展覧会遠征 島根編2

 

 さて青春18オフシーズンは「どうせ将来消費税大増税でボッタクられるなら、麻生が選挙向け人気取りしている間に、高速1000円を使い倒そう企画(名称長すぎ)」の第二弾である。先週は四国に渡ったのであるが、今回は山陰に向かうことにする。目的地は私の好きな松江。松江は今まで何度か訪問しているが、ことごとく鉄道による訪問である。今回は目的は島根県立美術館での展覧会だが、それ以外にも車でないと行きにくいところに立ち寄ることを主眼としたプランとなる。

 まずは中央道と米子道を乗り継いで大山に向かう。高速1000円になってから、週末になるととんでもないドライバーがワラワラと涌いて出ることが問題になっているが、確かに奇妙な動きをするドライバーに出くわす頻度は明らかに上がっている。しかし特に大きなトラブルはなくそのまま大山にたどり着く。ここで途中下車すると、大山山麓の美術館を目指す。

 


植田正治写真美術館

 

 鳥取県出身の写真家・植田正治の作品を収蔵した美術館。植田正治は画家になりたかったのだが、親に美術学校への進学を反対され、その代わりに買ってもらったカメラによって、写真の道に入り込んだという。砂丘を舞台にした「砂丘シリーズ」と言われる一連の写真が有名であるが、彼の写真は「演出写真」と言われ、画面効果を計算した上であらかじめ人物などを配してから撮影する写真であり、できる限り作為を排したリアリティ追究を求める立場とは対極の位置にある。この辺りは、彼がそもそも画家志望であったというところが大きく影響していると思われる。

 美術館は大山の麓の風光明媚な地に置かれており、美術館自体が巨大なレンズを備えたカメラになっているという面白い構造を持っている。植田正治の写真自体は、正直なところそう私の好みに合っているわけではないが、美術館自体は面白い。

 美術館からは大山が見える


 美術館を回った後はそのまま次の目的地である米子を目指す。ただその途中で寄り道をする。米子の手前の尾高の地に「尾高城」なる城址があるので、そこを見学しておこうという考え。この城は街道を押さえる要衝であるため、かつて尼子子と毛利氏の間で争奪戦の中心となったと言われている。その後、この地域の中心は米子城に移っていって廃城になったとのこと。近年になってこの地が複合福祉施設として開発されることになり、それに併せて発掘調査が進んだのだという。

  

土塁や屋敷跡などが再整備されている 左は南大首曲輪址、中は屋敷跡、右は中の丸曲輪

 とりあえず現地に車を置いて、徒歩による視察。城自体は小高い丘の上に位置しており、建造物の類は一切ないが(武家屋敷跡などの痕跡だけは整備されている)、各曲輪の跡などが残っており、土塁などもある(復元された分もあると思うが)。各曲輪は深い空堀で区切られており、また城の西側の斜面などはかなり急峻。規模はそう大きくないが、なかなか防御に優れた城であったようである。なお中の丸の跡などはかなり整備されているが、本丸跡は鬱蒼とした状態で放置されており、とても中に踏み込めるような状況でなかったので、途中で撤退することにした。

  

中の丸曲輪の西側はかなり切り立っており空堀も深い 本丸跡は鬱蒼としてとても踏み込めず

 尾高城を見学した後は車でしばらく北上。すると田んぼの中に城郭らしき建物が見えてくる。これは実は「お菓子の壽城」といって、その正体はお菓子工場。某食品メーカーが宮殿型工場を建てて話題になっていたが、ここもその類である。ここまで来ると「とんでも天守」を通り越して、既に「インチキ天守」の世界。ちなみに私がここに立ち寄ったのは話のネタもさることながら、おみやげを購入するため。数種を試食した結果、栃餅をおみやげに購入することにする。

  外観は城だが、中身は工場と土産物屋

 おみやげものを購入すると、米子方面まで移動。昼食を摂ることにする。車で移動の時は行動半径は広がるのだが、駐車場のある飲食店でないと駄目なので、町中の時はかえって店の選択肢が狭まる場合がある。結局、国道沿いで大きな駐車場があった「海鮮ろばた海王」という店に入って、おまかせ御膳(1500円)を注文する。

 

 ファミリーレストランのような店構えから、内容に関してはあまり期待していなかったのであるが、魚を中心としたランチメニューは予想以上にまとも。刺身類も鮮度が高く、一般的なファミリーレストランの刺身などではよくある「エビの頭が生臭い」などということもなかった。また汁物もあら汁であり、これが出るということはどこかでばらした魚を仕入れているのではなく、自分のところで魚を捌いているということ。さすが鳥取だけあって、魚で中途半端なことはできないか。驚くほどという内容ではないが、価格を考えると十分に納得できる昼食であった。

 

 昼食を済ませた後は「米子城」に向かう。米子城は海際から米子市街を見下ろす湊山の上に築かれた山城である。ここに最初に城郭が築かれたのは戦国時代とのことで、この城郭が築かれたことで尾高城はその機能を失って廃城になったのだという。米子の街道を押さえる要地であるこの城は、やはり諸勢力による争奪戦の渦中に放り込まれることとなり、そのたびに防御施設が強化されたようである。明治になって廃城になるまでは、吉川広家が建造した3重天守と、江戸時代になって城主となった中村一忠が建造した4重天守の2つが並んで威容を誇っていたという。しかしそれらの建造物も、明治の廃城令で叩き売られることになり、噂によると解体されて風呂屋のたき付けにされてしまったとか。今となっては勿体ないとしか思えない話であるが、当時はそれで仕方がなかったのだろう。

  

左 入口部分の枡形 中央 市指定文化財の小原家長屋門(移築) 右 二の丸跡はテニスコートに

 現在は建造物は全く残っておらず、三の丸跡は野球場に、二の丸跡はテニスコートになってしまっているが、石垣などが遺構として残っており、二の丸入口の巨大な枡形なども見ることができる。入口のところで車を停めると、本丸に向かって石段を登る。二の丸を過ぎて本丸に向かう途中で分岐があり、そちらを進むと内膳丸に到達する。内膳丸は中村一忠の家老の横田内膳正村詮が建造したとされる櫓で、ちょうど本丸の手前で守りを固める位置にある。

 

左 内膳丸 右 内膳丸より望む本丸

 本丸へはさらに険しい階段を登る。自然の山の地形を生かした実に堅固な要塞である。息を切らせながら登り切るとそこは番所跡、それを通り過ぎると鉄御門跡があり、その上がいよいよ本丸の天守台である。天守台は公園として整備されているが、米子市街から日本海まで遠く見回せる絶景。これを見るとここまで来るためにわざわざ登ってきた価値があったということを思わせられる。ただ石垣の絶壁がそのままで、何の柵のようなものもないのは高所恐怖症である私には恐怖感を感じさせられるものだ。その絶壁の際で小さな子どもが全く怖がる様子もなくに走り回っているのには、見ているこちらがヒヤヒヤした。連れてきている母親が特に注意をする様子さえなかったのは、剛胆と言うべきなのか、単に無神経なのか。

  

左 番所址から望む本丸の石垣 中央、右 本丸の鉄御門址

  

左 天守台風景 中央 天守台から望む米子市街と内膳丸 右 天守台より東方を望む

 こちらは天守台西方の水手御門

 一日で城を二つ(しかも一つは山城)を攻略して、汗もかいたし足には疲れもたまっている。そこで次の目的地に移動する前に、米子近くの皆生温泉に立ち寄ることにする。立ち寄ったのは日帰り温泉施設の「オーシャン」。皆生温泉は海のそばのナトリウム・カリウム塩化物泉で、私がよく言うところの「海水が断層に沿って染み込んで温まっただけと違うんか」という温泉である。ただここの泉源は湯量が非常に豊富だとのことで(いよいよ海水くさい)、完全かけ流しになっている。

 日本海の海岸近くにあります

 ナトリウム泉なのでねっとりした印象の湯。さすがにかけ流しと言うだけあって無粋な塩素殺菌の臭いはしない。また湯の肌当たりも良くて入浴感はなかなか。保温性のよいタイプの湯なので身体が温まる。設備面でもサウナに露天風呂などすべてが整っており、特に広大な露天風呂は極めて快適である。

 難点は入浴料が1300円と極めて高価であること。ただしその代わりにタオルや館内着などが全部ついてくる。また館内には休憩所や日本海の見える食事処などが完備されているので、風呂に入ってまったりしながらまる一日をゆっくりするのが正しいあり方なのだろう。また入浴料が高い分、食事処の料金は安めである(私はアイスクリームを頂いた)。

 

 温泉でゆったりと疲れを抜いた後で、また車での長距離移動になる。次の目的地は安来の奥地にある加納美術館。ここは車でないと行けないところなので、今まで立ち寄ったことがなかったところだ。足立美術館を通り過ぎてさらに奥地に進むこと1時間弱、目的地は山間の静かな集落にある。

 


加納美術館

 地元出身の画家である加納莞蕾の作品及び、備前焼の作品などを中心に収蔵した美術館。また小野竹喬及び池田遙邨の作品も収蔵されている。

 備前焼は私の趣味の範囲外だが、黒茶碗の類の中になかなかのものがあったように思われる。絵画については遙邨は私には今一つだが、竹喬については良い作品もあったようである。加納莞蕾については特に印象に残らず。


 加納美術館から少し戻ってくると、かつて尼子氏の本拠であった月山富田城がある。実はここは明日に立ち寄る予定であるので、その前に現地の下見をしておく。ふもとには道の駅があり、車はそこに停めておくことができそう。また登城口はその駐車場のすぐ脇にあるようである。登城口の脇には城の立体模型があり、地形が把握できるようになっている。これを見ながら明日の攻略計画を大ざっぱに立てる。

 手早く下見を終えるとそのまま松江まで走行。次の目的地は島根県立美術館。いよいよ本遠征の主目的となる。なおもう既に夕方であるが、島根県立美術館の閉館時間は日没の30分後なので、今なら7時40分ぐらいまで開館している。これは実にありがたい。

 美術館に到着するが、美術館前の駐車場は満車で入られない。仕方ないので反対側の駐車場に車を停めて地下道を通って美術館へと到着する。


「フランス絵画の19世紀」島根県立美術館で5/31まで

 

 19世紀と言えばフランスでは印象派などの新しい絵画の潮流が現れた時期で、これ以降この流れが西洋絵画の主流となっていったというように大抵の日本人は思っているが、その実はこの時期のフランス画壇の中心潮流は、あくまでサロンを中心とした新古典主義などのアカデミズム絵画の方であった。本展ではそのようなアカデミズムを代表する絵画を紹介すると共に、当時の前衛であった印象派などの絵画を対比させている。

 アカデミズム絵画は題材が宗教画や歴史画などに限られるので、やはり画面的に面白みに欠けるものが多いのであるが、技法については決してレベルが低いわけではなく、むしろ前衛に走っている印象派の作品などが、当時は「未完成な絵画」と思われた理由は非常によく分かる。日本では印象派絵画が一般に人気があるが、実際にはアカデミズム絵画の方がむしろ「見やすい絵画」であると感じられる。

 圧巻は「ヴィーナスのサロン」とも呼ばれた時の作品を並べて当時のサロンの雰囲気を再現しているコーナー。理想美の象徴として描かれたヴィーナスは、いかにもわざとらしいのだが、絵画としては美しい。


 美術館を出た時には雨がぱらついていた。今日の予定はこれで終了なのでホテルを目指すことにする。今回予約したホテルはグリーンリッチホテル松江駅前。大浴場付きで朝食付きということで選んだホテルだったが、結果としてはこれが大失敗だった。まず契約駐車場の入り口がわかりにくくて、何度もグルグルと回る羽目になり、ようやく入り口にたどり着くと、今度は満車で入れない。駐車場が一向に空く気配がないので、たまりかねてホテルに電話すると「空くまで待ってくれ」と放置。未だかつてこんな対応のホテルは経験したことがない。

 下手するとこのまま車の中で一泊か?と思わせられながら、延々待ったあげくにようやくホテルにチェックインしたが、この時点で不愉快極まりない。イライラするだけなので、とにかく夕食をとるために外出することにする。

 夕食をどうしようか迷ったが、頭がカッカしているせいか、普段はあまり食べないカレーが急に食べたくなって、駅前のカレー屋でビーフカレーを注文。しかしこれがまたはずれ。待ち時間だけやけに長かったのに、出てきたカレーはコクもうまみもまるでない。しかも辛口を頼んだのだが、これが「甘口カレーに唐辛子だけを加えたら辛口カレーになる」というパターンの安直なもの。これは大失敗であった。

 ホテルの選択に失敗したあげくに、夕食も失敗ではストレスが溜まるだけである。とてもこのまま部屋に帰る気がしなかったので、口直しに別の店に行くことにする。見つけたのは「北前そば高田屋」

 注文したのは「鴨なんばそば」。しばらく待った後にそばが出てくる。そばの腰はあるし、量も豊富、また合鴨ロースの味もまずまずということで、とにかくは満足できるものであった。ただこの地域だとそばと言えば出雲そばだろうと思っていたのだが、明らかにここのそばはそれとは違う。出石そばでも信州そばでもないし、独特である。

 腹がふくれてようやく気分が落ち着いたので、追加として馬刺を注文。馬刺を食べるのは初めてだが、以前に食べた鯨の刺身よりはあっさりしている印象。もっと臭みがあるかと思っていたが、なかなかいける。

 満腹になったところでホテルに帰還。この日は疲れも溜まっていたので、そのまま就寝したのであった。

 

 

 翌日は7時に起床。空調の具合が良くなかったのか、やけに寝苦しかったのでまだ体に疲れが残っている。今朝はややゆっくりめの予定を組んでいるので、朝食をとるとそのまま9時頃までまったりしてからチェックアウトする。結局このホテルでは駐車場の件から始まって、その後も細かい不愉快なことが多々あった。多分、もう二度とここに宿泊することはないだろう。

 車を飛ばすと「月山富田城」まで移動。月山富田城は戦国時代に山陰に勢力を張った尼子氏の本拠だった山城である。月山に本丸を置いた難攻不落の要塞は幾度も敵の攻撃を退けてきたが、ついには毛利氏の包囲攻撃の前に落城、尼子氏は滅亡することになったのである。その後は毛利領となったものの、江戸時代には堀尾氏がこの地を治めることとなり、彼が松江城に本拠を移したことで廃城となったという。現在では建造物は残っていないが、多くの曲輪の跡や石垣などが現存しており、100名城にもあげられている。また本城に能登の七尾城、近江の観音寺城、越後の春日山城、武蔵の八王子城を加えて五代山岳城という呼び名もあるとか。

 道の駅付近にある富田城の模型

 とりあえず麓の道の駅に車を停めて、観光案内所で城の地図を入手してルートを確認。昨日確認した登り口から、手前の曲輪から順に回ることができるようだ。運動前の燃料補給としてそばを腹にたたき込むと、いよいよ山城にアタックである。

 

左 見学路のあちこちでやたらに目につく警告 右 千畳平

 登り口の車道からそれると、一番手前の千畳平を目指して石段を登る。あいにく雨がぱらつく悪天候だが、まだ傘が必要なほどではない。あちこちに「城跡の散策はマムシとハチに注意して下さい」の貼り紙があるのが気になるが、千畳平には茶店などもあり(閉まっていたが)、公園開発がされているようである。そこから続いて太鼓櫓に登るとそこには手を合わせる山中鹿之助の像が立っている。尼子家再興のために奔走した彼は、「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったと言われているが、その時の姿なのであろう。

 山中鹿之助像 「世界を革命する力を」・・・じゃなくて、「我に七難八苦を与えたまえ」

 太鼓櫓からは奥書院が連なっているが、ここには慰霊碑が建てられている。さらにここから奥の花の壇を目指そうとしたところ辺りから、登り口からあちこちに張ってあった貼り紙の意味が痛感されるようになってくる。ここまでの整備された道から、突然に怪しげな山道へと状況が一変するのである。藪をかき分け到着した花の壇は復元された侍所が建っているが、特に何があるわけではない。しかもこの建物、一体何に使われているのかは知らないが、中を見るとステンレスの流し台が見えるという代物(戦国時代にステンレス製の流し台が存在しないであろう事は説明するまでもなかろう)。

 

左 奥書院 右 花の壇の侍所、なぜか中にはステンレスの流し台が見えた

 ここからがさらに険しい藪の中になる。確かにマムシが出てきても不思議でないような状況。幸いにしてマムシにもハチにも出くわさなかったが、クモには出くわした。そして藪をかき分けて前に進むと突然に視界が開ける。ここが山中御殿だという。山中御殿は月山麓の拠点であり、大手門の跡なども残っている。ここは広さが3000平方メートルあまりあり、この城の心臓部にあたるという。建物は何もないが、石垣などが残っていて壮観である。

  

 ここから本丸へ向かうには七曲がりと呼ばれる石段を登っていくことになる。これがまさに本格的なハイキング。しかも雨がぱらついているせいで足下が悪く、油断をすると転倒しそう。それになんと言っても登りが急。七曲がりとはよく言ったもので、つづら折りの石段が延々と続いていて先が見えない。普段の運動不足と体重の増加が祟って息は切れるし、足は上がらなくなるしと散々たる有様。それでもようやく「三の丸」とところまで出る。ただ見上げるとそこからまた石垣の上の階段。しかしこの時点では足がガクガクでそこを登る気になれなかったので、横の小路をぐるりと回る。

  

延々と続く七曲がりを登り切ると三の丸の石段が見えてくる

 こちらのルートは結局は本丸へのショートカットコースだった模様。どうやら元々は本丸と二の丸を仕切る空堀の跡だったようである。三の丸と二の丸は続いているが、本丸との間はかなり深い空堀で分けられている。多分往時にはここに橋が架けられていて、正真正銘の最終防衛ラインだったのだろう。もっともここまで敵に攻め上がられるような事態となれば、もう落城は目前であり、せいぜいが城主が切腹する時間を稼ぐぐらいの役にしか立たない気がするが。

 

左 二の丸 右 本丸から望む二の丸、間に深い空堀がある

 本丸はやや広いスペースで神社が建っておりオオクニヌシが祀られていた。しかし社殿は完全に閉じられているので、外から一回りする。本丸はちょうど月山の山頂にあたるのであるが、回りに木が多いせいで見晴らしはあまり良くない。この後、二の丸の方にも回ったのだが、こちらの方が展望台のようになっていて見晴らしは良い。この日はあいにくの天候であるので視界はあまり良くなかったが、晴れた日には遠く中海まで見晴らせるという。ここから見下ろすといかにもここは堅城であるということは感じられるが、逆にここに閉じこもるような事態は雪隠詰めであり、援軍のない状態での籠城には限界があることも同時に感じられた。

   

左 本丸風景 中央 本丸奥の神社 右 見下ろす風景、残念ながら雨天で見晴らしは悪い

 それにしても堂々たる城である。さすがに100名城にあげられるだけのことはある。十二分に城址を堪能して下山。麓についた頃には雨が激しくなり始めていた。ラッキーにもギリギリまで天候はどうにかこうにかもったのである。

 

 すっかり汗をかいたし疲れた。こういう時には温泉に限る。と言うわけで、ここの近くにある「広瀬温泉憩いの家」に立ち寄ることにした。

 こじんまりとした日帰り施設で、地元の共同湯という趣。入浴料は300円と格安である。施設は小さな内風呂があるだけだが、そこにやや緑がかったお湯が満々と注がれている。成分表を見ると含放射能のナトリウム・カルシウム−硫酸塩・塩化物泉とのこと。また「天然かけ流し温泉」との表記もある。お湯は肌当たりの良い柔らかいお湯で、なめるとややしょっぱい(当然であるが)。そして何よりも無粋な塩素消毒の臭いがしないことが一番良い。湯の鮮度も良いし、これは温泉マニアが泣いて喜びそうなところなのだが、知名度が低いのか入浴客は皆無。私が上がる頃に地元民と思われる老人が1人来ただけである。月山富田城を見学した後にここに立ち寄るというのはお勧めコースである。 

 ややぬるめの温泉でじっくりと身体の疲れを癒すと、風呂上がりにコーヒー牛乳を一杯。少し休憩をとってから次の目的地に向かう。

 次の目的地はここまで来たなら行きがけの駄賃というところで足立美術館である。現在、駐車場が工事中らしく大回りしてから駐車場に入るようになっている。車を停めると入館の前にいつものように「吾妻そば」「とろろ付き割こそば(1000円)」を昼食代わりに食べる。

 足立美術館はこれで5度目ぐらいだろうか。もう収蔵品は大体分かっているので、鑑賞のメインは雨の庭園となる。この庭園、雨なら雨でこれまた風情がある。今日はもう富田城は回ったし、こなすべき予定は大体こなしたのでもうまったりモード(時間の限り走り回ることが多い私の遠征においては、極めて珍しい状態である)。庭園を眺めてまったり、喫茶に入って庭園を眺めながら抹茶アイスでまったりと、久しぶりにゆったりした時間を過ごす。そのうちに大観展示室で学芸員による解説があるというのでそれを聞きに行く。30分ほどで解説は終了。ここらで引き揚げることとする。

  雨の足立美術館

 喫茶で一服

 帰りは米子道で帰宅するだけだが、途中で一カ所だけ立ち寄り、また大山で途中下車して近くの美術館に立ち寄る。


伯耆の国山岳美術館

 

 山岳画家の足立源一郎、山里寿男などの作品を中心とした美術館。展示作のほとんどは山岳がらみの絵画で、後は地元の芸術家の作品。

 足立源一郎、山里寿男の絵画については、山の絵としてはそれなりなのだが、芸術的にはどうなんだろうか・・・。


 

 これで完全に全予定が終了である。後は米子道を突っ走って帰宅するだけなのだが、これが雨は激しくなってきているし、変な運転のドライバーがいるせいで断続的な渋滞には出くわすしで、行きに比べるとやや難儀な行程となった。そして夕方頃自宅に帰り着いた時には、長時間の雨中走行のためか車がやけにきれいに洗われていたのであった(笑)。

 

 去年辺りからかなり集中的に山陰方面への遠征を行ったが、これでもう押さえるべきところはほぼ押さえたかなという印象である。後は残っているのは萩方面。またそれに絡んで益田−長門市間の山陰本線も未調査路線として残っているし、SLやまぐち号にも一度乗ってみたいというのがある。この辺りは今年中に何とかしておきたいところだ。また心残りとしては、悪天候のために秋吉台のカルスト台地が見られなかったことと、鳥取城の天守台まで上がっていないこと。この辺りはおいおいいずれリターンマッチとなるだろう。我ながらまだまだ業が深いな・・・。

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