展覧会遠征 恵那編

 

 さて世間では夏休みに突入とのことだが、しがないサラリーマンの私には夏休みなどは関係ない。しかし三連休となれば遠征をしないわけにはいかないというのが私の習性である。ここは青春18切符を使って・・・といきたいところなのだが、残念ながら青春18切符の有効期間は7/20からということで間に合わない。やむなく車を使用した遠征ということになる。

 車を使用して行くところとなると、以前から気になっていたところがあった。それは岐阜県の恵那である。恵那には中山道広重美術館という美術館があり、さらには明知鉄道という旧国鉄系の第3セクターが存在し、さらには沿線には岩村城という日本100名城&日本3大山城の一つに挙げられる城が存在しているというわけで、二重、三重にも私としては訪問しないといけない理由が存在するのである。そこで今回の遠征は恵那を訪問するとともに、岐阜地域における以前よりの懸案事項を一気に解決するプランとして立案されたのである。

 

 事前にホテルを手配し、現地のマップを十分に検証した上で綿密に訪問スケジュールを立て、予定通りに土曜日の早朝に自宅を出発。後はスケジュールに従って行動をするだけのはずだったのだが・・・それが最初からガラガラと音を立てて全面崩壊してしまったのである。私の計画を狂わせたのは切羽詰まった麻生の場当たり的人気取り政策、あの高速1000円が引き起こした大渋滞だった。大阪から先が大渋滞で全く動きがとれなくなってしまったのである。ある程度の渋滞の可能性は頭にあったが、夏休み最初の三連休というのをあまりに甘く見ていたようである。大阪以東は「高速の長い渋滞を抜けると、そこはまた渋滞だった」という「渋滞after渋滞」のとんでもない状態だったのである。思わず「高速1000円なんかにつられてホイホイと車なんかで出てくるな馬鹿野郎!」と自分のことを棚に上げて悪態をついてしまう私。実際のところ、1000円だからといって全く流れない道路よりも、もう少し高くてもまともに流れる道路でないと使い物にならない。場当たり的政策のツケがこれである。しかしよくよく考えると、麻生の政策ってすべてが場当たり(もしくはごく一部の金持ちだけを異常に優遇するか)で、まともな政策は一つもなかったな・・・。

 結局は当初の予定では恵那に到着する前に一カ所立ち寄ってから、恵那には午前中に到着するつもりだったのだが、とても寄り道をしている余裕などはなく、しかもそれでいて恵那に到着したのはお昼をはるかに過ぎた時間になってしまったのである。

 もうこの時点で計画が全面崩壊である。とりあえず最低限のこなしておかないといけない予定を最優先にする。以前にも言ったように、鉄道での遠征では分刻みのスケジュール通りに行動する綿密さが、車での遠征では臨機応変に計画を組み替える柔軟性と決断力が必要になるのである。

 まずは本遠征の主目的の一つである中山道広重美術館を訪問する。


「広重描く光と影」中山道広重美術館で7/20まで

 日本画においては従来は墨一色の表現であったことから、例えば夜を表現するのでも空を真っ黒に塗るというようなことは行われてこなかったのであるが、それが変化し始めたのは多色刷りの浮世絵が登場してからである。広重も浮世絵の色彩表現を用いて、真っ黒な夜空などの新規な表現を行っている。そのような広重の影の表現や、炎などの光の表現を用いた作品を中心に考察している。

 ただ私個人としては、広重については光と影の表現よりも、その構図の妙の方に興味が湧いたりする。例によって前方に荷車を巨大に描いた後ろに風景を描いた「実相寺アングル」などの手法も冴えており、その辺りが実に興味深かった。また本館の収蔵品は状態の良い作品が多いため、広重の作品の本来の色彩を楽しむことができることも大きい。


 ちなみにここの美術館の最大の売りの一つは広重の「木曽海道六拾九次」を所蔵しており、しかもその中でも極めてレアと言われている「雨の中津川」を所蔵しているということである。しかし浮世絵は極めて変質しやすいために展示期間が限られており、残念ながら現在はその期間とは異なるために写真パネルでしか見られなかった。かといって、展示期間にあわせて再訪問というわけにもいかないし、この辺りはジレンマである。

 

 美術館を見学した後は昼食である。今朝は朝食を摂らずに家を出て、そのままずっと走りっぱなしなので腹が減っている。まずは近くのそば屋「寿々木」に入って「ざるそば(800円)」を注文。そば自体はやや野性味があって悪くないのだが、わさびが練りわさびだったりと細かいところに今ひとつこだわりが見えないのが残念。

 

 やはりかなり空腹だったせいか、ざるそばだけではどうも腹が頼りない。その時に向かいに見えたのが「レストランエイト」。今日のランチ680円の看板に釣られてそのまま入店する。

 今日のメニューは豚の角煮と白身魚のフライ。実のところはそんなに期待していたわけではないのだが、これが存外うまい。メニューには「一品一品がシェフの手作りです」と書いてあり、出来合いを本当に使っていないのかは定かではないが、確かにそこらの喫茶店でありがちな出来合いランチよりはうまい。このランチをわざわざ恵那まで食いに来る理由はないが、普通に食べるランチとしてのCPは高い。ちなみに150円を追加すればみそ汁及びコーヒーが付くそうだが、私は急いでいたのでそれは省略した。

 典型的な喫茶店ランチのようにも見えるが

 ようやく腹がふくれたところでそろそろ時間が頃合いとなった。私が待っていたのは明知鉄道の発車時間である。例によっての「21世紀の地域振興と交通について考える市民の会代表(自称)」としてのサークル活動である。車を美術館の契約駐車場から出すと、今度は駅西の駐車場に移動してそこに車を放り込むと明知鉄道の恵那駅に向かう。

 

JR恵那駅と明知鉄道恵那駅 内部でつながっていたりする

 明知鉄道の恵那駅はJR中央線の恵那駅と接続しており(そもそもは一つの駅である)、ダイヤの方も中央線のダイヤにリンクさせているようだ。行き止まりになっている明知鉄道のホームに停車しているのは、ややくたびれたセミクロスシートのディーゼル車両。アケチ13と表記してあるが、非電化のローカル私鉄でよく見るタイプの車両である。Wikiによると、この車両はLE−DCと言われるタイプであるとのこと。私の好きなJR西のキハ120などとは微妙にタイプは違うのだが、共に新潟トランシスで軽快ディーゼル車両として同時期に開発されたものらしい。というわけでなんとなくキハ120を思わせるシルエットがあるのである。

  例によって見たことあるような車両

 明知鉄道は恵那と明智を結ぶ第3セクター路線である。元々は国鉄の路線だったが、国鉄に切り捨てられたところを地元自治体が引き取ったというよくあるパターン。ただ路線に並行する形で道路が開通しているので、モータリゼーションが進行している時代において経営は苦戦しているようである。実際、乗客は地元の学生と老人が中心のようで、観光客は車の方が多く、わざわざこちらに乗るのは鉄道マニアぐらいの模様。ちなみに恵那駅では硬券切符が発売されており、これはマニア心をくすぐるのではないか。なお「鉄道マニアではない」私もこの切符は記念に頂いた。

 マニア心をくすぐる硬券切符

 路線は次の東野駅までは恵那の市街であるが、それ以降は突然に山の中になり、列車はエッチラオッチラと坂を登っていく。次の飯沼駅は日本第一位の急勾配駅だという。ちなみに明知鉄道の車両はこの急勾配があるためにエンジンを強化すると共に、砂まき装置を備えていると言うことである。なお明知鉄道では「すべらない」ということでこのまき砂を受験のお守りとして売り出したところ、非常に好評を博したという。

 

沿線は山あり田んぼありののどかなところ

 次の阿木駅からは山間の盆地のような光景になる。この辺りから沿線に田んぼが増えてきて風景が美しくなってくる。次の飯羽間を過ぎると、新設の「極楽」駅。明知鉄道では「極楽行き」切符も販売しているので、高齢者へのおみやげなどにも良いだろう(もしかすると怒られるか?)。それとも邪魔な相手に「お前なんかさっさと極楽にでも行っちまえ」と送りつけるか。

 極楽駅

 極楽の次は沿線最大の集落でもある岩村。ここが行き違い駅になっており、反対側方向の列車が待っている。なおここから岩村城に行けるのであるが、それは明日の予定であるので今日は通過。次の花白駅は駅のすぐそばに温泉施設があることで知られている。せめて列車が30分に1本あれば入っていくところだが、1時間に1本あるかないかという状況では時間をもてあますのでこれも残念ながらパスである。

 明知鉄道で以前に使用していたレールバスの残骸を留置してある山岡駅を通過し、野志駅を過ぎると終点の明智に到着である。

 明智駅に到着

  どことなくレトロな街並み

 明智の印象は「意外と大きな集落だな」というもの。明智では「大正ロマン村」として観光立地を目指しているようである。そう言うわけであちこちに大正ロマン向けの施設が存在しているのだが、街全体の雰囲気としてはむしろ昭和風情の方が強いように思われる。とりあえず大正ロマン村の4施設を入場できるセット券を購入して、辺りを散策する。元郵便局の建物を使用した逓信資料館、古い倉を使用して昔の蓄音機などを展示しているた大正村資料館、大正時代の明智や大正天皇にまつわる展示をしている大正時代館、古い玩具を展示したおもちゃ資料館などを順番に訪問。さらに大正村役場、さらに大正ロマン館など一渡りの見学を行う。なんかやはり最近やたらにこの手の町並み保存的な地域を訪れることが増えている。どうも先日の関といい、その前の矢掛といい、さらにはその前の近江八幡といい、さらには内子など最近の私の旅はだんだんと「街道をゆく」になりつつある気配が・・・。まあこれも「21世紀の地域振興」に関係しているということで良しということにしておこう。

 

大正村資料館とその内部

 

 こちらはおもちゃ資料館に大正ロマン館

 大正ロマン館の見学を終えたところで、ここからさらに奥地に進むことになる。ここの奥の山には明智城(白鷹城)があるのでそれを見学するのが目的である。ちなみに本能寺の変で歴史に名を残している明智光秀であるが、その経歴については不明の部分がかなり多く、信長に仕えるまでの経歴には諸説がある。実はこの明智城は明智光秀出生の城と言われているのだが、同様に明智光秀出生の城と言われている明智城が可児市にも存在しており、未だに真偽のほどが不明であるという。

 さてこの明智城本丸へ通じる道はあるのだが、これが案内板がなければ「本当にここか?」と思わず迷うほどの山道(というかほとんど獣道)。一瞬進むことをためらうが、ここまで来た以上前進あるのみである。

 

登城口は鬱蒼とした獣道 「明智城址」の表示がないと引き返しているところ

 しかしこれはかなりの難行苦行であった。先日来の雨で足下が湿気っていて滑りやすいし、鬱蒼としているせいで虫が多く、特にヤブ蚊が叩いても叩いてもたかってくる。この前の観音寺城の二の舞になったら洒落にならないので、足下に注意しながら着実に登るが、悲しいかな体力が不足しているせいでそう長くない行程にもかかわらず途中でヘロヘロになり、何やら胸まで苦しくなってくる始末。

 

大手門跡に三の丸跡・・・と言われても単なる林の中

 それでも途中の大手門櫓跡(といっても土の崖があるだけ)、空堀跡(これはかなり深いので落ちると洒落にならない)などを経ながらようやく本丸跡に到着・・・といっても鬱蒼とした平地に案内板があるだけで何があるわけでもないというのが実態。さらに奥に二の丸跡、さらには出丸跡もあるのだが、二の丸跡まで行ったところでヤブ蚊はひどいし、挙げ句にヒルまで出てきたので出丸跡の見学はあきらめて引き返すことにする。

  

現地案内板と本丸跡、二の丸跡・・・と言ってもやはりただの林

 結局は蚊に食われたりドロドロの汗だくになりながらようよう帰ってきたのである。あまりにマニアックすぎる城だったようで、私のような素人には見学のポイントが今ひとつつかめなかったのである。やはり木が多すぎて見晴らしが効かないのがつらい。なお今回明智城見学を強行したのは、明日の岩村城訪問に向けて、痛めた足首の回復度合いを測るという意味もあったのだが、足首の方は大丈夫そうであるが、体力の方に不安を感じずにはいられなくなってしまったのである・・・。

 

 帰りの車両はロングシート車でした

 恵那駅に到着

 明智の見学を終えた頃にはもう夕方。再び明知鉄道で恵那に舞い戻ると夕食を摂ることにする。今回夕食を摂ったのは「ますき」。恵那では比較的有名な和食の店だという。人気があるのか駐車場が一杯だったが、辛うじて空きを見つけて駐車する。

 メニューを見るとかなり豊富。揚げ物からウナギまであり、和食店と言うよりは居酒屋に近いようなメニュー構成である。メニューに「自慢のウナギ」とあったのが目についたのと、とりあえず土用の丑ということもあり、「ひつまぶし(1780円)」を注文。

 いかにもうまそう

 これがウナギ専門店でもないはずなのに意外にうまい。香ばしく焼き上がっているウナギが薬味と非常にマッチする。結局は例によってウナ茶中心で頂くことになる。

 さらには「馬刺し(880円)」を追加。こんなことができるのはウナギ専門店ではない強み(笑)。これがまたトロッとした肉の食感と、コクがありつつもサッパリしている味が最高。なんか最近、馬刺しにとりつかれてるな・・・。

 これもそそる

 たっぷりと夕食を堪能したところでホテルにチェックイン。今回の宿泊はルートイン恵那。比較的低価格でかつ大浴場付きということで私がよく利用するホテルチェーンの一つである。この日はそのまま人工温泉の大浴場を堪能して暮れていったのである。

 

 

 翌朝は6時に起床すると出発の支度。今日の予定は岩村城の訪問であるが、岩村城の歴史資料館が9時開館なので、それに合わせて8時半頃チェックアウトの予定。朝風呂も済ませ、ホテルで朝食を摂り、万全の状態で準備したのだが出る直前になって遅刻することに。その理由というのが「フレッシュプリキュアに見入ってしまったせい(笑)」。お子様向け番組と侮って今まで見たことがなかったのだが、たまたま目にした話が、ヒロインの友人になりすましていた敵女幹部が、ヒロインと触れあう内に自分の使命に疑問を感じるようになり始め、最後は敵のボスに捨て石にされて絶命してしまう。しかしその時、彼女は4人目のプリキュアとして覚醒する。彼女を仲間として迎え入れるヒロインたち。しかし今までの経緯から、彼女はヒロインたちの仲間になる資格がないと一人悩む。そんな彼女の心をほぐすため、ヒロインが両親との夕食に誘う。そこで彼女は初めて心の底から笑い、そのような心を守るためにプリキュアとして立ち上がる・・・という王道コテコテの燃える(萌える?)展開。このコテコテの話が、私の潜在していた往年のセラムンファンの魂を覚醒させ・・・といういい年をして何をしてるんだという状況である。

 結局はチェックアウトは9時。天気予報によると今日は梅雨前線の影響で雨とのことだったので気になっていたのだが、昨晩は雨が降ったものの、今は青空が見え始めていて何とか天候は持ちそうである。やはりこれは私の日頃の行い賜物だろう(笑)。

 近くのコンビニで伊右衛門を仕入れる(夏になるとこれがライフラインである)と、車でひたすら岩村を目指す。山の中をトンネルあり、橋ありという道路を疾走。しかしこれが非常に良い道路であるので、10分ちょっとで現地に到着。こりゃ明知鉄道は危ないぞ・・・。

 

歴史資料館と太鼓櫓

 歴史資料館はそもそもは領主館があった位置に建っている。また復元された太鼓櫓もここにある。歴史資料館の入ったところにいきなり岩村城の復元模型があるのだが、これがなかなかに堂々とした城。期待が高まる。

 岩村城復元模型

 歴史資料館に車を置くと、ここから登城筋を通って本丸を目指す。登城筋は石畳の階段なのだが、これが手前に向かって傾斜している上に、昨晩の雨で塗れているので足下がかなり危ない。登りでは足首への負担はあまり大きくないのだが、その分ふくらはぎに負担が来る。本丸までは1キロほどのはずなのだが、情けないことに200メートルも行かないうちに息が上がってくるし、足は悲鳴を上げる。

 登城筋はかな険しい(実際はこの写真のイメージよりもかなり急です)

 しかもヤブ蚊がたかってくる。昨日の明智城での教訓から、虫除けスプレーを用意しているのでこれを塗布。おかげでヤブ蚊が体にまとわりついてくるが、体にとまるものはいない。

 かなりヘロヘロになった頃にようやく本丸の石垣が見え始める。これがかなり立派な石垣で、ほぼ限界までに達していた疲れが一気に吹き飛ぶぐらい。山の地形を利用しながら何段にも積み重ねた石垣はかなり高く、この城が難攻不落であったということがうかがえる。実際、この城は力攻めによっては落城したことはないという。

 

一の門跡と土岐門跡

 元々岩村城は遠山氏の城であったが、城主の景任が病死した後、夫人が女城主として差配したという。この城は位置的に武田氏と織田氏の勢力が交差するところであるため、もろに両者の勢力の狭間で翻弄されることになる。この城の攻略を目指す信玄は、城の武力による攻略が困難であったことから、家臣の秋山信友が夫人と結婚することで開城させたという。しかしその後に武田氏の勢力は弱体化、今度は信長に攻められることとなったがやはり容易には落ちず、5ヶ月に渡る兵糧攻めの後に信友ら夫妻の助命を条件に開城したという。しかし信長はこの約束を翻し(さすがに歴史に残る極悪人である)、彼らを逆磔にして処刑したとか。

 驚くのはその石垣に用いている石の大きさ。同じく山城の備中松山城などでは石材の調達に苦労したのか、小はこぶし大の石まで使用しており、全体的に細かい石垣となっていた。しかしここはかなりの巨石がゴロゴロしており、石材の切り出し自体は近くの山で行えたとしても、人力やせいぜい馬力ぐらいしかない時代に、このような石材をどうやって運搬したかと考えると気が遠くなる。

 さらに大手門跡を抜けると

 これらの石垣を堪能しつつさらに進むと、前方にひときわ立派な石組が見えてくる。ようやく本丸に到着した模様である。ここも二の丸、三の丸など連郭式となっておりきわめて立派。とりあえず本丸まで登る。

 

眼前に突然開けるのはこの高石垣

 本丸まで登るとそこからの眺めは見事の一言。なお本丸から少し下がった位置に出丸があり、実はそこまで車で来ることも可能なのであるが、やはり登城筋の石垣を楽しもうと思うと、しんどくとも下から歩いて登るのが正解である。苦労すればそれだけ報われるものがあるのである。

 

本丸は原っぱ そこから見下ろす出丸

 

本丸の裏口から出丸に降りて、そこから見上げる本丸

 帰りはあちこちの曲輪を回りながら降りていく。この行程は登りのような体力的なしんどさはないが、別の困難を含んでいた。塗れた石段は非常に滑り、しかも登りよりも下りの方が危険性が高いのである。また足下を気にしながら踏ん張っているとこれは足首に負担のかかる動作になる。降りてきた頃にはかなり足腰にキツいものとなっていた。

 

 岩村城を堪能した後は、城下町岩村の散策である。この地区では町並み保存に取り組んでいるとのことで、江戸時代の雰囲気をたたえる旧家が多い。それらを見学しつつ、みやげものを購入する。購入したのはなぜか山中の城下町・岩村の名物の「カステーラ」と老舗の作り酒屋が米麹だけで作っているという甘酒(岩村城にちなんで「女城主」という銘がついている。

 みやげものを購入すると昼食。手頃なそば屋に入ったのだが、これはいかにも「観光地」という店でCP的に今一つであった。これは失敗。

  岩村城下町の光景

  菓子店まで趣がある

 

酒屋内部のレールは酒樽をトロッコで運ぶためのものとか

 さすがに三大山城(ここ以外は一般的に備中松山城、大和高取城があげられる)と言われるもだけあって見応えのある城であった。なおこれらの三大山城は江戸時代まで残存した城であって、これ以外に江戸時代には廃城になった五大山城として、越後春日山城、能登七尾城、近江小谷城、近江観音寺城、出雲月山富田城が挙げられている。この中では先日に観音寺城を、その前に月山富田城をさらに前に備中松山城を訪問しているが、後はまだ未訪問である。いささか体力に不安はあるものの、とりあえず現存12天守の制覇と共に、これらの城の攻略も私の目標となっている・・・って知らない間に完全な城郭マニアになってしまっていた。備中松山城を訪問した頃には、丹念に石垣の写真を撮っている人を見て「城郭マニアってすごいな」と思っていたのに、気がつけば1年も経たない内に全く同じことをしていた私って・・・。やっぱり自分のオタク度の高さを未だに見くびっていたか。

 ちなみにまた今回も図らずして「街並み探訪」になってしまった。しかも昨日の明智に続いての連チャンである。最近はめっきりとこの手の街並み保存地区と馴染みになってしまった。どうも「古城を行く」の次は「街道を行く」になりつつある今日この頃。私の遠征って「週間朝日百科」か? となると、次は「古寺を巡る」か・・・何か洒落になってないような・・・。

 

 岩村を十分に堪能したが、予定はこれでは終わらない。次の目的地を目指してさらに車で移動する。次の予定はここから近い位置にあるもう一つの山城・苗木城の訪問である。苗木城は自然の断崖の上に建造された堅固な城である。実はことさら城マニアという訳ではない私は、この城の存在については全く知らなかったのであるが、今回のプランを練るために地図とにらめっこしているうちにここの存在を発見、急遽予定に組み込んだのである。

 歴史資料館

 麓に歴史資料館があり、ここには苗木城関連の資料が展示してある。そこにある復元模型を見ると、城郭と言うよりも堂々たる要塞である。期待が高まる。

 苗木城模型 極めて堅固な断崖の要塞である

 以前は「七曲がり」と言われるかなり厳しい山道を登っていく必要があったようだが、現在は登山道のかなり上の方まで車で上れるようである。実際に進んでみると、駐車場との明記はないが、きちんと車が止められるだけのスペースも確保されている。先ほどの岩村城でかなり足腰を痛めつけているのでこれはありがたい。ここで車を置くと徒歩で先を目指す。

 早速巨岩がお出迎え

 

大手門跡に櫓跡

 直に苗木城の本丸が眼前に見えるが、これが唖然とするような光景。普通の城郭は山を基本にしてそれを石垣で固めてその上に建物を置くが、ここの場合はその基本になる山が岩山であるため、巨岩と石垣の上に城がのっかっている構造になっており、非常に日本離れした光景となっているのである。断崖絶壁をなす巨岩に直接穴をあけて柱を立てたりしているため、その険しさや見上げるような様であり、まさにのしかかってくるような迫力がある。

  本丸跡も巨岩がゴロゴロ

 今は建物は全く残っていないが、かつての本丸跡には展望デッキが設置してある。ここに登ると眼下に恵那峡を見下ろすことができ絶景。人間、こういう絶景に接するととんでもない発想が出て来るものである。織田信長に「天下布武」などと戯けたことを言わせたのが岐阜城から見下ろす濃尾平野の光景だとすれば、この絶景を見下ろした私の脳裏によぎった言葉は不遜にも「天上天下唯我独尊」というものであった。

 

 

本丸からの笑っちゃうような絶景

 苗木城の見学を終えると、麓の青邨記念館にも立ち寄る。前田青邨は大和絵の伝統を汲み、花鳥画や武者絵などで知られる大家で、弟子には平山郁夫がいることなどで知られている。ただどうも私は個人的には彼のいかにもさっくりした線で描かれた絵画は趣味に合わず、平山郁夫の作品についても同様の感想を抱くことから、彼の一派とは相性が良くないようである。

  青邨記念館に立ち寄る

 美術館を出た頃には全身が汗でグッショリになっていた。こんな時には訪問すべき場所は決まっている。この近くにある東山温泉まで山間の道路をひたすら車を走らせる。

 この地域にはラジウム含有料日本一というローソク温泉が有名で、全国からかなりの観光客が訪れるという。東山温泉はその近くにある温泉でこちらも放射能泉であるが、知名度が低いのか混雑はしていない。そもそもは小さな宿のようであるが、日帰り入浴客も結構多いようである。

 

 私が入浴したときには先客は一人、しかもすぐに出ていったのですぐに貸し切り風呂になる。ここの泉質も放射能泉、ただし加水循環あり、塩素殺菌もありと書いてある。多分この時点で掛け流し原理主義の温泉マニアは「ダメ」という評価を下すのだろうが、私は掛け流し原理主義者とは違い、要は塩素の臭いが鼻につくようなことがなくて、湯の肌あたりがよければ良しという人間なので、そのことは問題ではない。

 さて泉質の方であるが、まず塩素の臭いはほとんどしない。さらに驚いたことは、放射能泉にも関わらずかなりヌルヌルした浴感があることだ。

 温泉で汗を流した後は山道をさらに疾走して恵那まで戻ってくると、そこから中央道を突っ走って岐阜に向かう。昨日はこの道路が渋滞で完全に麻痺していてまいったのだが、さすがに今日は三連休の中日であるので概ねスムーズに流れ、ほぼ予定通りに岐阜に到着する。今日の宿泊予定地は岐阜だが、ホテルに入る前に久しぶりの美術館を訪問する。


「時代を創った日本画家たち」岐阜県美術館で8/30まで

 

 岐阜県美術館、三重県立美術館、愛知県美術館の東海三館は定期的に合同企画を開催しているが、その一環である。今回は岐阜県美術館において、三館の日本画コレクションを持ち寄っての企画となっている。

 いずれも比較的訪問頻度の高い美術館なので、その所蔵品については見たことがあるものが多くなるのは仕方のないところ。ただそれでも、このような形で作家別にまとめて展示されると印象が変わる。また概ね時代順、流派別とでもいうような分類になっているので、近代日本画の流れを概観するには面白い内容となっている(地域色が露骨に出ているので、完全に絵画史を概観するところまではいかないが)。

 こういう流れで見ると、特に昭和以降は日本画と洋画の区別が画材による区別以外は実質的になくなってしまっていることもよく分かったりするのである。もっともその手の絵画で本当に面白いと思うものには当たったことはほとんどないのだが。


 

 これで本日の予定は終了である。とりあえず宿泊予定のホテルに向かう。今日の宿泊ホテルはルートイン岐阜県庁南。大浴場と朝食付きを重視して選択した結果、図らずしもまたルートインホテルになってしまった。別にルートインを好んでいるわけではないのだが、私の「大浴場付き、朝食付き」という条件で行くと、自ずと選ばれるビジネスホテルチェーンが決まってくるのである。現在のところの私の認識では、ルートインは中価格帯のホテルチェーンというイメージで、さらに安ホテルはスーパーホテルチェーン、ドーミーチェーンになると私の認識では既に高級ホテルに入ってしまう(笑)。

 ホテルはやや不便なところにあるが、今回のような車を使用する場合にはそれは問題にならない。むしろ駐車場が広い分使いやすいか。とりあえずチェックインして荷物を放り込んでから一服すると、夕食を摂るために再び市街に繰り出す。なおこの頃になると、今までギリギリのところでなんとかもっていた天候が完全に雨天(それも結構の雨量)になっていた。山城訪問の時にこの雨に出くわしていたらかなり行動を制約されるところだったが、どうにか天候がもってくれたことに今更ながらラッキーだったと感じる。やはりこれも私の日頃の行いの良さか(笑)。

 

 今回夕食を摂ることにしたのは、岐阜市街のやや北部にあるトンカツ専門店、その名も「とんかつや」。いろいろな豚肉のトンカツを食べさせる店らしい。内部はカウンターオンリーの構成で、20人程度が座れる長いカウンターが1つある。

 

 ちょうど夕食時で混雑していたのか、しばらく待たされる。そのうちに家族連れ客が次々と出店していき、ようやくバタバタとした片づけの後に席に通される。メニューには普通のトンカツからいわゆるブランド豚まで様々だが、その中で私は「萬幻豚カツの定食(2520円)」を注文。萬幻豚なる豚は私は初めて聞くのだが、静岡地域で飼育されている豚で、良質の脂を肉に含むのが特徴だとか。

  

 揚げに時間がかかるのかやや待たされてから料理が到着する。出てきたのは一見するとなんの変哲もない普通のトンカツ定食。切り口から肉を見てみると通常よりも脂身が多いことが分かる。

 とりあえずは軽くソースをつけて一切れ口に放り込む。思わず声が出る。「あっ、甘い。」 肉の脂身が非常に甘味をもっていて実に美味なのである。これはさすがに驚いた。悪い肉だと脂身は単にプニプニしているだけで味的にはしつこくて、ひどい場合には胸が悪くなるのだが、この肉の脂身は噛みしめると甘い脂が染み出してくるのである。「もしかして、トンカツというのは実は脂身を楽しむ料理だったのか?」 こういう疑問が私の脳裏によぎる。これは初体験であった。なお調味料に関してはソースや塩などが出ていたのだが、結局私は一渡り試した後、肉の脂身をもっとも楽しむために何もつけずに食することとなった。このレベルのカツになると強い調味料は味を損なうだけである。

 正直、価格を見た時には「高すぎるな」と思ったのだが、やはり値段に応じた中身はあったというところか。もっとも日常的に食するとなると、こういう贅沢ばかりもしていられないから、その時はオーソドックスに普通のトンカツを注文することになろう。それでもこの揚げに対するこだわりから見ると、はずれることはないと思われる。

 

 この日はこのままホテルに帰ると、大浴場で入浴をして、そのまま眠りについたのであった。しかしこの夜は、二日間で山城を三つも攻略という無理が祟ったのか、はたまた放射能泉の副作用か、それとも食べつけない高級豚を食ったせいかは分からないが、やけに身体が火照って寝苦しく、浅い眠りのまま、翌日の早朝に目覚めたのだった。

 

 

 翌朝は7時前にややぐったりした状態で起床するとホテルで朝食。昨日もルートインの系列だったせいか、どうも朝食メニューが変わり映えしない。こういうところにももう少しローカル色を出せば良いのに。

 やはり身体に疲れが来ているので、しばらくゴロゴロとしながら9時前ぐらいにホテルをチェックアウト。まずは岐阜市街を東に向かって走行。加納城址を目指す。岐阜といえば金華山城にそびえる岐阜城が織田信長の居城にもなったことがあることから圧倒的に有名だが、加納城とはもう一つの岐阜城である。そもそも加納城は江戸時代になってから、堅固ではあるが手狭な岐阜城に代わってこの地を治める中心の城として建造されたものである。つまりは岐阜城が戦時における城だとすれば、加納城は平時における城。つまりは政庁としての機能が強い城ということになる。そのため二重の堀を持つ防御の構えは有しているが、平城で城下町の発展に重きを置いている。

 加納城縄張り図 現地配付資料より

  

堀は埋め立てられている

 現在は建造物の類は一切残存していないが(岐阜城の天守をこちらに移していたという話がある)、石垣や土塁が残存しており、今では埋め立てられてはいるものの本丸を巡る堀の跡もうかがうことができる。本丸跡は現在は史跡公園となっており、多くの人々で賑わっていた。とりあえずはかつての堀跡にある臨時駐車場に車を止めて一回りを見学したが、土塁の上は格好の散歩コースとなっている。また門などの跡は見る影もないが、当時の虎口の跡をうかがうことはできる。城址には何も残っていないと聞いていたのであまり期待はしていなかったのだが、建造物こそ残っていないが、意外に楽しめたのである。

  

広場になっている本丸跡と、虎口の跡

 加納城の見学を終えた後は車でしばしの移動。次の目的地へと向かう。次の目的地は墨俣一夜城。信長の美濃攻略に際し、秀吉が現地の豪族などを動員して(その中には蜂須賀小六などもいたという)、事前に加工した木材を木曽川で運搬して現地で組み立てるという日本初のプレハブ工法によって見事に築城に成功した城である。これが後の秀吉の大出世の第一歩になったことでは有名で、太閤記などには必ず登場する城である。

  墨俣一夜城のとんでも天守

 とはいうものの、実はその正確な場所は明らかではない。というのもこの地域は洪水なども多く川筋が何度も変化しており、だからこそ戦略的要地にもかかわらずそれまで城が築かれることがなかったのである。また城といってもそもそもは馬防柵などを巡らした中に簡素な建物を建てたものであり、現在建てられているような立派な天守閣など間違ってもあったはずがない。現在は何やら立派な天守閣が建っているが、これは例によっての観光目的の「とんでも天守」である。内部は博物館となっており、秀吉や街道町墨俣にまつわる資料などが展示されている。ちなみに中には「正しい」墨俣城の復元模型なども存在しているのでこちらをよく見ておく方が良いだろう。

  こちらが「正しい」墨俣城の模型

 墨俣一夜城の見学の後はひたすら西に向かって走る。次に目指すは養老天明反転地。養老の山麓にある巨大な現代アート作品なのだが、実はアートと言いつつもその実は遊園地のようなもの。私は以前から「現代アートは遊園地のアトラクションのようなもの」とよく言っているが、ここはそのものズバリ、現代アートを遊園地そのものにした施設である。実際、私のカーナビでは「美術館」で検索をかけてもここは出てこず、「遊園地」で検索をかけて初めて出てきた次第。

 

 しばらく車を西に向かって飛ばすと、やがて目の前に養老山地が見えてくる。見上げると壁のような山地である。岐阜の東では天候が良かったのにここに来るとやや雲が出てきているのが気になるが、どうにか天候はもちそうな気配である。養老まで到着すると目的地に直行せずに、まずは昼食を先にすることにする。やはり運動前には腹ごしらえの必要がある。

 

 養老を少し北上した辺りには食肉施設が多く、それらの施設の直営の焼き肉屋が並んでいる別名「焼肉街道」などとも言われている地域がある。その中の「藤太」なる店を目指す。私が到着したのは開店してから間もない時間。しかし休日のせいか既に駐車場に一杯の車が停まっている。さらに店内も満員で空き待ちの状態。焼肉店の回転率を考えると1時間は待たされることになりそうな気配。通常なら食事のために行列に並ぶという価値観を持ち合わせていない私だが、この時は完全に気分が焼肉になっていたのと、この後の予定が天明反転地訪問だけだったことから、車の中で待つことにする。

 車内でポメラで原稿をうちながら待つこと1時間強、ようやく開店時に入店した客の入れ替わりが始まり(混雑時は90分の時間制限がある模様)、やっと店内に入ることができる。メニューを見ると通常の牛肉から、飛騨牛などの高級肉まで様々。ちなみに駐車場で待っていた間に奥の精肉工場に牛を乗せたトラックが入っていくのを眼にしたのだが、そこに積んでいたのはホルシュタイン。多分通常牛肉はこのホルシュタインなどの肉になるのだろう。ここはリッチに飛騨牛でも食べたいところだが、そろそろ財布の中身が気になってきたので、そこは普通の牛肉で適当に注文する。

  

塩タンに上カルビにロース

 やがて注文品が次々と並んでくるが、それを見た時に私は失敗したと痛感する。私が注文したのは塩タンに上カルビ、ロース、馬刺しにたてがみ、それにライスをつけたのだが、腹が減っていたせいで明らかに「注文しすぎ」である。ズラズラと並んだ肉に思わず圧倒されてしまう。しかし注文してしまった以上食べるしかない。

  馬刺しとたてがみ

 まずは馬刺しとたてがみ。馬刺しは赤身で比較的淡泊な味だがうまい。たてがみは初めて食べるがとろっとしてイカのような食感。ただし脂がやや多くて少々しつこいのでこれだけを完食するのは無理とみて、肉の焼きからはいる。肉はいずれも柔らかくてうまい。特に厚めのロースの風味が素晴らしい。

  ただひたらす焼いて食うべし!食うべし!

 結局は腹一杯焼肉を堪能したのである。驚いたのはこれだけ食べて支払いは3570円。都会でチェーンに焼き肉屋などに行くと、これと比較するのも馬鹿らしいような悪い肉で、もっと高い金を取られるということを考えると、これはバカ安。店に行列までできるのも分かるような気がする。実際、食べ物のために行列することはしない私でも、これも待った価値はあったと判断したのである。

 

 満腹になったところでいよいよ天明反転地を目指す。現地は養老ランドなどまさに正真正銘の遊園地もあるような一角。ちょうど養老山麓の傾斜地の広大な公園になっている。

 さて内部であるが、これは何とも表現に困る世界。うねうねとくねった建物や、不可解な造形が並ぶ異世界である。古いアニメに「ポールのミラクル大作戦」という、主人公が異世界に行ってヨーヨーで戦う作品があったが、私が連想したのはその異世界であった。とにかく狭い空間、急斜面などが多いので、子どもは良いが私のような体積の大きい人間は途中でつかえないか心配になる。また「ここはつながっているだろう」と感じるところが行き止まりになっていたり、こちらの無意識の思いこみを裏切るような仕掛けがある。さらには傾斜地に上下感覚のハッキリしない造形物を並べているので、平衡感覚が狂いそうになる。阪神大震災を体験した私は、当時の三ノ宮で大きなビルが軒並み傾いている光景を見て平衡感覚が狂って目眩がしたが、それを思い出した。しかし足下はかなり急な傾斜になっているところがあるので、よろめいて転倒したら洒落にならない。スニーカーなどの動きやすい靴で来るようにとの注意はあったが、確かにヒールではここは無理だろう。ただスニーカーでも雨などが降ったら危ないような気がする。実際に私も、先日の雨でやや濡れていた路面で、見事に足をすべらせて尻餅を着く羽目になってしまった。最近は「客にけが人が出たら責任問題」とのことで、とにかく安全面ばかりに気を使っている施設が多いのに対して、何と大胆なことだろうと驚く次第。一応監視員のような者はいたようだが、今までにけが人などは出なかったのだろうか? それとも遊園地ではなくてアートだからこれでもOKということ?

  

  

とにかく不思議空間オンパレードである

 まあとにかく異次元体験のできる奇妙な施設だった。ただ連日の強行軍で既に足にかなり疲労が来ている私にはこれは少々酷な施設だった模様。空模様も怪しくなってきたし、そろそろ帰りの道路が気になり始めたので、一回り見学したところで撤退することにする。

 雨がぱらつきだしたのはちょうど私が駐車場から車を出した頃だった(またしてもツキがあったな)。後はこのまま関ヶ原で名神に乗って帰路へと着いたのであった。夕方になる前に移動を開始したのが幸いして、やはり大阪近郊で渋滞には出くわしたものの、何とかそれを切り抜けることができたのだった。非常に充実した遠征ではあったが、その分、身体に蓄積した疲労も多かったというのが事実。やはりもう既に私も若くはないのだから、もっと余裕のある計画を立てないといけないなと反省。貧乏性と体力の折り合いが今後の遠征の課題か(笑)。

 

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