展覧会遠征 東海・東京編

 

 さていよいよGWのシーズンとなってきたが、毎年この時期の定例イベントと言えば東京訪問である。現在は麻生内閣の先のことなど一切考えない選挙向け人気取り政策で、高速道路料金が1000円になっているので、ここは車で長距離遠征と言いたいところである。しかし既にGWの高速道路は殺人的渋滞になることが予想されており、そもそも東京に車で行くことにはメリットどころかデメリットが多いし(東京で車の置き場を確保するのは大変である)、ここはあえて鉄道を利用することにする。

 鉄道となると青春18シーズンではないこの時期は、あえて在来線でエッチラオッチラと行くメリットもあまりなく(特急料金の節約にはなるが)、やはり新幹線を利用することになる。しかし単に新幹線で東京を往復するのはなにやらむなしさが漂う。ちなみに昨年度は「四国・中国方面強化年間」となっていたが、今年度は「北陸・東海方面強化年間」となっている(なんのこっちゃ?)。ここは例によって途中で寄り道をという気持ちがムラムラと沸き上がってきたのである。

 さて途中で寄り道となると東海地方であるが、前回に東京まで東海道本線でエッチラオッチラと移動した際、愛知・静岡地域は鉄道と観光地の宝庫であることを実感している。特に浜松周辺はJR東海道線の迂回ルートであった天竜浜名湖鉄道に、遠州鉄道といった路線が存在する上に、掛川城、浜松城といった城郭、さらにはいくつかの美術館も存在しており、やはりいつかは攻略しておく必要があると感じていた。そこでまずはこの浜松地域を攻略、さらには未調査路線である身延線を経由して、武田氏ゆかりの地である甲府の実地調査の後に中央線経由で東京入りするというルートが出来上がった。

 さて問題となるのは交通費である。今回は行きと帰りのルートが異なるので往復切符は使用不可である。かといって真正直に正規料金を払っていたのではかなりのコスト高となる。そこで各種の調査を重ねた結果、東京ゾーン切符を核とした周遊切符を作ることにした。これだと東京周辺エリアが4000円で5日間乗り放題で、なおかつ行きと帰りの料金が2割引となる。ただこの切符を使用する際にはいくつかの制約がある。まずは出発地と最終帰還地が同じであること(まあ当たり前である)、また行きと帰りのコースの設定は自由であるが、東京エリアを経由しない一筆書きになる必要がある。つまり同じ路線を行って帰ってというような設定は無理である。さらに距離の制約があり、行きと帰りのルートがそれぞれ200キロを超えている必要がある(まあこれは余裕である)。そしてこれがさらにややこしいのだが、一部でも新幹線を使用すると、全体の行程が600キロを超えていないと値引き率が5%と大幅に減少する(なぜだ?)という意味不明のルールがあるのである。

 コースの設定には以上の条件をクリアすることが必要となった。行きの中央線経由ルートの東京ゾーン入り口は高尾となり、帰りの東海道新幹線ルートの東京ゾーン出口は東京駅となる。行きは静岡まで新幹線で(実際には途中の掛川で一端降りて一泊することになるが)、そこから身延線を経由するルートで問題なし、帰りルートの600キロルールをクリアするには、出発地を西明石以西にすれば良いわけで、これは往復切符を買う際にも共通の手法である。これでなんとかルートの設定はできた。

 

 さて当日は掛川までは新幹線。名古屋までのぞみで移動して、名古屋からこだまになる。なお周遊切符は乗車券だけなので、これにエクスプレス予約での特急券を組み合わせることが可能であり、これはメリットである(エクスプレス予約が使えないと、少々の割引メリットは飛んでしまう)。当日は早朝の出発。名古屋までののぞみの混み具合は普通であったのだが、名古屋からのこだまの混み具合がひどい。これは早めにエクスプレス予約で指定席を押さえておいたことが正解だったようだ。

 掛川に到着。しかし駅前は「なんでこんな小さな駅が新幹線停車駅?」と疑問を感じるぐらい閑散とした雰囲気。とりあえずは荷物のトランクを宿泊予定のホテルで預かってもらうと、最初の目的地へと移動する。

 掛川駅は閑散としていました

 最初の目的地は掛川城。かの山内一豊も建造に関与したと言われている城である。天守は江戸時代に地震で倒壊して以来、天守台のみが残る状態であったものを、戦後に木造による再建が行われたことで知られている。最近になってトレンドになりつつある木造再建の走りのような城である。

 

掛川城は木造でありなかなか趣がある

 掛川城は比較的小さい城であり、天守もこじんまりした印象がある。しかし、やはり木造天守は良いなということをつくづく感じさせられる。やはりエレベータ付きの鉄筋コンクリート制天守などとは違う趣がある。

 こちらは文化財の太鼓櫓

 天守の見学を終えると、同じ敷地内にある美術館を訪問する。

 


「牧野宗則展」掛川市二の丸美術館で5/24まで

 木版画家・牧野宗則氏の展覧会。彼の作品は基本的には日本の伝統的浮世絵版画の流れを汲んでいるようであるが、その中に現代調の斬新なテクニックを取り入れることも行っている。精緻にして大胆な表現はなかなか興味深いところがある。特に彼がブロックス・アートと呼んでいるものは、版画と立体的な造形を組み合わせた独特なもの。

 とは言うものの、その斬新な取り組みが果たして芸術的興味を喚起するかは微妙なところ。私としては、むしろ彼の保守的に見える部分が現れている作品の方が面白かったりするのである・・・。


 美術館の訪問後は本丸御殿を見学、その後は掛川駅までとんぼ返りする。掛川城の見学が予想以上に順調に終わったので、当初に想定していたタイムスケジュールの最も早いパターンに沿った進行になっている。なかなか順調である。

  

本丸御殿とその内部 本丸御殿内には掛川城の模型も展示されていました

 

 掛川駅に戻ってくると、次は「21世紀の地域振興と交通について考える市民の会代表(自称)」のサークル活動である。この地域には掛川から新所原を結ぶ鉄道路線である天竜浜名湖鉄道が存在する。これを視察しておいてやろうという目論見である。このルートは本来は、東海道線が敵の攻撃で使用不能になった時の迂回路線として軍の要請に基づいて建造されたという(東海道線の沿岸が敵の攻撃を受けるような事態になれば、そもそもその時点で敗戦確実だと思うが、まあ当時の軍部はアホを絵に描いたような組織なので)二俣線が元祖となっている。その路線を第三セクターが引き継いだのが現在の天竜浜名湖鉄道であり、路線は単線の非電化路線である。当然ながら運行されているのはディーゼル車であるが、新潟トランシスの前身である新潟鉄工所製によるものだと言うことで、JR西のキハ120などを彷彿とさせる車両である。

 

天浜線掛川駅と車両

 とりあえず「天浜線1日フリー切符」を購入する。これでまずは天竜二俣まで移動。実は今日の予定ではフリー切符を買うよりも、その都度切符を買った方が20円ほど安いはずなのだが、面倒なのと地方鉄道への寄付のつもりでフリー切符を購入した次第。  天浜線1日フリー切符

 二両編成のディーゼル車が甲高いディーゼルサウンドを響かせて掛川駅を出発する。しばらく走行するとすぐに沿線風景がのどかな風景になってくる。水を張った田んぼが綺麗だし、静岡らしく茶畑なんかも見える。以前にインターネットで地元民と思われる者が「天浜線の沿線には見るべきものは何もなく、わざわざ乗る価値はない」と書いていたのを見たことがあるのだが、こういう風景の価値は見慣れている地元の者には分からないだろう。もっともさすがに私でも三回も乗れば飽きるとは思うが(笑)。

  天浜線車両と沿線風景

天竜二俣駅に到着

 やがて列車はこの路線の最大のターミナルである天竜二俣に到着、私はここで途中下車することにする。まずはここで途中下車した第一目的のための移動である。目的地までの距離感がつかめないことと、とりあえず移動を急いでいることから、最初は手っ取り早くタクシーを利用することにする。目的地とする秋野不矩美術館は山の麓の斜面の上にあった。美術館を作るよりも砦でも作ればかなり堅固な要塞になりそうな地形である。


「生誕110年記念 山本丘人展」秋野不矩美術館で6/7まで

 山本丘人は秋野不矩らと共に新しい日本画を模索する創造美術で活躍した画家だという。その作品を見る限り、多くの日本画家が辿った典型的なパターンを踏んでいる。初期はオーソドックスで形式的でもある日本画の伝統に従った作品を製作しているが、それに飽き足らなくなり、斬新な画風を求めての模索、その過程では抽象に近いところまで行ってくるのだが、やはり晩年になると原点に帰ってくるという展開である。そして彼の場合も、初期の絵画は特徴が薄くて今一つの面白みを感じないのであるが、数々の模索の後に晩年に帰ってきた境地を見ると、一つの形を確立しているのを感じるのである。

 

    館内は木をふんだんに使用している


 

 美術館の見学を終えた後は、散歩がてらに二俣城址まで歩く。この二俣城見学が第二目的である。ただスケジュールの状況によっては二俣城見学は省略することもあり得たのだが、ここで掛川で時間が節約できたことが大きく効いている。標準プランよりもスケジュールの早い最速プランに乗ってここまで来たおかげで、二俣城見学の時間を割くことができたのである。

 さてこの天竜二俣地域はそもそも天竜川と二俣川に挟まれた戦略の要衝であり、古来より武田と徳川による争奪戦が繰り広げられたという。城自体は江戸時代には廃城になっているが、現在は公園として整備されれている。建造物の類はいっさいないが、本丸跡に天守台が残存しており、見学可能である。そこでこの天守台まで歩いていってやろうという目論見。しかしこれが登山とまではいかないが、ちょっとしたハイキング。階段を少し上っただけで息切れがしてしまう体力のなさが恨めしい。とは言うものの、あの金刀比羅宮の石段に比べたらこんなものは序の口(つくづく金刀比羅宮攻略成功が自信につながっている)。あえぎあえぎながらようやく天守台にまで到着する。

 

 天守台は無骨な野面積みの石垣でできている。天守台の上に立っても周りに木が多いせいであまり周囲は見えないが、それでも木の間から天竜川が垣間見えており、ここがかつて二つの川を見下ろす要衝であったことが伺われる。確かにこの地を押さえることは、当時のこの地域の水運の要であった天竜川を制することになるので、天竜川上流域を根拠地にしている武田氏としては、絶対に押さえておく必要のある地である。こうやってこの地に立つことで、そのような歴史的背景が実感として改めて認識されるのである。それだけでもわざわざここまで来た価値はあった。

 二俣城の見学を終えた後はトボトボと駅まで帰還である。朝食を十分に摂っていない空きっ腹でハイキングなので、空腹が身に染みている。とりあえず駅内にある飲食施設で昼食にすることにする。

 昼食に注文したのは「菜飯とろろ定食」。菜飯を中心にとろろとみそ田楽を組み合わせたメニューである。田楽がなかなかうまいが、とろろ菜飯もいける。ただ一番意表を突かれたのはデザート。トマトが苦手な私は、完熟トマトのキウイソースかけのデザートは正直なところ「きついな」と感じたのだが、食べてみるとこれが予想外のうまさ。これには驚かされた。ただこの内容で 円というのははっきり言ってCPは良くない。しかもメニュー表の価格が1680円という明らかに「元々は税込み表示だった」はずの額にもかかわらず、ここにさらに消費税がかかってくるのは極めて悪印象(値上げがあったのか?)。

 昼食が終わると少し東の方までブラブラと歩く。天竜二俣駅には蒸気機関車時代の回転式転車台が残っていることで知られている。ただ現地は立ち入り禁止表示が出ているので遠くからの見学となる。どうやら勝手に敷地内に入って事故にあった馬鹿がいたのではないかと思われる。世の中にはとにかく視野の狭い輩がいるが、鉄道マニアの中にもなぜか線路の上で写真を撮ろうとして事故にあう馬鹿がいる。何も世の中の馬鹿は鉄道マニアの一部だけでなく、公序良俗に反したことを平気でする馬鹿が増えている(例えば禁煙場所でたばこを吸う馬鹿)。この手の馬鹿が存在すると、そのたびに何かと世の中の制約が多くなるのである。正直なところあえて暴論を承知で私の本音を言えば、馬鹿は馬鹿だけで地球の裏側にでも「馬鹿国」を作って、そこで互いに迷惑をかけあいながら勝手に暮らしてくれと言いたくなる。頼むからこっちまで巻き込まないでくれ。

 昔の転車台

 昼食を終えると天竜浜名湖鉄道の残り部分である。こちらは西半分に比べると沿線の民家は若干多い。途中で遠州鉄道と接続している西鹿島駅を過ぎてさらにしばらく走行すると左手に浜名湖がちらほらと見えるようになる。やがて新所原に到着。

  浜名湖と新所原駅

 天竜浜名湖鉄道について言えば、全線通じての乗車の意味はほとんどなく、単線非電化路線では既に東海道線の迂回ルートとしての意味もないが、地域の交通路としての需要はそれなりにあるようである。また観光ルートとしても積極的な売り込みを行っており、天竜二俣地区では川下りなども行われており、また秋野不矩美術館も観光地の一環に位置づけられているようである。観光資源としてはそれなりのものがあるのだから、よりいっそうの観光開発で他地域からの客を呼び込むことは重要であろう。

 新所原からは東海道線で浜松まで移動する。浜松駅周辺は掛川駅周辺と違ってかなり都会的な雰囲気。ここから浜松城までバスで移動なのだが、駅前のバスターミナルがわかりにくくて苦労する。ウロウロした挙げ句にようやく市役所前経由のバスのバス停を見つけてバスに乗り込む。

  浜松に到着

 市役所前のバス停で下車するとそこから徒歩で移動。浜松城は市街を見下ろす丘の上に建っている。そもそも浜松城は徳川家康とゆかりのある城である。かつて徳川家康が武田信玄と三方ケ原で合戦して大敗(家康は恐怖のあまり馬上でクソをちびりながら逃げたと言われている)した際の家康の居城であった城であり、ここも長浜城と同様に「出世城」を名乗っている。実際、江戸時代に入ってこの城の城主となったものはいずれも出世をしており、まさに御利益抜群なのだそうだ。しかし実のところは、東海道の要所を押さえるこの城の城主には譜代家臣などの重要人物が就任しており、この城の城主になったから出世したのではなく、出世するような人物がここの城主に任命されていたというのが実態だろう。

 浜松城天守

 城自体は明治時代に廃城になっており、現在の天守は戦後の鉄筋コンクリートによるお手軽復元天守である。ただ当時の野面積みの石垣が現存しており、それがこの城の往年の姿を偲ばせる。城自体の規模はそう大きくはないが、周辺部は自然公園として整備されており散策に適した地域になっている。もっとも天守閣自体はそもそもがそう標高が高いところにあるわけでない上に、前面を市役所の建物などの高層ビルに塞がれる形になっていて、眺望は今一つの上に近づかないと街中からも見えないようになってしまっている。

  浜松城縄張り模型  浜松城と言えばこの人、徳川家康 

 天守の見学を終えると次はここの近くにある美術館を訪問する。そもそもこの美術館がある場所は浜松城の城内だった場所である。

 


「石田徹也展」浜松市美術館で5/17終了

 

 人間を飛行機にした「とべなくなった人」などの一連のインパクトのある作品で有名な石田徹也の展覧会である。

 事故とも自殺とも分からない謎を最後を遂げて、駆け抜けるかのような31年の人生の中で独特の作品を量産した彼であるが、いずれも物を擬人化(それも自画像のようである)した作品ばかりで、そこには風刺とも嘆きとも取れる独特の感性が流れている。

 すべての作品が象徴的で、無意味なように見えてどうにも意味ありげ。作品を順番に見ているうちに、がんじがらめの現代社会に取り込まれている自分自身の不自由な姿が痛切に実感されるようになってきてしまうのである。これでは創作中に作者がだんだんと心理的に追い込まれていったのではないかというのも分からないではないような気がする。

 


 

 美術館の見学を終えたところでもう夕方である。しかし日が沈む前にもう一つやり残していることがある。それは遠州鉄道の視察である。直ちにバスで浜松駅前に戻ると、そこから遠州鉄道の新浜松駅まで徒歩で移動。新浜松駅は浜松の駅前の繁華街のど真ん中に高架駅の形で存在している。遠州鉄道はここから天浜線との接続駅ともなっている西鹿島までの単線電化路線である。車両は2両編成の小型のものであるが、12分おきのかなり高頻度のバターンダイヤで運行されており、乗車率も非常に高い。また私が乗車した時点では八幡駅までが高架駅となっていたが、そのさらに先も現在高架化の工事中のようであり、おかげで都市部では新交通システムのような趣もある。地方鉄道路線の割には極めて好調な印象を受けたが、こうなるには路線の変更及び高速化などの投資があってこそだという。やはり鉄道路線は時代に応じた適切な投資が不可欠であると言うことを思わずにはいられない(特に最近、姫新線の変貌ぶりの目の当たりにしたこともあるし)。

   新浜松駅

 沿線はさぎの宮辺りで、それまでの都心部の雰囲気が郊外めいた雰囲気に変化する。そして30分強で終点の西鹿島に到着する。西鹿島で天浜線に乗り換えることも可能だが、天浜線が遠州鉄道に比して本数が極端に少ないことがネックとなっている。天浜線の今後を考えると、路線の高速化と遠州鉄道との接続をある程度考えた運転の多頻度化も必要なのではないかと思わされる(交換可能駅をもう少し増やせば可能になるはずだ)。浜松には潜在的な観光ポテンシャルはあるので、それと天竜地区とを結びつける方策を考えるのが第一であろう。

  車内風景と西鹿島駅

 終点の西鹿島は特に何があるというところでもないので、回りを一回りするとすぐに折り返しの列車で浜松まで帰ってくる。とりあえずここで夕食である。

 

 今回夕食を摂ることにしたのは、浜松駅前の飲食店街の中にある「あつみ」といううなぎ料理屋。やはり浜松に来たのならうなぎだろうと考えていたが、さすがにうなぎ屋はあちこちにある。その中で人気店だ聞いたので訪ねた次第。注文したのは「うな重(2750円)」。ちなみにうなぎの量に応じてさらに価格が何段階かある模様で、私が注文したのは最も安いうな重になる。

 

 人気店らしく私が入店してからも客は続々とやってくる。訪れたのがかなり早い時間(6時前)であったのが幸いして、私は問題なく入店できたが、7時近くにやって来た客などはかなり待たされることになったようだ。また場合によっては途中でうなぎが品切れになるなんてこともあるとか。

  食欲をそそられる

 しばらく待たされた後にうなぎとご対面である。既に空腹が身に染みているので、うなぎの香ばしい匂いに食欲が刺激されている。またこの店は完全禁煙なので、臭いタバコにこの匂いが邪魔されることがないことが極めて重要である。なお味付けに関しては、関西人である私の好みからすればやや辛めであるような気もするが、これはあくまで個人的嗜好の問題である。むしろ東京人などなら薄目に感じるかも。

 ふっくらとしながらもサクッとしているうなぎの焼き上がりが抜群。確かにここが人気店であるという理由が頷ける。またご飯のお代わりは自由であるので、ボリュームが不足すると感じる場合はご飯を追加すればよい(私は追加した)。そう考えるとCPも結構良いということで、この辺りも人気店になる理由の一つでありそうである。また人気店の場合は往々にしてそれにあぐらをかいてサービスが横柄になりがちなのだが、この店に関してはそういうことがなく、接客態度も非常に気持ちの良いものである。これもポイントが高い。

 うな重を堪能したところで一息。ただこうなるとかば焼きだけでなく、以前に岡崎で食べたことのある白焼きも食べたくなってきた。そこで「白焼き(1650円)」を追加注文する。

  絶品の白焼き

 さらにしばらく待った後に出てきた白焼きは見るからにうまそうである。これをショウガ醤油でさっぱり頂く。これが絶品。あまりにうますぎるものを口にすると思わず笑いが出てしまうと言うが、今の私の状態がまさにこれ。濃厚な脂の風味がショウガ醤油でさっぱりとなり、いくらでも食べられそうという感じである。まさにうなぎと焼きが命というこの料理がこれだけうまいということは、やはりここのうなぎは間違いがなさそうである。

 久しぶりにうなぎを堪能して満足すると、そのまま浜松駅から掛川までJRで移動。荷物を預けていたホテルにチェックインする。私が予約していたホテルは掛川ターミナルホテル。掛川駅のまさに真ん前のビジネスホテルである。安価な宿泊料にもかかわらず、大浴場付き朝食付きというのが決め手になった。また実際に宿泊してみると、無料のマッサージチェアが置いてあったり、夜食のパンがもらえたりなど細かなサービスが気が利いており、なかなかにお得なホテルであった。 

 

 

 翌朝はホテルで朝食を摂ると、7時30分頃にチェックアウト。掛川駅から静岡までこだまで移動する。静岡からは特急ワイドビューふじかわで身延線経由で甲府まで移動する予定。身延線は富士から甲府まで富士川に沿って走る山岳ルートだが、全線が電化されている。複線区間は富士宮までの区間でほとんどが単線区間。

 静岡駅で待つことしばし、ふじかわの車両がホームに入ってくる。特急ふじかわは373系電車の3両編成。私は一応指定席を取っていたのだが、自由席がガラガラな状態で指定料金を損しただけ。それどころか、指定席車両もガラガラであるにもかかわらず、なぜか全乗客が車両前方の1/3ほどに押し込まれており、私の隣の席にも見知らぬ年配女性がやってきて窮屈極まりない。これなら自由席にしといた方が楽である。自由席よりも窮屈な指定席って? 一体何を考えてこんな座席の売り方をしているのかJR東海の考えていることが全く意味不明である。以前にJR四国エリアをバースディー切符で回った時など、こんな不愉快な座席の詰め込み方をされたことなどない。ネットではJR東海の顧客対応は最悪だという声もあるが、こんなことをするのならそれもさりなんと実感。ちなみに甲府行きワイドビューふじかわの指定席車両は先頭車両であるが、ワイドビューの意味はフロントビューでなくサイドビューの意味であり、フロントビューは全くなきに等しい車両なので、その意味でも指定席車両に乗る意味は全くなかったのである。

 

 ワイドビューふじかわ車内

 フロントビューは無きに等しい

 結局、富士宮をすぎても乗客は乗ってくる様子は全くなく、指定席車両の2/3はガラガラの状態であるので、私はさっさと適当な座席に移ることにする。その後も指定席には乗客が乗ってくるどころか、むしろだんだんと乗客は減っていき、最終的には乗客は私1人になってしまうのである。

 JR東海のやり口には腹が立ったが、沿線自体は南部は富士山がすぐそこに見え、中部は富士川の渓流が見えるなど風景に見るべき点は多い。ただ特急にもかかわらず、走行速度があまり速くないので所要時間がかなりかかり、最後に甲府盆地に入る頃には完全に疲れ切った状態になってしまった。沿線に温泉地など観光地はそれなりにあるのだが、全ルートを通して乗車するニーズは今一つない模様。

  

沿線風景は富士山から山あり川ありで風光明媚

 列車はようやく甲府に到着。回りを見回すと高山に囲まれており、ここが盆地であるということを再認識する。ただ私がイメージしていたよりは甲府盆地は遙かに広く、武田氏がここを拠点にして全国戦略を画策したのも頷ける。実際に現地に来るまでは私は、なぜ武田氏は甲府盆地なんかに逼塞していたのかと思っていたのだが、実際に現地を見るとこれだけの土地なら全国制覇を狙う拠点には十分だと言うことが納得できた。やはり百聞は一見にしかずである。

 甲府駅で下車した後はスケジュールに従っての行動になる。改札を出るとJR東日本ツアーズが、美術館の入場券やバスのチケット、さらに昼食券まで一緒になったセット券を販売している。昼食券を確認すると、ちょうど私が昼食を摂るつもりだった店の食券であったので、これは好都合とチケットを購入することにする。

 甲府駅のロッカーにトランクを放り込むと、駅前からはバスでまずは山梨県立美術館へと移動する。山梨県立美術館は日本有数のミレーコレクションを所有しており、最近になってミレー館を増設したとのことである。以前から是非とも訪問したいと思っており、今回初めて念願叶ったという次第である。

 ただその前に、腹が減っては何とやら。まずは美術館前の「ほうとう小作」「かぼちゃほうとう(1100円)」を食べることにする。やはり甲府まで来たからには何か名物を食べたいと考えての調査の結果選定した店である。

  

 たっぷり20分ほど待った後、熱々のほうとうが運ばれてくる。名古屋のきしめんなどよりもさらに太い麺が、たっぷりの野菜と共に煮込まれている。一口ほおばる。「うまい」という声が自然に出る。麺と言うよりももっともっちりとしていて、餅に近いような食感がある。実は私はかぼちゃほうとうを注文してから具に肉類がないことに気づき、これは豚肉入りにしておいた方が良かったかと後悔したのだが、実際に食べてみるとそんな後悔は完全に吹っ飛んでしまった。肉類が含まれていないにもかかわらず、物足りなさを一切感じさせない豊かな味があるのである。またかぼちゃのほのかな甘味が絶妙。素朴でありながら、意外に上品な味もしており、名古屋の味噌煮込みうどんなどとは次元の違う食べ物である。

 

 ほうとうを堪能して、腹具合がしっかりと落ち着いたところでいよいよ美術館の見学に入る。

 


「ベルギー王立美術館コレクション ベルギー近代絵画のあゆみ 」山梨県立美術館で7/5まで

 

 ベルギー王立美術館のコレクションから近代絵画のコレクションを展示した展覧会。フランスで印象派などの新しい芸術が吹き荒れた頃、その影響はやはりベルギーにも及んでおり、その時代のベルギーの絵画を見ることができる。

 最初に大きな影響を与えているのはバルビゾン派で、その屋外を扱った作品はベルギーの画家達にも同様の作品を多々描かせているようである。ただ印象派以降では次第に先鋭化していくフランスに対して、ベルギーの画家達はやや距離を置いた対峙をしており、フランスの作品と比べて若干表現に違いがあることは分かる。 

 フランスの画壇の流れを心得た上で、それと対比する形で見ていくと面白い展覧会。ただそれだけにやや上級者向けのような印象である。実際、展示作品もいわゆる日本人がよく知っているビッグネームはほとんどなかったようであるし。


 

 ミレー館の方では、落ち穂拾いや種を蒔く人などの秀作が多数展示されていたが、これ以外にもバルビゾン派の秀作が複数展示されており、非常に見応えのある展示となっていた。ミレーの作品の中では特に印象に残ったのが、法王庁の依頼で製作されたが、結局は引き取りを拒否されたという「無原罪の聖母」。聖母マリアを神々しくではなく素朴に描いているのが非常に好感を持てる絵画(しかしそれ故に引き取りを拒否されたのだが)。いかにもミレーらしい作品だなと頷いた。

 美術館の見学を終えたところで非常に疲労が溜まってきているのを感じた。どうも昨日辺りから大分暑くなってきていることも影響しているようだ。とりあえず次の移動の前に向かいの文学館内の喫茶で休憩をとることにする。まずは抹茶パフェ(850円)を注文。場所が場所だけに全く期待していなかったにもかかわらず、かなりまともなパフェが出てきたのに感心。またさすがに甲府は水が良いのか、やけに水がうまい。そのうちに目の前に案内が出ていた「冷やし甘酒」というのが気になってきたので、追加注文(370円)。

  抹茶パフェと冷やし甘酒

 これがさっぱりしていて非常に旨い。甘酒の冷えたのなんて・・・と思っていたのだが、こうして飲んでみると実に夏に適した飲料。ただどんな甘酒でもこんな風に旨いというわけではなかろう。ここのは「砂糖などの添加物不添加」と書いてあったが、そういえば智頭で飲んだあの旨い甘酒も同じ事を書いていた。やっぱり砂糖を加えないといけないような甘酒など、最初からものが悪いということなのだろう。

 十分なカロリーを補給してエネルギー充填完了。バスで次の目的地へと移動することにする。まずは甲府駅に戻ると、そこから徒歩で甲府城(舞鶴城)へ向かう。甲府城は武田氏滅亡後にこの地を押さえた徳川氏によって築城が開始されたが、その後に秀吉による家康の関東転封があったことから、その後にここを治めた浅野長政によって完成されたという。明治の廃城後に建物は完全にの撤去されたが、最近になって史跡公園として再整備され、門や櫓などの一部の建物が復元されている。なお天守については既に江戸時代にはなかったとのことで、一説によると浅野氏によって建造されたものの、関ヶ原合戦で東軍についた浅野氏が家康に対する恭順の意を示すために解体したとされている。なお城内にいかにも場違いな石塔が建てられているが、これは明治時代に甲府が水害で大被害を受けた際の、明治天皇からの再建支援に感謝するべく後になってから立てられた謝恩碑だとのこと。ただエジプトのオベリスクをモデルにしたという石碑は、城郭の風景とはあまりに場違いであり(私などは、どこかたちの悪い宗教団体に城郭の一部が乗っ取られたのかと思った)、どこか明治天皇ゆかりの別の地に移動頂くという声も水面下ではないわけではないとか。

  

北側から望む本丸と復元された稲荷櫓

  

復元模型に天守台に内松陰門

 甲府盆地の中の小山に築かれた城なので、天守台に上るとかなりの高度。遠くは富士山まで見えて、甲府市街全域を見下ろせる壮観だが、あまりに高度がありすぎて高所恐怖症の私の場合は恐怖を誘われるぐらい。下との高度差では30メートルぐらいはあるとか。ただ城の中心部はかなり残っているが、周辺部分は宅地開発などが進んでしまい、かつて鍛冶曲輪の跡は今の県庁になっており(鍛冶曲輪門だけは復元されている)、そもそもの大手門があった場所は今では大通りの交差点になっており、今のかつての大手門とは別の場所に堀をまたいで橋が架けられている。

  

南西側にある鍛冶曲輪門 南の正面入口は後になってつけたもの

 かなり本格的に再整備されており予想以上に堪能できたので、当初に想定していたタイムスケジュールを越えてここに滞在してしまった。急ぎ足で甲府駅の北側まで移動すると、バスで次の目的地に向かう。やはり武田氏ゆかりの甲府に来たからには、躑躅ヶ崎館跡こと武田神社を訪問しないわけにはいかない。

 武田神社はかつての武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館跡に置かれている神社であるが、躑躅ヶ崎館の大手門が東側にあったのに対し、今は南側に門が置かれている。また当時の館の規模は、今の神社よりもさらに南方に広かったようである。なお東側のかつての大手門周辺では当時の遺構の発掘が進んでいる模様である。

  

 館とは言うものの、深い堀と堅固な石垣に囲まれており、いわゆる城としての体裁をとっていないだけで、実際には城郭としての機能があったことは明白である。武田氏は「人は石垣、人は城」と考えていたのであえて城を造らなかったなんていうとんでもない解説もたまに見かけるが、実際は武田氏も城は建造しているし、この館の背後にも要害山という正真正銘の山城があり、いざとなればそこと連携して守備の体制を取れるようになっているのである。館という名称に惑わされるが、ここは中世基準では明らかに城であったと思われる。

 

本来の大手門は東側、そしてその正面には防御用の石塁が発掘されている

 ブラブラと武田神社の北側まで雑木林の中を歩いたが、空堀の深さには驚かされた。足を滑らせてこんなところに落ちたらひとたまりもない。武田神社を抜けると何もない草原に出たので、外堀沿いに半周して正門付近まで帰還、再びバスで甲府駅まで帰還する。

  

北側は鬱蒼とした中に非常に深い空堀、ぐるりと外回りの水堀に沿って巡回

 甲府駅でトランクを回収するといよいよ東京入りである。当初の予定では普通列車でチマチマと移動するつもりだったが、当初の予定よりも遅れたスケジュールになったことと、甲府市内城郭巡りで予想以上に体力を消耗したことから、特急あずさの自由席で一気に東京に移動することにする。

  

 特急あずさといえば、あの「8時ちょうどのあずさ2号で」で有名な中央線の特急である。運行はE257系電車で行われている。自由席は結構混雑していたが、それでも幸いに難なく座席を確保することができた。

 後はボーっと車窓を眺めるだけである。やはり普通車と違って特急車両は座席が快適である。中央線沿線は東海道線沿線と違い、やはり山間の風景が続くことになる。次の停車駅は八王子なのだが、そこまでは延々と山村風景が続く。地形に変化があるので、同じ田舎の風景でも東海道線よりはこちらの方が面白い。

 列車はやがて東京ゾーン境界駅の高尾を通過して八王子に到着する。ここからはいかにも東京市街域という感じで、住宅地の中を突っ走ることになる。この風景の変化の極端さには驚かされるばかり。

 

 やがて摩天楼が見えてくると新宿に到着である。そこで中央線快速に乗り換えて一気に東京まで移動すると、山手線、常磐線を経由して南千住へと到着する。東京でのホテルは例によって「ホテルNEO東京」。今回は3泊以上するので1泊当たり3300円である。風呂・トイレ共同の安ホテルであるが、とにかく宿泊料が安いのが助かる。どうも安ホテル行脚が板についてきた今日この頃。

  南千住近くの案内板より ここまで明からさまに言われてしまうと・・・。

 この日はホテルにチェックインすると、近くの中華料理屋で夕食を摂り(味はまあ普通だったのだが、客がことごとくニコチン中毒患者ばかりだったのにはまいった)、この日は早めに床についたのであった。

 

 

 翌朝は6時前に行動開始。今日は上野地域の美術館を攻略する予定であるが、それだけでは面白くないので、上野にまっすぐに行かずに寄り道をするつもりである。今回購入した周遊切符は東京ゾーン切符を含んでいるが、この切符は東京周辺のJRが特急列車自由席も含めて乗り放題という性質を持っている。これをフルに生かさない手はないという例によっての貧乏人発想である。

 まずは南千住から常磐線に乗ると、快速列車で上野とは反対方向の取手を目指す。常磐線沿線は江戸川を越える辺りまでは、某漫画で有名な亀有など下町の風景が続く。江戸川を越えた先も宅地開発がかなり進んでおり、そこからは延々とベッドタウンの街並みが続く。やがて我孫子に到着したところで乗り換えを行う。実際のところ、常磐線は以前に茨城方面に遠征した時に水戸まで乗車しているので今更改めて視察するまでもない。むしろ本命はここからである。

 

 我孫子からは成田線に乗り換え。成田線は本来は総武本線途中の佐倉から銚子までを結ぶ路線であるが、成田から我孫子支線と呼ばれる支線と、成田空港へと向かう空港支線の2つが出ている。まずはこの我孫子支線で成田に移動である。成田線に突入した途端に車窓の風景は田園風景に一変する。延々と田園風景が続く中、急に辺りが都市めいてくると成田に到着である。

 さて成田からだが、ここからは特急あやめで東京に帰ることにする。今回は何も千葉に来ることが目的だったわけではなく、本来の目的地は上野である。実のところ、千葉に来るのは最終日で、その時に佐倉に立ち寄る予定であるので、佐倉がどのようなところかを事前に見ておこうというのも目的だったりする。

 特急あやめは全席自由席の5両編成。何かどこかで見たことがある車両だと思ったら、昨日乗車したあずさで使われていたE257系だった。

 

 車窓は成田からはまた田園風景。突然に街が見えたと思えばそこが佐倉で、佐倉を過ぎるとまた田園風景になり、次に都会になった時には千葉という状況であった。どうやら佐倉は全くの田舎というわけではないということは分かった。

 

千葉駅までの田園風景が千葉駅に入るとこう変わる

 列車はそのまま総武線を走行。総武線沿線は東京の市街地で風景的には見るものはなし。やがて錦糸町を過ぎたところで地下に入るとと東京駅に到着である。ここからは山手線で上野に移動する。

 


「ルーヴル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画」国立西洋美術館で6/14まで

 

 17世紀ヨーロッパ絵画というタイトル自体が今一つテーマ不在を思わせるが、実際に鑑賞してみると、事前に予想していた以上にテーマ不在であると思わせる展覧会。

 それでも単品の作品には見所は多々ある。レンブラントの鎖の質感、ムリーリョの柔らかさ暖かさ、フェルメールの光の表現、ルーベンスのさすがの描写力。いずれも唸らされる次元のものである。

 しかしながら展覧会全体を通しての印象がどうしても希薄。終わってみると、時代柄「宗教画が多かったな」というのが唯一の感想だったりするのが現実。

 


「日本の美術館名品展」東京都美術館で7/5まで

 

 全国の公立美術館100館が集まって、そのコレクションの中の名品を東京都美術館で展示しようという恐るべき中央集権企画である。東京にいながらにして全国の美術館の名品を見ることができる東京人にはすばらしい企画だが、その間の地方美術館はスッカラカンになる(というわけでもないが)という仕掛け。

 展示内容は洋画から日本画、さらには彫刻作品まで種々様々。その美術館の看板クラスの作品が揃っており、愛知のピカソや京都の日本画など、私も眼にしたことのある作品が多々ある。またなぜか山梨県立美術館で展示していなかったミレーの「ポーリーヌ・V・オノの肖像」にはこちらで出会うことができた。なかなか楽しめる展覧会である。 

 なお先ほどは「各美術館の看板作品」と言ったが、実のところを言うと、本当の看板作品を出してしまうと各美術館の集客が困るので、実際に出展されているのは各美術館のメイン看板ではなくてサブ看板ぐらいの作品のように思われる。例えば愛知のクリムトや、三重のシャガールなどは来ていない。とは言うものの、日本の公立美術館のレベルの高さを実感するには十分な内容。東京人なら来ないと嘘である。


 

 美術館を2つ回ったところで、そのまま東京都美術館の食堂で昼食とする。例によってうまくもまずくもないカレーを昼食に摂ったのだが、ここに来て予定以上に疲労していることに気づく。やはり東京到着までのルートの疲れがかなり残っている。そもそも考えてみると、連日の5時台起きであまりゆっくりした朝を迎えたことがない。それにいきなり図録を2冊買ってしまったので荷物も重くなっている。このまま上野巡回を続けることには無理がありそうだと判断して、一端ホテルに戻ることにする。こういう決断ができるのも南千住が上野から近いからだが。

 ホテルに戻って荷物を置いてから一息つく。やはりかなり疲れが溜まっているが、このまま今日の予定を終わりにするというわけにはいかない。気持ちを奮い起こして再び出発する。

 上野に戻る前に寄り道をすることにする。上野を通り過ぎると秋葉原に移動して、そこで総武線に乗り換え、両国で下車する。これから国技館を見学・・・なんてするわけはなく、目的はその隣にある博物館である。

 


「手塚治虫展」江戸東京博物館で

  

 日本漫画の巨人、手塚治虫の生涯を追いつつ、その作品について展示した展覧会。

 彼が少年時代に落書きしていたノートなどの貴重な資料も展示されていて興味深い。また医師免状や、彼のペンネームの由来となったオサムシの観察記録など、彼の生活をうかがえる展示物も多々ある。

 作品展示については彼の作品を年代順に展示してあるので、いかに幅広い作品を手がけていたかがうかがえる。彼は少年漫画だけでなく、少女漫画の祖でもあったわけである。また劇画に対しては批判的であったと言いながらも、大人向けの劇画タッチの作品も手がけており、非常に野心的である。

 最後のコーナーでは手塚治虫に対するオマージュとして、おでんくんのリリー・フランキー氏の作画による鉄腕アトム(ほとんどおでんくんなんだが)まで登場していてなかなか笑えた。ここはついでにラレコ氏による「やわらかアトム」も登場して欲しかった。 

 それにしても手塚治虫が日本の漫画界に与えた影響の大きさを考えると、ほとんど「サザエさん」「いじわるばあさん」ぐらいしか作品がない長谷川町子が国民栄誉賞で、彼が国民栄誉賞を受賞していないというのが、改めて馬鹿げていると感じられ、この賞の値打ち自体を下げてしまっているように思われるのであるが。


 

 特別展を見学した後は常設展の見学も行うが、ここはとにかく建物の規模が異常に大きいことに驚かされるが、その理由は常設展示室を見ると納得する。常設展示室内には昔の建物などが復元されたとにかく巨大な展示物が多い。大阪歴史博物館もちょうど同じような展示をしているが、ここのはその数倍規模が大きい。呆れるというか何というか。

  

 両国駅に戻ると、一端錦糸町まで戻ってから秋葉原に折り返す。これで佐倉以西の総武線は制覇したことになる。かつて秋葉原が電脳街だった頃ならここで秋葉原見学なんだろうが、メイド喫茶に占拠されて以降の秋葉原には全く興味が湧かないので、そのまま山手線に乗り換えると上野に移動である。

 


「大恐竜展 知られざる南半球の支配者」国立科学博物館で6/21まで

  

 2億年以上前のゴンドワナ大陸で繁栄した恐竜たちの標本を大量に展示、恐竜の歴史を大観できるようになっている。

 とは言うものの、さすがにもうこのテーマの展覧会には行き飽きたという気がしてしまうのが本音。生物学の方に格別の興味のない私としては、恐竜の骨格標本を見ても全部一緒に見えてしまったりする・・・。そろそろ新味がないとこの手の出し物は辛くなってきた。 


 

 この時点でとうとう完全に足に来てしまった。もうこれ以上美術館を回るだけの体力がなくなってしまった。今日は金曜日だから開館延長もあるし、まだ4時前なのだからその気になればまだ2,3カ所回ることも可能なはずである。しかし情けない話だが、気持ちはあっても身体がついてこない。これが老化というものか。最近になって体力がめっきり低下していることを痛感する。やはり少々のことではこたえないだけの体力を身につけないと、山城制覇などに問題が出そうである。トレーニングも考えないと。 

 美術館を回る体力がなくなったので、これからどうしようかと考えた時、頭に浮かんだのは「東京モノレールにでも乗ってやろうか」というものだった。別に羽田空港に用事があるわけでもないし、飛行機嫌いの私が今後羽田空港を利用することがあるとも思えないが、ただ今後の交通政策について考えるにあたって、やはり空港の視察は必要であろうという事である(というか、単にモノレールに興味があっただけと言えなくもないが)。 

 浜松町まで移動するとそこでモノレールに乗り換えである。浜松町からの乗り換えは改札から直接に移動できるようになっている。モノレール車両はそれほど大きな車両ではないが、6両編成で全体の編成は大きい。またいかにも空港線らしく、車内にトランクなどの荷物を置くスペースがあるのが印象的。なお昨日辺りからテレビでは新型インフルエンザの話題で一色になっているが、羽田空港は国内線が主であるためか、マスクをしている客はほとんど見あたらない。

  モノレールに乗車

 

 空港ターミナルビル

 モノレールはそのまま湾岸地域を疾走する。一端地下に潜ると空港島に上陸。そして再び地下に潜ると終点の空港第2ビルに到着する。空港内は店なども多く入っていてかなり賑やか。しかし別に空港ですることのない私は、とりあえず展望デッキで飛行機見物。

 

 無意味な飛行機見物を終えた後は、再びモノレールで浜松町まで戻ってくる。さあこれでホテルに帰還・・・すれば良いのに、京浜東北線の行き先表示の大船の文字を見ているうちに、ふと妙な考えが頭をよぎる「このまま行けるところまで行ってやろう・・・」。私の持つゾーン切符は西は横須賀線の久里浜までエリア内である。この際だから京浜東北線を乗りつぶしておいてやろうという考えが浮かんだわけである。

 しかし結論から言えば、これは「馬鹿な考え」としか言いようがなかった。各駅停車の京浜東北線はかったるく、また風景も湾岸の繁華街で変化はない上に、乗客は多くて通勤電車の風景。特に旅情を掻き立てるものは何もない。横浜を通り過ぎても、周囲の風景が繁華街から住宅地へは変わってくるが基本的に変化はあまりない。やはり東海道沿岸は列車に乗ってもあまり面白いところはないと痛感。そうしているうちに大船に到着する。

 行きがかり上、これで京浜東北線も完全制覇である(北部は以前に埼玉に行った時に完乗している)。といっても特にこれというものはない。ここから先、横須賀線もあるが既に日没なので先に進む意味はない(沿線視察が主目的である私の鉄道乗車は、ただ単に「乗った」というだけでは無意味で、これが単なる乗りつぶし目的の鉄道マニアとは根本的に違うところである)。後は東海道線で帰途につくのみだった。

 

 

 翌朝は7時に起床。今回の遠征では初めてのゆっくりした朝である。何しろ昨日までで3日連続の5時台起きの上に2万歩越えである。今日はなるべく無理をしたくないところである。

 8時過ぎにゆっくりホテルを出ると、まずは新宿に向かう。新宿に到着するととりあえず朝食にラーメンを一杯。しかしこれがしょっぱいだけでまるでうまくない。そう言えば以前にやはり新宿で天丼を食べた時もしょっぱくて食えたものでなかった。これが東京スタンダードなんだろうか。とりあえずまずいラーメンを腹に放り込んでから最初の目的地へと向かう。 


「没後80年 岸田劉生−肖像画をこえて−」損保ジャパン東郷青児美術館で7/5まで

 

 いきなり様々なタッチによる岸田劉生の自画像画から始まるこの展覧会は、肖像画から劉生の芸術の流れを見ようと言う企画である。最初の一連の自画像シリーズは、彼が自らの画風を模索していた時期に当たり、お約束通りゴッホやセザンヌの影響を受けたりなどという当時のありがちの変遷を彼も辿ったことがよく分かる。

 ようやく彼自身が自分の画風として写実の線(いろいろ新しいことを試した割には、結果としては古くさい線に落ち着いたのである)に固まってきた後は、回りの人物の肖像画を片っ端から描きまくって「首狩り」と呼ばれた時期に当たるという。この時期の彼は写実を通して人物の内面まで表現しようと言う意図が見える。 

 その後が有名な麗子像の時期に入るのだが、初期は普通の写実的絵画として描かれていた麗子像が、年代が進むにつれて、あの「学校の怪談」ネタにまでされるような妖怪めいた麗子像に変わってくるのである。この時期になると彼の境地は既に写実を突き抜けてしまっていたらしい。なおこの頃に彼が影響をうけたのが中国などの絵画であるとのこと。これを聞いて初めてあの奇妙な麗子像の謎が納得したのである。よくよく考えてみると、あの麗子像は、寒山拾得にそっくりである。 

 つまりは「かなり影響されやすい画家だったんだな」という奇妙な岸田劉生像だけが鮮烈に印象に残った展覧会であった。それはそれで面白い発見だが。


 

 新宿での予定を終えると直ちにJRで渋谷へ移動。目的地に行く前に、渋谷に恒久設置されることになったという岡本太郎の壁画「明日の神話」を見に行く。

   

 壁画は京王線とJRの渋谷駅をつなぐ連絡通路に展示されているが、驚くのはその規模。岡本太郎渾身の力作とのことだが、これは描くだけでも大変だったろう。原爆をモチーフにしていると言われるその画面は、芸術的な賛否はともかくとして、非常にインパクトはある。私は決して岡本太郎を評価している者ではないが、この作品に関しては明らかにストレートなメッセージが見える。本作が岡本太郎の「ゲルニカ」と言われる所以も何となく納得できる。 

 壁画の鑑賞を終えた後は目的地に向かって移動。ここも通い慣れたる道である。 


「国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア」BUNKAMURAで6/7まで

 

 国立トレチャコフ美術館のコレクションから、19世紀から20世紀にかけての時期の作品を選んで展示した展覧会。代表的画家はレーピンなど。 

 この時期、かなり表現が前衛化していって鑑賞者を置き去りにしてしまった感があるフランス絵画と違い、ロシア絵画はまだ古き良き時代の趣が残っていたりする。展示作はのどかな田園風景や日常の光景を描いた作品が多く、表現的に尖った物がないだけに落ち着ける癒し系とでも言えるような絵画が多い。


 

 ここまでで大体お昼時。腹が減ったので渋谷で昼食を摂ることにする。さて昼食を摂る店だが、以前から何度も前を通りかかって気になっていた「くじら亭」に入ることにする。注文したのはランチメニューの「鯨のステーキランチ(1533円)」

 

 生姜風味の味付けのステーキがなかなかにうまい。とは言うものの、どうも鯨でないといけないという理由が見えてこないようにも感じられてしまう。以前に高知で鯨を食べた時にも感じたのだが、「鯨でないとこの味は」というものが欲しいところ。

 

 腹がふくれたところで地下鉄を乗り継いで次の目的地へと向かう。ここはどうもアクセスが今ひとつなのが難点である。

 


「ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち」国立新美術館で6/1まで

 

 ルーヴルの作品の中から、子どもをテーマにして作品を選択。古代エジプトの装飾品から果てはミイラに始まり、近代のヨーロッパ絵画など展示品は様々である。

 ただその分テーマが希薄。ティツィアーノの絵画など見るべきものもあるのではあるが、展覧会全体としては目玉がなかった印象。


 

 さてここで次にどこに行くのかを一瞬考える。当初の予定ではこの後はサントリー美術館と森美術館なのだが、東京ミッドタウンと六本木ヒルズは互いにここから逆方向である。またこの間の距離が徒歩圏内ではあるものの結構嫌な距離である。私が万全な状態なら散歩がてらにブラブラということも考えるが、今はとにかく既に足に来てしまっている状態。ここは徒歩での長距離移動はなるべく避けたい。確かサントリー美術館の出し物の方は巡回もあったはず・・・というわけで、ここでサントリー美術館の方は切り捨てることにして、六本木ヒルズを目指す。

 しかしこれが意外に歩かされる。というか、目的地はそこに見えているにもかかわらずとにかく遠回りを強いられるのである。これは建物の中に入ってからも同じで、以前に一度来た時にも感じていたのだが、とにかく建物の中の動線の設計が悪い。外観は洒落ているが、利用者の利便性を全く考えていないことが分かるのである。京都駅ビルでも全く同じことを感じるのだが、やはり下品な建物を設計するデザイナーは、人間のことを考えた設計という観点が抜けるようである。

  

 言うまでもなく私は東京という街が嫌いであるが、その中でも特に嫌いなのがバブルの臭いが濃厚に漂うこの地域である。特にバブルの塔とも言える六本木ヒルズはそれだけで強烈な心理的反発を感じるのであるが、今回再訪したことにより私がこの建物に反発を感じる理由が単にバブル臭だけではないことを痛感した。おそらく今後、よほどの出し物でもない限りここを再訪することはないだろう。


「万華鏡の視覚」森美術館で7/5まで

 

 様々な現代アート作品を集めているが、いずれも感覚を刺激するものをチョイスしてある。電球を大量に使ったトンネルの作品などは、往年のSFテレビドラマ「タイムトンネル」を想起させて面白くはあったが、「だから何なんだ?」で終わってしまう。

 


 六本木ヒルズをさくっと一回りしたところで今日の予定は終了してしまった。とは言うものの、まだ昼の3時ぐらい。このままホテルに帰ったところですることもない(そもそも寝るためだけのホテルである)。かと言って秋葉原が電脳街からオタク街に成り果てた今となっては、私にとって東京で「遊べる」場所はどこにもない。しかもそろそろ足の方が限界だし、予算の方も限界に近い。となるとこの状況下で私の選択肢は最早「東京ゾーン切符」の有効活用ぐらいしか残っていないのである。

 昨日は大船まで行って日没のために帰ってきたが、東京ゾーン切符の有効範囲はその先の久里浜までである。先日のような京浜東北線経由ではなく、東海道線経由のルートで一気に大船まで行けば、日没までに余裕で久里浜に到着できそうである。まずは地下鉄日比谷線で恵比寿まで移動すると、そこから山手線で新宿に移動。ここから新宿湘南ラインで一気に戸塚まで移動。先日、東海道線経由で戻ってきた時には真っ暗で周辺の様子はよく分からなかったが、こうして昼間に通ってみると、東海道線は京浜東北線よりも市街地をはずれたところを経由していることがよく分かる。

 大船の手前の戸塚で横須賀線の列車に乗り換え、大船を過ぎると横須賀線に突入である。横須賀線に突入するや否や、沿線風景が突然に田舎めいてくる。やがて山を抜けると鎌倉に到着。鎌倉は観光地らしく、大勢の乗客が大船方面行きの列車を待っている。確かにこうして見てみると鎌倉は山に囲まれた要地であり、ここに幕府が置かれたわけもよく理解できる。この鎌倉も見学したい場所はいくつかあるので、いずれは来る必要があるなという考えが頭をよぎる。

 

 途中の逗子で15両編成の前の4両を切り離すと、列車はそのままのどかな地域を走り続ける。やがて突然に軍艦が見えたと思えばそこが横須賀である。兵器ファンなら興奮するところだろうが、根っからの戦争嫌いの私の場合、あれが全部人殺しのための船かと思うとゾッとする。私の乗った列車はここまでなので、ここで久里浜行きの列車を待って乗り換え。基本的には久里浜までの風景も大差はない。

 

 久里浜に到着したが、特に何があると言うわけでもない。ここから京浜急行線に乗り換えるとさらに先に行けるようだが、そもそも私には何か目的があってここまで来たわけではないので、さっさと引き返すことにする。こうして乗車してみると、横須賀線はその名の通り横須賀へのアクセスのためだけの路線であるが、沿線に大観光地である鎌倉を抱えているので、常にかなりの数の乗客は確保できそうである。それにしてもやはり東京周辺は人口が異常に多すぎることを感じる。地方にも鎌倉レベルの観光地はゴロゴロしているのだが、そこを訪れる観光客の数はこことは桁が1つか2つぐらい違いそうだ。なんか不公平な話である。

 このまま東京まで引き返すことも考えたが、まだ日没まで時間が若干あるようだ。そこで鶴見まで移動すると、今度は鶴見線を視察することにする。鶴見線とは鶴見から川崎の工場地帯を経由するルートで、そもそもは貨物輸送がメインの路線のようなのだが、工場の通勤客のための旅客輸送も行っている路線である。沿線に無人駅が多いせいか、鶴見線のホームに入るのには改札を通る必要がある。

 通勤時間をはずれているのか、三両編成の列車はガラガラ。そのまま列車は工場のすぐそばを走り抜けていく。途中の風景はプラントマニアなら喜びそうだが、そういう趣味のない私には今ひとつ。こういう沿線風景を以前にどこかで見たことがあると感じたのだが、よくよく考えるとそれは「宇部線」だった。あそこも沿岸の工場地帯の貨物輸送を中心とした路線が元々であるから、その成り行きはよく似ている。

  

 終点の扇町に到着した頃には完全に日が暮れていた。扇町は案の上であるが工場地帯のど真ん中。こんな駅で降りたところでどうしようもないので、私はそのまま引き返すことにする。途中の浜川崎で南武線の支線に乗り換える。ここの接続が路線図を見た時に奇妙な書き方をされていることが気になっていたのだが、現地を訪れて納得。南武線支線と鶴見線の浜川崎駅は完全に分離しており、無人駅の改札を一旦出てから移動する形になっている。貨物線の流用だからこんな奇妙な形になったのだろう。なおこの列車は終点の尻手で南武線と合流するのだが、この支線の列車はどん詰まりのホームに到着する形になっており、列車は完全に支線内のみで往復運行されている。

 浜川崎では駅から出る必要がある

 尻手から川崎に移動。もう面倒になったので、夕食は川崎で摂ることにする。私が以前に仕事で川崎を訪れたのは10年以上前だが、その時にはなかった大型商業施設が駅前にできていたので、そこの飲食店街に入ることにする。私が入ったのは京都系のトンカツチェーンの「かつくら」。ここの京都の店に以前に行ったことがあるが、漬け物がおいしいのがここの最大の特徴(笑)。特に食べ放題の「かつくら漬け」が美味しく。これだけでご飯が何杯でもいけそうである。 

 夕食をすませたところでホテルに帰還だが、そこで「東京名物人身事故」に遭遇である。東京に遠征した時に感じるのだが、毎日必ずどこかで人身事故が起こっているような印象がある。例の小泉による「貧乏人はとっと死ね」改革以降、そのペースに拍車がかかっているようである。この煽りで京浜東北線がしばらく不通。結果として東海道線は大混雑となったのであった。

 

 

 翌朝は早朝にチェックアウト。トランクを抱えて移動を開始する。次の目的地は千葉。千葉で一泊して今回の大遠征は最後ということになる。ただし千葉に行く前に佐倉に寄ることになる。佐倉には大日本インキの川村美術館があり、ここも以前から行ってみたい美術館であった。ルートは2日前に通ったルートがそのまま。事前視察もしていただけにスムーズに進行する。

 JR佐倉駅

 佐倉駅でトランクをロッカーに放り込むと駅前からの送迎バスで川村美術館に移動。川村美術館の周辺は公園として解放されているらしく、美術館訪問以外の多くの客が自家用車で訪れている。また地元の青空市のようなものも開催されていたりとかなり賑やか。

 


「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」川村記念美術館で6/11まで

 

 イギリスを代表する近代アート作家のマーク・ロスコの作品展。特に今回の目玉は、高級レストラン「フォー・シーズンズ」の壁画のために描かれたが、雰囲気が気に入らないと言うことで後に彼が断ったために行き場をなくしていた「シーグラム壁画」が一堂に会したことだという。

 とは言っても、一面べた塗りの画面に四角や線を描いただけの絵は、私が最も嫌う典型的な「作家にとっては楽な絵」。正直言って面白みを全く感じられなかった。個人的にはこれ以外の所蔵品の方が楽しめたのが事実。

 

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 この一帯は大日本インキの所有地で研究所なんかもあるようだが、公園部分だけでもかなり巨大である。公園地域を散策しながら、さすがに大企業は違うもんだと感心することも仕切。不景気だと言っても、あるところにはあるものである。

 再び送迎バスに乗車すると、今度は京成佐倉駅まで移動する。ここから市内バスでまずは佐倉市美術館へ移動。

 


「佐倉・房総ゆかりの作家たち― 版画作品を中心として」佐倉市立美術館で5/24まで

 

 浜口陽三の版画は独特の質感を持ち、奇妙なインパクトのある作品ではあるが、所詮はそこまで。だから何なんだで終わってしまった。それ以外については特に印象はなし。


 

 美術館からは京成佐倉駅まではゆるやかな下り坂になっているので、帰りはそのまま徒歩で移動。駅に着くと次の目的地までバスで移動である。次の目的地は佐倉城とそこに建設された国立歴史民俗博物館である。

 佐倉城は戦国時代にこの辺りを治めていた千葉氏が建造を開始したが、動乱の中で完成せず、江戸時代になって家康の命を受けた土井利勝によってようやく完成されたという。石垣を用いなず土塁などのみによる簡素な城であるが、例によって明治時代の廃城令によって建物が撤去され、その後は陸軍の駐屯地が置かれたことなどによってかなり遺構は破壊されたという。それでも堀や土塁の遺構の一部は今日にも残存している。

 ふもとのバス停に到着すると、そこからはすぐにかつての水堀の後が残っている。かつてはここら一帯は印旛沼の沼地だったとのことで、堀の一部も印旛沼につながっていたとか。どうやら城はその沼地のほとりの小高い丘だったようである。バス停からやや登ると陸軍駐屯地の後に建造された国立歴史民俗博物館に到着する。

 

水堀の跡と国立歴史民俗博物館

 さすがに「国立」歴史民俗博物館というだけあって、驚かされるのはその規模と物量。とにかく展示物が多い。ちょうど雰囲気は大阪千里の国立民族学博物館(みんぱく)とそっくりである。違いはあちらは世界中の民俗に関する展示であるのに対して、こちらはひたすら日本の民俗について歴史をおって展示していること。私は時間がないのでざっと駆け足で見学を済ませたが、興味のある者なら丸一日でも十分につぶせそうである。

 

 昼食はそのまま博物館のレストランで摂る。メニューは「古代カレー(800円)」。古代カレーと言っても古代にカレーがあるわけもなく、古代進が食べたカレーというわけでもない(それならヤマトカレーだ)。要は古代米である赤米を混ぜたご飯にチキンカレーをかけたという代物。赤米含有率はそう高くはないように思われるのだが、それでも赤飯の如くしっかりと色が付いている。そもそもの赤飯は小豆ではなく赤米を用いたと言われているので、これが元祖赤飯である。なお味の方は可もなく不可もなく。まあみんぱくランチと同じで、話のネタとしてはよろしいでしょう。

 古代カレー

 博物館の見学を終えるとそのまま佐倉城見学に入る。まずはその博物館レストラン真ん前に見えるのが馬出し空濠。かつての防御施設の名残である。そこから回り込むようにして本丸周辺を散策。元々石垣を使用していない城なので土塁しか残っていないが、各地に深い空堀が残っている。本丸も空堀で仕切られた中にあり、周囲は土塁で守られている。関東にはこのタイプの城が多いと言うが、土塁は石垣に比べると雨に対する抵抗力が弱いと思うのだが、それは随時修復していたのだろうか? ぬかるんだらぬかるんだで、それは守備的には良いだろうが、そのまま崩れたら洒落にならんと思うが。

  

馬出空堀跡、本丸周辺の空堀はさらに深い、また土塁もかなり高い

 

  本丸は広場になっており、櫓址もある。

 佐倉城の見学を終えるとバスで京成佐倉まで移動。そこから京成電鉄で成田空港まで移動する。別に成田空港に行くべき理由はないのだが、ここまで来たら行きがけの駄賃というものである。

 

 京成成田をすぎると後はひたすら山の中である。それが突然に開けると成田空港。空港駅は地下にあり、JRの成田空港線と平行して走る形になる。終点の成田空港駅もJRと隣接している。さすがに国際空港だけあってか、テロを警戒してらしき荷物のチェックを受けるが、私は明らかに海外旅行者ではない身なりをしているので(荷物はリュック一つでカメラをぶら下げている)、免許証を見せただけで検査は終わる。

 空港のターミナルは羽田に比べると店も少ないし何となく閑散としている。はっきり言って「寂れている」印象さえ漂う。場所もかなり悪いし、これでは羽田に乗り入れしたがる航空会社ばかりが増えるのも当然のような気が。なおテレビでは成田は新型インフルエンザに備えて厳戒態勢というようなことを言っていたが、私がウロウロしたところがメキシコ直行便などと無関係なところだったのか、防護服を着たような人物もいなければ、そのような張りつめた空気も全く感じられなかった。

 

 展望デッキで飛行機見物などしながら時間をつぶし、JRの発車時間に合わせて駅まで降りてくる。ちなみにJRの成田空港支線は全席指定の特急成田エクスプレスは1時間に3本あるが、乗車券だけで乗れる快速は1時間に1本しかない。これだと成田まで190円なのに、成田エクスプレスならなんと1430円である。JRの意図は明からさまなのであるが、私は当然のように快速電車を待った。 

 成田空港支線は京成の線路と分かれた後は、ひたすらに山の中を走行する。JRの方が京成よりもさらに山の中の印象。そのまま成田を過ぎると佐倉に到着。佐倉で下車するとロッカーからトランクを回収する。後はこのまま今日の宿泊地である蘇我までの移動である。通常ならこのまま総武線で千葉を経由してというところだが、路線図を眺めているうちにちょっとした寄り道をすることにする。

 

 まずは総武線を反対方向に乗車して成東まで移動、そこで東金線で大網を経由して外房線で蘇我入りしようというルートである。単なる遠回りであるのだが、やはり同じルートばかり通る気にはならない。

 総武線は佐倉を過ぎると成田線と分かれて南方にカーブしていく。この辺りの風景はひたすら田園ばかり。どうも千葉に入ってからはこういう風景が多い。東京人間は千葉や茨城をチバラギと呼んで田舎者と馬鹿にするらしいが、こういう光景があるからなんだろう。しかし馬鹿なことである。彼らは自分たちの街がどこに水や食料などを依存しているのかを理解していないのである。往々にして都会人は都会だけあれば日本が成立するような誤解をするが(神奈川選出の小泉などがまさにそうだった)、実際は都会を支える周辺の農村部がなければ、早晩その都会は存続不能になってしまうのである。そういう意味ではもう既に東京は限界に近い都市になっているので、今のうちに何とかしないといけないのだが。

 成東はちょっとした都市になっているが、駅前に「利用しよう!まちの玄関成東駅」という看板がかかっているところを見ると、既にこの辺りでさえモータリゼーションによって鉄道は隅に追いやられつつあるようである。日本の将来の公共交通の状況を考えると暗澹たる気持ちになる。今回の麻生の選挙対策人気稼ぎの「高速道路1000円」などどいう場当たり政策が、地方公共交通に対するとどめにならなければ良いが。

 成東風景

 成東からは東金線に乗り換え。東金線のホームは成東で行き止まりになっている。そこに入ってきたのは113系の4両編成。塗色はこの地域向けの青とクリーム色になっているが、これ自体はJR西のローカル線でも見かける車両である。内部はセミクロスシートになっている。

   この辺りはこのタイプの車両ばかり 

 沿線はそれなりに人口がいるようで、先ほどまでの総武線よりもむしろ乗降は多い印象である。また学生の姿も多い。なお単線電化路線であるので途中の東金駅で対向車とのすれ違いがあった。

 列車はそのまま大網駅に到着。大網駅では東金線のホームと外房線のホームがV字に配置されており、通路でつながっている。なお東金線からそのまま外房線に直通する列車もあることから、東金線ホームの先で線路は外房線と合流している。私の乗車した車両は大網止まりであるので、ここで外房線へ乗り換えになる。

 大網駅の連絡通路より

 外房線は最初は山の中であるが、走行するにつれて人家が増えていきやがて蘇我に到着する。ここまで来ると市街地は千葉までつながっている。

 今日の宿泊はこの蘇我である。今日とったホテルはドーミーイン蘇我。この地域で大浴場付きのビジネスホテルといえばここぐらいしかなかったというのが選択の理由。禁煙室を予約していたはずが喫煙室に通されるなどのトラブルがあったが(それにしても臭い部屋だった)、無事にチェックインをすませる。

 ホテルにチェックインすると夕食のために街に繰り出す。確か蘇我の周辺にはラーメン屋があったはずなのだが・・・なんとすべて休業。どうもGWで駅の南側の飲食店は壊滅状況のようである。仕方ないので駅の北側に戻ってブラブラしていると「ステーキのあさくま」という店を見つけたので入店。どうもチェーン店のようであるが、私は聞いたことのない店である。

 

 GW中は客が減るのか、サーロインステーキセットがGW期間中割引との表示を見てそれを注文する(2500円)。

 

 内容的には驚きもないが落胆もないというところ。店構え的にファミリーレストランという印象を受けたが、料理はファミレスよりは随分まともだったようだ。この日は夕食を終えるとホテルで入浴。今日も佐倉で歩きすぎたせいか4日続けての2万歩越えということで、そのままダウンしてしまったのである。

 

 

 いよいよ今日が最終日である。ホテルで朝食を済ませるとチェックアウト、まずは千葉駅まで移動してから、ロッカーにトランクを放り込み、モノレールで最初の目的地に向かう。終点の千葉みなと駅で下車するが、このモノレールの駅から目的地までが遠い。しかも回りは臨海埋め立て地という風情で風景も面白くないし。こんな辺鄙に県立美術館を作るとは千葉県は文化を軽視しているのか? しかも直通バスでもあれば救いがあるが、バスの便はほとんどなく(1日数本)、公式HPが「バスは本数が少ないので、モノレールを利用下さい」と書いてある始末。なんなんだこれは。

 


千葉県立美術館

  

 私が訪問した時には所蔵作品展。コレクションの中ではバルビゾン派の絵画が最も印象に残った。質・量共に充実しており、それなりに見応えがある。またこういう作品と並べると浅井忠などの日本の画家は、これらの影響を受けていることが直接に確認できて非常に面白い。


 

 再びモノレールの駅まで長い道のり。今度は市役所前駅から乗車したが、こちらもやはり遠い。どう考えても千葉県はこの地域の開発を間違っている。本気で開発するつもりなら、モノレールを分岐させて駅を作るべきだ。金まみれのあんな馬鹿を知事に選んだりとか、どうもこの県のすることは分からない。

 次の目的地への移動だが、その前にどうせ一日乗車券を購入してモノレールに乗ったことだから、ついでに視察をしておくことにする。

 千葉モノレールは市や県が経営に参画している第3セクター路線である。路線は千葉みなとから県庁前までの1号線と千葉駅から千城台の2号線からなるが、実際は2号線の車両も千葉みなとまで乗り入れしている。なお営業距離としては世界最長の懸垂式モノレールとして知られている(懸垂式以外を含めると、大阪モノレールの方が長いとか)。

  

 車両は2両編成が基本になっているようだが、最長は4両編成まで可能な模様。車内はロングシートであり、ちょっと小さめの電車というイメージ。乗車感覚は新交通システムなどとは違い、いかにも「吊されている」という感じの揺れ方をする。またこれらと違って車両の下には何もないので「浮いている」感が非常に強く、高所恐怖症の人間には精神安定上よろしくないかも。なお明らかに普通の列車と違うということを感じるのはホームの低さ。30センチ程度の高さしかないので、これだとホームに転落して転落死という事故だけはないだろう(車両に挟まれるとその限りではないが)。

 市役所前から千城台行きに乗車。次の千葉駅で大量の乗客が乗り込んできて押し合いへし合いの状況になる。沿線に動物園があるのでどうやらそこに向かう親子連れの模様。子供が多いので車内は阿鼻叫喚の地獄図・・・とは言わんが、うるさくて仕方ない。軌道としてはこの千葉駅を出る辺りが一番高度としては高いようで、かなりの高さがあるようである。やがて球場や競技場の真横を通り過ぎると、そのままゆっくりと大きな半円を描きながら住宅地を高台に向かって登っていく。スポーツセンター駅では再び球場と競技場の間を抜け(千葉っていくつ球場があるんだ?)ると、次が動物園駅。ここでやかましい親子連れが一斉に下車して、ようやく車内は普通の混み具合に変わる。路線はその後も住宅地を高台に向かって登っていくが、だんだんと辺りの雰囲気は郊外めいてくる。総武本線との接続駅である都賀を過ぎるといよいよ新興住宅地。そして間もなく終点の千城台に到着である。その間30分弱。

 

 典型的な新興住宅地の新交通システムというイメージ。車を使いにくい都心部では有効な交通手段だと思われるのだが、どうもここも赤字らしい。今や公共交通で黒字を出すことは不可能なのか。 

 終点の千城台はごく普通の新興住宅地のど真ん中(駅前に大型ショッピングセンターがあったりとパターン通り)で、降りても意味がないのでそのまま引き返す。千葉駅で今度は県庁前行きの方に乗り換えて葭川公園で下車、徒歩で目的地を目指す。


「大和し美し 川端康成と安田靫彦」千葉市美術館で5/10まで

   旧川崎銀行の建物を取り込んでいる

 作家の川端康成と日本画家の安田靫彦は親交があったと言うだけでなく、共に美術品のコレクターとしても知られていたという。本展は彼らのコレクションや、彼らが共に敬愛していたという良寛にまつわる品などを展示している。 

 彼らは自身の美意識に基づいてコレクションをしたのだろうが、所詮は他人の美意識は理解しにくいもの。私の目から見ると何ともテンでバラバラな展示品に見えてしまったのが正直な印象。もっともいかにも様式的でさっくりと描いた印象の安田靫彦の作品自体が私の好みとはずれているということもあるのかもしれないが・・・。


 

 美術館の見学を終えた後はまた徒歩でブラブラと移動。次は千葉城を見ておいてやろうという考えである。千葉城は中世にこの地域で勢力を張った千葉氏の居城である。現在は巨大な天守型の博物館が建てられているが、そもそも千葉氏の城は中世の城郭であって天守閣なんてあったわけもない。つまりは時代考証を全く無視した「とんでも天守」であり、城郭ファンには極めて評判が悪い。

 

 千葉城は県庁近くの高台の上にあるが、付近の地理が全く分からなかった私はかなり大回りをする羽目になってしまって、結局は裏側から入り込んだので都合千葉城天守を360度方向から観察することになったのだが、何となく感じたのは「どうもプロポーションが悪い」というものである。正面から見た場合にはそれほどでもないのだが、特に側面から見た時に基盤の石垣などに比して天守自体がでかすぎる印象を受け、何となく頭でっかちに感じるのである。多分これは破風の形などのせいもあるのだろうが、どこか微妙な違和感がつきまとった。

  千葉城

 なおこの建物はそもそもは博物館となっている。そこで内部を見学しておこうと思ったのだが、ここで唖然。何と休館中とのこと。ここは祝日には休館するらしい。しかも休館日は月曜日で、月曜が祝日の時には翌日も休館。もうこれは呆れるしかなかった。祝日と言えば博物館の類にとってはかき入れ時である。未だかつて祝日に休館する博物館なんて出くわしたことがない。ここは官庁か? どうなってるんだ千葉は?

 まあいろいろと疑問もわき起こったりしたが、これで千葉の予定は終了である。県庁前からモノレールに乗車すると、千葉駅に帰還。地下で手っ取り早く昼食を済ませ、ロッカーからトランクを取り出す。後は帰るだけだが、まだその前にやっておく事がある。 

 東京ゾーン切符の期限は今日までである。そこで今日は残ったところを視察しておくことにする。まずは京葉線に乗車。京葉線は以前に東京から海浜幕張まで乗車したことがあるが、湾岸埋め立て地を走行するあまり面白みのない路線である。ちなみに途中で東京ディズニーランドのそばを走行するが、ディズニーランドに全く興味のない私は、お城があるのを見て「やけにでかいラブホテルだな」と勘違いしたことを覚えている。 

 南船橋に到着するとここで武蔵野線に乗り換える。武蔵野線は路線図的には海浜幕張から出ていることになっているが、実際にはここから分岐している。武蔵野線は千葉から埼玉を経由して府中本町までを結ぶ路線で、都心周辺を周回する環状線の一部のような形態になっている。千葉から北上すると沿線はすぐに郊外に突入するが、都心から放射状に出ている各路線を結ぶような形で走行しているので、利用者はかなり多い。建物が密集してきたと思えば南浦和に到着。ここでは東北本線などと接続しており、乗降は一番多い。その後は沿線は郊外住宅地という趣。中央線と交差する西国分寺周辺では再び住宅が密集、この辺りで路線は地下に潜り、再び地上に出た時には終点の府中本町に到着である。

 府中本町では南武線に乗車。南武線は先日、その末端部だけを乗車しているが、立川と川崎を結ぶ路線である。一端立川まで引き返してから、川崎まで全線乗車。こちらは武蔵野線よりも沿線の宅地化は大規模に進んでおり、車内は通勤電車の雰囲気である。

 川崎に到着するとそのまま東海道線で東京まで移動。新幹線で帰途についたのであった。結局今回は首都圏の路線の乗りつぶしの形になったが、やはり首都圏の路線の大半は通勤路線で、やはり乗車していても面白みがない。虚しさが漂うのであった。

 結局は終わってみると五泊六日という私としては前代未聞の長期遠征だった上に、交通費にかなり費やしているので、大散財ツアーとなってしまい、この後の遠征計画にも響くぐらいの財政的大穴をあけてしまったのである。麻生総理などは、どうせここで国の財政をガタガタにしても苦労するのは次に総理になる奴だとばかりに、後先考えないバラマキに邁進しているが、私の財政に大穴が空いても自分で埋めるしかない。それにもかかわらず身を切って景気回復に貢献しようとしている私は、なんて愛国者なんだろう。

 

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