタする局面はあったが)。

 


「ゴーギャン展」東京国立近代美術館で9/23まで

 

 文明社会に背を向けて、南海のタヒチでひたすら自らの芸術を追究した画家・ゴーギャンの画業を振り返る展覧会。

 ゴーギャンは「楽園」を求めてタヒチへと旅立ったのだが、実際のタヒチは必ずしも彼が夢見たような「楽園」ではなかったという。そのためか、タヒチに到着後の彼の絵画は楽園のイメージと言うよりも、さらに内省的な性格を強めていったようにも思われる。

 その集大成が有名な「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。人の一生と神の存在のようなものを感じさせる一大曼荼羅で、この絵の中に彼の哲学は濃縮されているようである。

 正直なところ、私はゴーギャンの絵はそれほど好きなわけではなかったのだが、本展によってゴーギャンへの理解が深まると共に、作品に対する興味も増してきた。


 展覧会を見終わったところで次の目的地に移動。次の目的地は例によって上野なのだが、竹橋から上野に行こうとすると地下鉄の乗り換えが必要である。面倒くさいので無料のシャトルバスで一端東京駅まで移動することにする。バスは皇居に沿う形で移動。ボーっと窓の外を眺めていたら、よくよく考えてみると今まで江戸城って城として訪問したことがないなということに思いつく。どうやら見学するにはいろいろ七面倒くさい手続きが必要らしいが、一度は見学しといた方が良いだろう。次の機会に考えておこう。

 いざバスで移動してみると東京駅までは意外なほど近い。これは確かにシャトルバスの方が賢い。たったこれだけの距離なのに、あんなに行くのが面倒くさいとは、以前から感じていたが、やはり東京の地下鉄のルートは奇っ怪で非合理的である(多分にど真ん中に江戸城という最大の障害物があるせいだが)。

 

 JRで上野駅まで到着すると、とりあえずは昼食を先にすることにする。私が定宿にしているホテルNEO東京は、宿泊料が安いのは良いのだが、朝食がないのが最大の難点。しかも南千住周辺には朝食を摂るのに良い店がないせいで、どうしても朝から行動すると朝食抜きになることが多いのである。おかげで昼前には空腹で目が回りそうになる。

 いつも上野では昼食で惨々な目にあっているので、今回は事前に調査をしている。上野公園を南下すると調査していた店「天國」に入る。

 この店は馬料理の店で、夜には馬のしゃぶしゃぶなども食べられるようだが、少々価格が高めで私には手が出そうにない。ただお昼にはリーズナブルな価格のランチのコースもあるという。そこで最近馬肉づいている(松江で初めて馬刺しを食って以来、恵那でも養老でも食っている)私は、そのランチコースを目当てに訪問した次第。注文したのは「フィレステーキランチ(1600円)」

 

 ステーキ自体はやや小ぶり。おかげでたらふく食ったとか堪能したとかいう気はしない。しかし味については抜群。よく「馬肉は臭い」などと言われるが、本当に良質の肉を適切に調理すればそんな臭さは感じないということは今までの経験で知っていたが、このステーキがまさにその通り。しかも馬肉は牛肉と違って余計な脂がないので、脂から来る嫌味がなく、私の好みから言えばこれは牛肉のステーキよりもうまいのではないかというのが本音。すると例によって、「上質なランチは、量以上の満腹感がある」の法則が発動し、量的には明らかに私の食事としては少ないにもかかわらず、この後に空腹を感じることはなかったのである。馬肉ってダイエットにも良いとか言うが、こういう意味か?

 

 上野のランチでは初めて満足できたのではないだろうか。これは今後もちょくちょく来ることになりそうだ。昼食を終えると予定通りの巡回コースに入る。


「トリノ・エジプト展−イタリアが愛した美の遺産−」東京都美術館で10/4まで

 

 大英博物館やルーヴル美術館に匹敵するエジプトコレクションを有するというイタリアのトリノ・エジプト博物館のコレクションを展示した展覧会である。

 展示内容としては石像、木棺、アクセサリーなどいわゆるエジプト展では一般的な内容であるが、印象として非常に状態の良いものが多く、色鮮やかな着色が残されているような遺物も多々あって非常に印象深かった。

 なお現在、横浜にて「海のエジプト展」が開催中なので、それと併せて見学するのも一興であろう。

 


 東京都美術館は来年から工事のためにしばらく休館になるとか。まあここの場合は工事のための休館だから別に良いが、最近は不況の影響で私立の美術館で閉館になるところが増えているのが気がかりである。つい最近も東京のユニマット美術館が閉館になったところである。公式HPでは「美術関係に造詣の深かった重役が亡くなったために、運営をできる者がいなくなった」とのことだが、実際は本業が苦しくなってきたのだろう。同館のコレクションはなかなかに良いものが多かっただけに、今後はそのコレクションが散逸することが気がかりである。出来るならどこか国内の公営の美術館がまとめて買い取って欲しいが、今や自治体も国も金がなく、芸術分野に回している余裕なんてまずないだろうから、お先真っ暗である。食うにも困る事態になったら、芸術なんていう「道楽」分野が真っ先に切り捨てられるのはある意味しかたないところがあるが、それにしても日本の文化に対する意識の低さには辟易することが多い。

 なお大阪では私がよく通っていたサントリーミュージアムも来年で閉館とのこと。今までサントリーのイメージ戦略と、文化振興に力を入れていた社長の個人的趣味で、赤字にもかかわらず運営されていた同館も、サントリーがキリンと資本統合されるにいたって、真っ先に「合理化」されることになってしまったようだ。

 この分野もあまりに明るい話題が少ないが、私としては少ない稼ぎの中から、せめていくらかは美術館に浄財を捧げることでその存命を祈るしかない・・・。実は私の遠征は、経営に苦労している地方の美術館や、ローカル鉄道などを少しでも助けられればという意識もあったりするのである。現実にはほとんど役には立っていないだろうが・・・。以前から何度も言っているが、私が理想とする国家像は「地方が元気で、都市には文化の薫りがする国」である。小泉インチキ改革以来、それがどれだけ徹底的に破壊されたか。私が彼に対して心からの憤りを隠せないのはそこに理由がある。

 上野の巡回コースはほぼ定まっている。次は国立博物館。ただ展示を見る前に、少々疲れが溜まってきているので、糖分の補給を先にすることにする。大体この博物館には鶴屋吉信が出店していることが多いのだが、案の定今回も出店しているので、休憩がてらあんみつで糖分補給。少しからだがシャッキリしたところで展覧会の方へ。

 


「伊勢神宮と神々の美術」東京国立博物館で9/6まで

 

 日本の信仰において伊勢神宮は大きな位置を占めてきたが、その伊勢神宮にまつわる品々を展示した展覧会。伊勢信仰は本地垂迹などいわゆる神仏習合が特徴となっているので、それにまつわる品々が多い。

 とは言うものの、展示内容は極めてマニアック。いわゆる文書の類も多く、残念ながら私としては興味は今一つであった。


 私の上野巡回コースからすると、次は西洋美術館か科学博物館である。しかし今は西洋美術館の方は企画展がないようなので、科学博物館の方へ立ち寄る。

 


「黄金の都シカン」国立科学博物館で10/12まで

 

 中南米地域においてはインカなどの独自の文明が進化していたが、近年になって一人の考古学者・島田泉氏の大規模な発掘調査によって、インカ滅亡に先立つこと500年前にペルー北部に独自の文明が栄えていたことが明らかになった。「シカン」と名付けられたこの文明は、高い彫金技術など高度な技術を有していたことや、独自の宗教観を持っていたらしいことが明らかになっている。このようなシカンの文明を伝える品々を展示したものである。

 中南米文明に共通なのは黄金の装飾品が多いこと。多分に漏れず、シカンでもキンキラキンの装飾品の類が多いが、マスクなどにインカなどとも違うかなりの独自性を感じた。気になったのはマスクにいわゆる目の穴がないこと。どうやらシカンは神政国家だったようだが、統治者に神性を持たせるための仕掛けも大変なようだ。


 これで上野での予定は終了。しかしまだまだ今日の予定は続く。次の目的地は、前回の東京遠征で初めて訪問した江戸東京博物館。ここでの催し物が実は今回の遠征の三番手ぐらいの目的だったりする。

 


「写楽 幻の肉筆画 ギリシャに眠る日本美術〜マノスコレクションより」江戸東京博物館で9/6まで

 

 マノスコレクションとは、ギリシアの大使だったグレゴリオス・マノスが収集に精力を傾けたアジア美術のコレクションだとのこと。結局、美術品収集に熱を上げすぎて財産を食いつぶしてしまったマノスは、自らのコレクションを美術館に寄贈して一般公開する代わりに、政府からの幾ばくかの給付金をもらって生涯を送ることになったとか。彼の死後、その膨大な日本コレクションは封印されていたのだが、2008年になって初めて大規模な調査が行われた結果、その中から写楽の直筆による扇絵というとんでもない珍品が発見されることになったのだという。

 展示されているのは主に浮世絵を中心とする作品であり、その中にはどこかで見たことがあるような有名な作品が多いが、特徴的なのは保存状態が良好であることと、浮世絵の初期から晩期まで非常に広い時代に渡っていることである。本展だけで浮世絵の歴史を概観できるようなボリュームがある。

 写楽の肉筆画については、版画のイメージとやや異なり、予想外に繊細な線によって描かれているのが印象的である。とは言うものの、デフォルメの効いた人物の顔の描写はまさに写楽そのものであり、非常に特徴的でもある。


 さてこれだけ回った時点で夕方頃になる。これで引き揚げようかと思ったのだが、その時に私の頭の中に一つの記憶が蘇る。「そう言えば、今はお台場にあれが立ってたんだよな・・・。」 あれとはいわずとしれた「お台場ガンダム」のことである。確か公開期間は今月いっぱいだったはず。殊更にガンダムファンではない私だが、やはり等身大巨大ロボットと言われると何やら血が騒ぐものがある。まだ時間があるし、ついでだから立ち寄ってやろうという気が起きる。

 JRで新橋まで移動、そこからゆりかもめに乗る・・つもりで駅に向かったら、やたらに人が多い。まあお台場は人気スポットだし、今日は週末だし、まあ人出も多いかな・・と思おうとするが、どうも見ても雰囲気が奇妙だ。何となく嫌な予感を抱いた私は、とりあえずお台場までの往復チケットを購入しておく。

 新橋駅の混雑はそれほどではない

 ゆりかもめに乗るのは初めてだが、いわゆる典型的な新交通システム。ポートライナーと言い、ニュートラムと言い、沿岸部はこれでないといけないんだろうか? とりあえず乗客は多いが、押し合いへし合いという状態でもなかったので、私の警戒しすぎだったかとやや安堵の気持ちになる。

  典型的新交通システム

 ゆりかもめはそのまま埋め立て地に向かって走行、大きくループを描いて高度を上げてから橋を渡ると埋め立て地に渡る。お台場海浜公園で若干の乗り降りがあって、次が目的地のお台場。しかし駅に到着した途端、私の希望的観測がものの見事に破壊され、最悪の予想さえも上回る事態が発生していることに唖然とする。

 駅の様子

 駅のホームが大混雑で、ホームに降りることさえ困難な状態になっているのである。どうやら大量の乗客が降車したせいで、改札が捌き切れていないようである。それでも何とか列車から降りて改札を通過。しかし目の前に大量の行列が。それが一斉にある方向を目指して歩いている。ここまで来ると現実を認めざるを得ない。まさかこれだけの人数が「船の科学館」を目指しているなんてはずはない。「ええい、連邦軍のモビルスーツは化け物か!」。ガンダムの破壊力を目の当たりにすると、自分の読みの甘さを痛感せざるをなかったのである。

 駅の外の様子

 そのまま会場へと行列に従って歩いていくが、混雑時の観客誘導の鉄則「人の流れは一方通行に」のせいで、かなりの大回りをさせられることになる。そしてその間にさらに事態は悪い方向に向かう。どうも身体の調子がおかしくなってきたのだ。今回の遠征では初日の長篠城見学を初めとして、とにかく連日二万歩近くを歩き続けている。ついにそのツケがやって来たようで、私のようなメタボ体型の者には宿命と言える「股ずれ」が発生してしまったようなのである。おかげで股がヒリヒリして歩くのつらい状態になってくる。こうなると会場までの歩行が難行苦行である。

 エッチラオッチラと身体を気遣いながら会場に向かうが、とにかくとんでもない人混みである。明らかに数千人というオーダーでは効かないだけの人数が歩いている。やがて公園の木の上からガンダムの頭が見えてくる。「でかい」というのが正直な第一印象である。ガンダムの全長は18m。これはいわゆる「巨大ロボット」と言われているメカの中ではかなり小さい方になる。何しろ「身長57m」と主題歌の中で歌われているコンバトラーVを始め、アニメのロボットはやたらに巨大なものが多く、中には100mを超えるイデオンのような超巨大メカもゴロゴロあるし(ガンバスターに至っては200m)、またこれをロボットに分類するかは微妙ではあるが、マクロスなどは全長1キロを超えるというのがアニメの世界である。これに対して、リアリティを追求したガンダムでは、現実的な数値として割り出した身長が18mだとか。しかしこの小さなガンダムでも、バーチャルの世界からリアルの世界に出現するとこんなにもでかいのかと驚かされる。高所恐怖症の私の場合、コクピットに上がること自体が無理そうである。

 

  

   正直ガンダムにはそんなに興味のなかった私(私は厳密に言うと、ガンダム世代ではなくてその少し前の「ヤマト世代」になるし、ガンダムよりは999派だった)だが、こうして現物を目の前にすると興奮を抑えられない。回りを見渡すと同様な連中がわんさかいるようで、明らかにいわゆるアニオタとは無縁のような連中が目を輝かせて写真を撮りまくっているのである(中には子ども連れのお父さんもいて、明らかに子どもより熱心)。やはりこういう「少年時代の夢」をピンポイントで狙われると、条件反射的に子供返りしてしまうのだろう。こういうのを見ると、アニメはやはり日本の「文化」だと思う次第。

 

 前の方では大仏の股くぐりならぬガンダムの股くぐりの行列が出来ていたが、私はもうなるべくは歩きたくないし、それにガンダニウム合金の装甲ならともかく、FRPの装甲を触っても仕方ないのでそれはやめておく(FRP装甲ならガンダムでなくてパトレイバーである。どこか等身大パトレイバー作ってくれないだろうか? 身長8mだからガンダムよりも作るのは楽だし。)。

  

 なおこのガンダム、ただ立っているだけでなくいくつか仕掛けがあるという。それは間もなく6時ちょうどになった時に明らかになる。音楽がかかったと思うと、それに合わせて各所に仕込んだ照明がついたり消えたりなどを始める。そしてクライマックスには、バーニヤから蒸気を出したり、首が動いたりなんてことが始まる。ガンダムが首を動かした途端に、場内から一斉に「オオーッ」という声が上がり、観客は興奮モード。かく言う私も興奮を抑えきれずに思わず「オオーッ!!」。数分ほどのデモンストレーションだったが、気がつけば鳥肌が立っていたのである(これは私としても予想外だった)。もしガンダムが片腕を上げてビームライフルでも撃っていたら興奮で死者が出そうであるが、さすがに重量を考えるとこれは無理だろうな。

 

 この後は、6時30分の小デモンストレーション(首は動くが、蒸気が出ないのがショボイ)を見てから帰途につく。しかし再び歩き始めると、先ほどまでは興奮状態になっていたせいで忘れていた足の痛みが襲ってくる。ようやく到着した台場駅はとんでもない大混雑。券売機に大行列が出来ており、これが実質的な改札制限になっている。事前に往復切符を購入していた私は、この大行列を横目に見ながら改札へ。この時は事前のリスク管理の成功を確信した私。ただ車内はラッシュさながらの大混雑で新橋に到着した頃には、もう一歩も歩きたくないような状態になってしまう。正直、このままここからタクシーで帰ろうかと思ったぐらいだが、さすがにそれだと料金がいくらかかるか分かったものでないので、新橋駅の百貨店で夕食の寿司を買い求めると、地下鉄でようようホテルに帰り着いたのであった。

 

 

 翌日にはあの最悪のヒリヒリ状態は去っていたが、それでも全身のだるさなどはひどくなっており、とにかくあまり歩き回るのは得策ではないのは明らかであった。そこで今日はなるべく列車に乗っているだけで終わる予定を組むことにする。

 前回の東京遠征で東京近郊の路線は大体視察を終わらせているが、その時に視察が完了していないのが奥多摩方面の路線である。そこで今日はまずは中央線で奥多摩を目指すことにする。

 出典 JR東日本HP

 まずは南千住から日暮里に移動、ここから山手線で新宿へ。ここで中央線快速に乗り換えて・・・のはずだったのだが、いきなり東京名物の事故に出くわし足止めを食らう。どうやら車内で乗客同士のトラブルがあった模様(痴漢か?)。結局は予定よりも大分遅れての出発となる。立川で青梅線に乗り換え。青梅線は一応は独立した名前が付いているが、扱いとしては中央線の支線扱いなのか、中央線と同じタイプの車両が編成が短くなっただけで走行している。このまま青梅まで移動。青梅の手前で複線が突然に単線になるが、沿線は青梅まではベッタリと市街地という印象。なお青梅駅までの複線化を地元は要望しているとのことだが、回りの建て込み方を見ると容易ではないように思われる。

 青梅で奥多摩行きの車両に乗り換え(これも同じタイプの車両)。しかしこの車両に乗り込む乗客は明らかにハイキング客という出で立ち。私もリュックを背負っているのは同じだが、彼らと違ってビジネス用リュックなのでスタイルとしては明らかに異なる。やがて沿線風景も彼らの出で立ちにピッタリの山岳風景に。多摩川の上流に向かって行くにつれて、これでも東京都内なのかと驚くような光景が展開する。

 

 この時に気づくのは、東京の人間が田舎と言われた時に思い描く風景は、この奥多摩の風景なのだということである。私はこの地を訪れたのは初めてなのだが、なぜか見覚えのあるような気がする。それはドラマ、漫画、その他において「田舎」として登場するのが奥多摩の風景だからだろう。東京はコンクリートジャングルなどと言われるほど非人間的な空間であるが、その空間を物心両面で支えているのが奥多摩地域だと言える(現にこの地域は関東地区の水源としても都市を支えている)。この奥多摩地域がなくなれば、東京は早晩に滅びそうである。

 それにしても癒しを求めるコンクリートジャングルの住人が多いのか、4両編成の青梅線車両は満員状態である。このハイキング客の多くが一斉に下車したのが御嶽駅。どうやらここはハイキングのメッカの模様。山上までのケーブルカーなどもあり、その駅まではバスが出ているという。ちなみに私もここに立ち寄る予定だが、今はまずは終点までの視察が先である。のどかな渓谷風景をボーっと見ているうちに、列車は長いトンネルの連続になり、それを抜けると終点の奥多摩駅に到着である。中央線のダイヤが乱れた影響で、この列車の到着も遅れているので、とりあえず帰りの列車の時間がダイヤ通りであることを駅員に確認してから一端駅の外に出る。

  奥多摩駅と駅前バスターミナル

 奥多摩はさらに奥地へ移動するバスへの連絡拠点になっている模様で、駅前はいかにも観光地という雰囲気。実のところ、私が予想していたよりもはるかに賑わっている。ここまで列車に乗ってきた多くのハイキング客はバスに乗り換えているようである。しかし私は今回はハイキングが目的なわけではないので、現地滞在30分にして引き返す。

 途中でホリデー快速とすれ違ったりなどしながら、しばらく後に列車は御嶽に到着。私はここで途中下車する。とは言っても何も私はハイキングをしようというわけではない(身体の調子が良ければ考えるところだが、とてもそんな状態ではない)。目的地はこの駅の近くにある玉堂美術館である。

 趣のある御嶽駅舎

 美術館は川の向こう岸。橋を渡るがここからの風景がまさに渓谷の風景そのもので絶景。もうこの風景自身が川合玉堂の絵画の世界である。この地に玉堂の美術館があるのは当然のように思われる。美術館は橋を渡ってから川筋まで大分降りた位置にある。


玉堂美術館

 玉堂が最晩年を送ったと言われている御岳の地に建設された美術館。建物自体は和風の落ち着いた作りで、内部には玉堂の画室を再現したスペースなどもあり、大家の晩年の隠れ住まいといったたたずまいである。

 展示品は玉堂の晩年の作品が多く。若き頃のいかにも精緻でピンと張ったようなところのある作品ではなく、もっと自由で気ままに描いているような画が中心である。それがまたこの地の風景とマッチして非常に心地よい。


 展示数自体はそう多くはないが、「ああ、良いなぁ」という言葉が自然に出るような美術館である。またこの美術館の前に見える多摩川の風景が美しく、これ自体が一枚の絵画。私も将来、功成り名を遂げればこんなところに隠棲するのも良いなと思うが、私が功成り名を遂げることはまずあり得ないから、そんなことは考えるだけ無駄であろう。それに単身のままこんなところに籠もれば、単なる世捨て人である。

 美術館の見学を終えた後は、美術館の隣にある「澤乃井まゝごと屋のいもうとや」で昼食を摂ることにする。注文したのは「奥多摩やまめの押し寿司(1600円)」

 

 押し寿司に湯葉のサラダと味噌汁にあんかけ蒸し豆腐が添えてあるというオーソドックスな内容だが、メインの押し寿司もさることながら、添えられている品々の味がよい。殊更にアピールしてくるような印象の強さはないが、安心するような落ち着くようなほっこりした味である。この店は豆腐が有名という風に聞いていたが、なるほどこの蒸し豆腐や湯葉の味からすると、確かに豆腐がうまいのだろう。もし次回があれば豆腐中心のメニューを注文してみたいところ。

 店から見える川の風景も美しいし、とにかく落ち着くという言葉がピッタリな店である。とは言うものの、次の予定を考えるとあまりどっかり落ち着いているわけにもいかない。帰りの列車の時間を見計らって、店を出たのである。

 御嶽からは青梅で乗り換えると拝島まで移動、ここから五日市線に乗り換える。ここまで来たらついでだからもう一本の支線であるこちらも視察しておいてやろうという考え。五日市線は中央線と東京西部のあきるの市を結ぶ単線電化路線である。こちらも青梅線と同様で車両は中央線と共通。

 列車が発車すると、しばらくは市街地の中だが、二駅目の東秋留駅を過ぎた頃から急に沿線風景が一変、ひたすら野原の風景が続くことになる。この時に私の頭に浮かんだのは「武蔵野」という言葉。この路線の駅名には「武蔵○○」というのが多いが、まさに武蔵野そのものの風景が繰り広げられる。

 野原を走行することしばし、急に沿線の民家が増えてきた思えば路線は高度を上げ、終点の武蔵五日市駅は高架駅である。駅の周辺はいかにも新興住宅地という雰囲気で、恐らくこの路線沿い自体が東京のベッドタウン化をしているのだと思われる。それにしても東京の市街地はこんなところまで拡大しているとは。多分少し昔には何もなかったところだったのではないかと思われる。

 こんなところに何の用もないので(町において最もつまらないのは、山の中の新興住宅地と湾岸の埋め立て地である)、駅前の視察を終えるとそのまま引き返す。「21世紀の地域振興と交通について考える市民の会代表(自称)」としてのサークル活動はここまで、この後は本題の美術館の方である。原宿で地下鉄に乗り換えると、乃木坂から通い慣れたる美術館へ。

 


「生誕150年ルネ・ラリック 華やぎのジュエリーから煌きのガラスへ」国立新美術館で9/7まで

 

 アールヌーヴォーからアールデコの時代にかけて、ガラス工芸で名を馳せたルネ・ラリックの作品を集めた展覧会。アールヌーヴォー時代の宝飾デザインから展示は始まっている。

 初期の作品から流れで見ていくと、ラリックが宝飾デザインからガラス工芸へと転じていったのは何となく理解できる。宝飾デザインを行っていた頃から彼のデザインセンスは優れているが、芸術性を追求していくと色彩や輝きが単調な宝石よりは、多彩な輝きを見せることの出来るガラスの方が、明らかに表現素材として優れているのである。現に彼のガラス作品は、宝石を凌ぐような輝きを見せており、素材の価値云々などと言う下世話な観点を抜きにすると、明らかにガラス作品の方が美的に優れているのである。

 


 本来の予定ではこの後サントリー美術館に向かうつもりだったのだが、昨日の今日であまりウロウロと歩き回れるような身体の状態ではない。サントリー美術館の現在の催し物は後で神戸への巡回もあったはずなので、今回は見送りにして早くも帰途につく。

 帰りは北千住で食料品仕入れのために途中下車。そこで民主党の鳩山党首の街頭演説に出くわす(駅前にかなりの人だかりがあったので、何かと思えば鳩山氏だった)。間近で見た鳩山氏の印象としては、政治家としての能力は未知数だが、少なくとも人間として悪人ではなさそうだというものである。ただアメリカのオバマ大統領などと比較すると、明らかにスピーチは下手なようで、その辺りがもう一歩のカリスマのなさか。ただ沿道の観衆の反応(かなりの熱気を帯びている)を見ていると、今度の衆議院選挙での民主党の勝利は間違いないなという確信を抱いた(結局、選挙結果は私の予想以上に圧倒的なものとなったのであるが)。

 夕方頃には早々とホテルに帰還。しかし正直なところ不完全燃焼感がつきまとっている。結局は夜になる頃にはいても立ってもいられない状態になり、とにかく夕食を食べに出かけようと考えるようになる。そこで近くの店をネットで調査したところ、ふぐ料理という項目が目に飛びこんでくる。それを見た途端に「ええい、ふぐでも食ってやろう」と半ばやけくそになってホテルを飛び出す。

 

 私が訪問したのは南千住の「とらふぐ亭」。チェーンのふぐ料理専門店のようである。とりあえずテッサを初めとして、ふぐちりなど一渡りを注文、さらにはふぐちりにしゃぶしゃぶ用のふぐを追加して、最後は雑炊で締め。いささか食べ過ぎいうぐらいしこたま食べた。おかげで支払いは7000円以上。なんと、今までの飲食店での支払いの最高記録である。まさか東京でこんな形で記録更新とは予定していなかった。まあ特別にうまいというほどでもないが、後悔するようなものではない(月末にクレジットの支払い明細を見た瞬間には一瞬の後悔が頭をよぎったが)ので、良しとする。

 テッサに

 

  ふぐちり

締めは雑炊で 

 

 

 

 翌日はいよいよ最終日である。今日の予定は実のところ一本だけ。それは横浜で開催中の「海のエジプト展」に立ち寄るということである。実のところ、当初の予定ではこれは昨日か一昨日に立ち寄って、昨日中には帰宅するつもりだった。しかし事前の調査によると、本展は特に週末には異常に混雑をし、入場するだけでもかなりの時間を要するとの話。これではとてもスムーズにスケジュールが進行しそうにない。そこで直前になって月曜日も休暇を追加した上で、東京での宿泊をもう一日延ばしたのであった。

 

 とりあえずは横浜の埋め立て地まで移動する必要がある。とは言うものの、今日の予定はこれ一つだけだし、体の疲れはしゃれにならないほど溜まっているしで、結局はホテルをチェックアウトするのはギリギリの時間まで引き延ばすことにする。

 ホテルをチェックアウトしたのは10時前ぐらい。日暮里で京浜東北線に乗り換え、後は東京で東海道線に乗り換えて横浜へ・・・のつもりだったが、もう体がヘロヘロでいったん座席に座ってしまうと立ち上がる気力がない。結局は「どうせ横浜まで行くんだ」とこのまま京浜東北線で横浜まで移動する。

 おかげで横浜に到着したのは昼前。とりあえずトランクをロッカーに放り込むと、目的地へ向かう前にまずは昼食を先にすることにする。ただし横浜には特に当てがあるわけではないので、適当に駅近くのビルの飲食店フロアに上がり、そこで済ませることにする。入店したのは「つばめグリル」

        

左 トマトのサラダ 中央 メインディッシュのポークソテー 右 デザートの白桃のソルベ

 ここはそもそもハンバーグの店のようだが、今は期間限定でポークソテーがあるというので、それを注文。まずいきなり唐突に出てくるのがトマト丸ごと。これがトマトのサラダとのことで、確かに中に何やら入っている。何ともダイナミックというか。幸いにしてトマトが嫌いの私にも意外にうまかったので助かったが、この後に出てきたポークソテーもどちらかと言えば、「豚の生姜焼き定食」と言った趣で、味自体は悪くはないのだが、万事が豪快というより大ざっぱな印象である。そして極めつけがデザートにとった「白桃のソルベ」。これに至っては桃が丸ごと皿に載った状態で。とにかくこの店は豪快さが売りの模様。ただこれに紅茶がついて支払いはトータル1764円だったのだから、この地域にしてはCPは悪くない。と言うわけで私のようなものが昼食をとるに良さそうだが、女性を連れてくる店ではなさそうである。

 

 腹ごしらえが終わったところでようやく人心地がついたので、目的地を目指すことにする。横浜から地下鉄に乗車すると、みなとみらい駅まで。このみなとみらい駅はかなり深いところにあるので、延々とエスカレーターで昇るのだが、ここがまた吹き抜け構造になっていて高所恐怖症の私には不快極まりない空間。しかも目的地のパシフィコ横浜は駅から建物は見えているものの、とにかく埋め立て地にありがちの「そこに見えてはいるけど意外と遠い」という状態で、しかもご丁寧に会場はその建物の一番奥。結局なんだかんだで埋め立て地を延々と歩かされることに。これだからこういう埋め立て地の見本市施設でやる展覧会は嫌いなのである(大阪で言えばATCホールとか)。

 

 ようやく会場に到着すると、チケット売り場の前に1000人ぐらいは並べるようにロープが張ってある。今日は平日ということもあってフリーで入場できたが(一応入場券は事前手配していた)、どうやら週末などにはここに行列が並んでいた模様。やはり予定を一日延ばしたのは正解だったようだ。

 


「海のエジプト展」パシフィコ横浜で9/23まで

 

 古代地中海地域において強力な文化的影響を与えたのがエジプトである。その政教一致の国家体制は、独自の文化圏を形成して多くの衛星都市を生み出した。しかしそれらの衛星都市の多くも長年の歳月の中で、砂の中や海の中に埋もれてしまった。本展はそれらエジプトの古代都市の中で、海に埋もれていたカノープス、ヘラクレイオン、さらにはクレオパトラの宮殿があったアレクサンドリアについて、海中から発見された多くの遺物を展示することで、その往時の姿を甦らせようという企画である。

 驚くのは展示の物量であるが、その展示物の悉くが海中から発掘されたものであるということにさらに驚かされる。その中でも圧巻は、ヘラクレイオンにおいて発見された全長5メートルにも及ぶというファラオ像だろう。実際に目の当たりにすると圧倒されること甚だしく、当時のファラオの権勢の強さを思わせられる。

 本展ではやはり知名度という点でクレオパトラをかなり正面に出しているが、実のところクレオパトラにまつわる展示品はそう多くない。むしろこの部分の展示品での目玉はクレオパトラとカエサルの子であるカエサリオンの像。いずれの展示物についても言えるのだが、非常に良好な状態で発見されていることに奇跡さえ感じさせられるのである。

 展示面においては映像などを効果的に使用しつつ、とにかく素人にもアピールできるように考えた展示になっており、殊更にエジプト考古学に興味がない者でも十二分に楽しめるように計算されている。展示品のすごさもさることながら、この見せ方のうまさにかなりしてやられた印象。


 本展が今回の遠征の主目的No2である。これで本遠征の目的はすべて達成した。横浜では開港150周年イベントの類が行われているようだが、そんなものには私は全く興味がないので後は引き揚げるだけ。往路は青春18切符でエッチラオッチラとやって来たが、さすがに旅費が乏しいと言っても復路までそんなことをしている身体的余裕はない。帰路はこのまま地下鉄でさっさと新横浜駅まで移動。そこから新幹線で帰宅したのである。

 振り返ってみると、充実していたようであり、所々不完全燃焼の部分もあったような遠征であった。やはり途中で体調を崩してしまって行動が制約されてしまったのが心残り。今後のことを考えても、体力増強というのも長期的課題なのは間違いなさそうである。

 それと頭が痛いのは、活動圏の拡大と共に旅費の増大が深刻であること。近畿地区を中心に中国・四国地方に重点を置いていた昨年度までは、日帰りによる小遠征が中心であったが、活動の範囲が東海・北陸地区に広がった今年度は、遠征が悉く宿泊を伴う中規模以上のものばかりなってしまい、おかげで私の財政は崩壊状態に近くなってしまっている。このまま行くと、来年度の活動は東海・関東地区に九州地区が中心になると考えられ、そうなると悉く二泊三日以上の大規模遠征となってしまいそうである。となるとさらに財政破綻に拍車がかかることに・・・。頭が痛い。

 

 

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