展覧会遠征 愛知編

 

 人生は予定通りにはいかないものだが、私も思わぬ予定の狂いに悩んでいた。と言うのは、鉄道の日記念切符のことである。この切符は10/4〜10/19の3日間、JRの全線に乗り放題という切符である。先週はこの切符を最大限に有効活用して東京まで行ってきたのであるが、残り2日分を残して使用期限が迫ってきてしまったのである。

 そもそもは有効期限内の週末3回で使い切る予定だったのが、最初の週が疲労のせいで近場を自動車で回るだけになってしまったのが最初のつまずきだった。結局はそのまま有効期限の最後まで来てしまったのである。いっそのこと使い切ることは諦めるかという手もあるが、これは私の行動原理の主要な部分を占める「貧乏性」がとても許さない。となると方法はただ1つ。この週末に予定していた名古屋遠征を2日がかりの大型遠征にするしかないという結論に至った。

 とはいえ、本来日帰りの予定だった遠征計画をそのまま一泊に変更したのではあまりに中身が薄くなりすぎて、これまた私の「貧乏性」が許さない。結局散々悩んだ挙げ句に、行動半径を岡崎にまで広げ、以前からの懸案事項の一部をこの際に解決しておくことにしたのである。

 さて当日は新快速で米原まで、ここでJR東海の車両に乗り換え。例によっての「第4次スーパー席取り大戦」なのであるが、老若男女が目の色を変えて全力疾走する青春18シーズンに比べると、かなりのんびりした空気がある。やはり鉄道の日記念切符は青春18に比べるとまだ知名度が低いようだ(採算ラインもキツイ上に有効期限が短いので使いにくいこともあるだろう)。米原での戦いについては既に歴戦の猛者である私にとっては、今回は実に楽な戦いであった。

 後は名古屋に到着してから予定をスケジュールに従って消化するだけ。今日の予定はまず名古屋での展覧会を攻略して、その後に岡崎に移動というもの。しかし車窓の風景を眺めながらボーっと考えているうちに、頭の中に閃くものがあった。「予定を全面変更しよう」。思い立った私は早速W−ZERO3でハイパーダイヤに接続、急遽タイムスケジュールを組み直す。明日に回すはずだった予定の一部を今日に回し、名古屋の美術館攻略は全面的に翌日に回すというのが主な変更内容。この時は全くの思いつきだったのだが、これが後になってみると非常に大きな意味を持つことになるのである。

 さて予定を全面的に組み直した私は、名古屋で下車することなく、そのまま大府まで移動する。美術館遠征の前にまずは「21世紀の地域振興と交通について考える市民の会代表(自称)」としての活動からである。この大府からは武豊線というJRの路線が存在する。この武豊線とはあの天才騎手・武豊にちなんでネーミングされた路線で、JRAによる広告路線である。走行車両には武豊騎手が今まで騎乗した馬にちなんだネーミングがつけられており、競馬ファンの人気を集めている・・・・なんていうのはすべて全く嘘である(笑)。

 実はところは、正しくは「たけゆたか線」ではなくて、「たけとよ線」であり、大府と知多半島の武豊町を結ぶ単線非電化路線である。愛知県内を走行するJRの路線の中で非電化路線はここしかないとのこと。位置付け的には都会のローカル線というイメージである。

 車両はディーゼル車両のキハ75型の2両編成。ワンマン車両であり、無人駅では運転士が集札をする。また武豊線からは区間快速として名古屋まで直行する車両もあるらしいが、ちょうど向かいの線路を6両編成の区間快速が通過していった。これをやり過ごしてから発車。発車までの間に2両のクロスシート車両は乗客で満員になる。

 

 路線は沿岸部の工業地帯と住宅街の間を走行する。車窓風景が右と左でかなり違っている。沿線の宅地開発はかなり進んでおり、沿線人口は多そうである。ただ単線であるが故のすれ違いでの時間ロスがかなりあり、走行距離に比して時間がかかる印象。また輸送量に限界がある。中部国際空港が開港した時、この路線を延長してアクセス路線にするという案もあったというが、輸送量の問題と資金の問題で頓挫したとか。

 東浦を過ぎたところで貨物線が分岐する

 沿線には「武豊線の電化と高架化を」という看板があったが、確かに東海道線との一体運用を考えると電化にはメリットがあるだろう。ただ高架化までするならいっそのこそ複線化をしてしまいたいところである。沿線人口は多いので潜在的需要はありそうだが、問題は併走する形で走行する名鉄の存在と、愛知全体に言えることだがこの地域でもモータリゼーションがかなり進んでいることだ。愛知はトヨタのお膝元だけあって、とにかく車を重視して鉄道を軽視しているのだが(多分、これが私が名古屋が嫌いな理由だろう)、それがこの地域にも反映しているようである。

 武豊駅には本当に何もない

 武豊は何もないところ。むしろ途中の半田の方が古い駅舎があったり、機関車を保存してあったりと面白そうである。と言っても、私は特に鉄道マニアではないので、沿線の視察を終えるとそのまま折り返して帰ってくる。ここからは東海線で岡崎に移動。ただ東海道線に遅れが出ているようで、本来は接続していなかったはずの新快速に間に合うことに。「ついてる」という言葉が出る。岡崎に到着すると、ここからは愛知環状鉄道で中岡崎に移動。予定よりも早い列車に乗れたおかげで、こちらも一本早い列車に乗車でき、計画よりも早く中岡崎に到着する。

 半田駅にあったSL

 中岡崎駅までやってきたのは、岡崎城を見学しようという目論見。ただその前に腹ごしらえを先にすることにする。入ったのはこの近辺にあるうどん屋「大正庵釜春本店」。この店の名物という「天ぷら釜揚げうどん(1540円)」を注文する。

 かなり大きめの桶に入ってうどんが入ってくるが実は上げ底。とは言うものの量として少ないというわけではない。味としては関西人である私にとって馴染みやすい味。とかく名古屋のうどんは濃い味付けが多いのだが、ここのうどんは意外とあっさりしており、この地域の標準とはずれているようだ。麺はコシがあってそれでいてのどごしが良いという典型的な手打ちうどん。

 

 

 腹ごしらえが終わったところで岡崎城の見学。岡崎はそもそもの家康の本拠地であり、家康とゆかりが多い地域である。岡崎城も家康ゆかりの城として江戸時代には重視されたのだが、明治になってすべての建物が破却され、現存しているのは堀と石垣のみという惨状である。なお現在は鉄筋コンクリートによる復興天守(悪い言い方をすれば「なんちゃって天守」)が建造されている。鉄筋コンクリートの天守は、外から見る分には良いが、やはり中にはいるとゲッソリする。むしろ見所は当時の遺構が残っている空堀。その深さには驚かされ、当時の城の防衛の堅固さに思いを馳せることが出来る。なお岡崎市は周辺を公園として整備しており、大手門なども復元しており、また家康ゆかりの遺品などを展示した博物館も設置されている。

 岡崎城天守

 

    天守内部はこんなもの       当時の遺構の空堀。かなり深い。

 

      復元した大手門          三河武士のやかた家康館

 岡崎城を見学した後は再び駅に戻ってくる。今度は中岡崎駅に隣接する名鉄の岡崎公園前駅から乗車・・・なのだが、なんと名鉄線は人身事故のためにダイヤが滅茶苦茶になっているとのこと。とりあえず隣の東岡崎駅まで行かないといけないのだが・・・。とにかく駅でしばらく待つことに。すると数分で列車がやってくるので無事に東岡崎駅に。

 

 東岡崎駅に到着するとそこはパニック状態だった。名鉄では本線である名古屋線が止まってしまった影響で全線のダイヤが混乱し、多くの列車で遅れや運休が出ている状態のようで、JRへの振り替え輸送のために、東岡崎からJR岡崎までを臨時バスを出して乗客を輸送しているようであった。私はたまたま当初の予定よりもはやく駅に帰ってきたので、遅れてやって来た予定よりも早い便の列車に乗れたが、もし予定通りに駅に到着していたら身動きが取れなくなっていた可能性がある。また最初の私のプランでは、名古屋の美術館を攻略した後で名鉄で東岡崎に移動する予定だったのだが、そのプラン通りに行動していたら、もろに運転停止に巻き込まれて、今頃は名古屋駅で唖然としていたところだろう。つまりあの咄嗟の計画全面変更によって危機を回避できたのである。あの時の閃きはなんだったんだろうか。ついに私もニュータイプに覚醒したのか(笑)。

 さて無事に東岡崎に到着した私だが、ここまでやって来たのは当然ながら目的があってのことである。目的地とは岡崎市美術博物館。名古屋近辺の美術館と言うことで以前からその存在については知っており、今まで何度も懸案になっていたのだが、とにかくそのアクセスの悪さのせいで今まで未訪問だったのだ。この美術館の立地こそ、まさに「車を優先して公共交通を軽視している愛知」の典型例である。駅から異様に遠い上に、しかもバスの便は1時間に1本というまさにローカル線ダイヤ。この異常に悪い立地を見ると、岡崎市は文化を軽視しているのかと疑いたくなる。

 東岡崎からバスで目的地に移動。次の目的地はまさに山の中にあった。


「石山寺の美 ―観音・紫式部・源氏物語」岡崎市美術博物館で11/16まで

 

 石山寺に伝わる仏像・仏画などと共に、紫式部ゆかりの寺院という同寺が所蔵する江戸から近代にかけての源氏物語をテーマにした絵画などを合わせて展示した展覧会。

 仏像については平安期から鎌倉期、室町期などあらゆる時代の様々な作風のものが混在しているので、それぞれ特徴があって楽しめる。ただ仏画は私の専門外、また源氏物語絵巻の類も残念ながら私の興味を喚起するものではなかった。やっぱりこの手の博物系展示は私にはつらい。


 現地は総合運動公園などもあるところで、文字通りの山の中。閑散とした中に大型施設が散在している。この館についてはいかにもの現代的な作りで、見た目はなかなかなのであるが、ただ美術館として考えると所蔵品が手薄なのと、建物の大きさの割に展示スペースが貧弱といかにもハコモノ的印象が強くてイメージが悪い。

 見学を終えるとバスでさっさと東岡崎まで戻ってきたが、まだ名鉄のダイヤには大きな乱れがあるようであった。当初の予定では来た時と反対のルートで岡崎に移動するつもりだったが、名鉄がJRに移動する乗客のために岡崎行きの臨時バスをバンバン増発しているようだったので、それに乗って直接に岡崎まで移動することにする。

 JR岡崎に到着した頃にはとっぷりと日も暮れて辺りも真っ暗になっていた。ホテルに入る前に夕食を先にとることにする。

 今回夕食を摂ったのは「はせべ」という鰻屋。「岡崎一」と推薦している人もいるようだが、確かに人気はあるらしく駐車場は車で一杯で、客が入れ替わり立ち替わりでひっきりなしに来ていたようである。とりあえず私は「うなぎ丼松(1790円)」をご飯大盛り(+110円)にして注文する。

 しばらく待たされた後に出てきたのはこんがりと焼けたうなぎの載ったシンプルな丼。うなぎの焼き方が東京と違って、皮がパリパリするぐらい焼いており、これ以上焼いたら焦げてしまうという寸前。だからかなり香ばしさが強く、どちらかと言えば関西系のうなぎ丼である。味付けについては名古屋圏にしてはあまりしつこくなく、嫌みを感じずに食べることが出来る。また隠し球として実は丼の中に刻んだうなぎが潜んでいたりするのがうれしい。

 鰻丼を食べ終わったところで、さらに「鰻のしろ焼き(1100円)」を追加注文する。出てきたのはたれをつけずに焼いた鰻と、白焼き用のタレ(しょう油系)にショウガ。ショウガをしょう油系のタレに入れて頂くとのこと。早速一口かじった途端に思わず声が出る「なんだこれは?!」。あっさりしているにもかかわらずコクがあり、ウナギの旨味が口の中でフワッと広がるような感覚がある。しかもサクサクとした歯触りが実に心地よい。はっきり言って食べたことのない味であり、私にとっては新体験であるがとにかくうまい。うなぎ丼だけなら、うまいには違いないがそう特別でもないと感じたのだが、この白焼きについては絶品である。これは驚いた。なおかば焼きやしろ焼きにう巻きなどがセットになったメニューもあるので、これを注文するのも良かろう。このウナギ屋は正解であった。

 夕食を堪能した後はホテルにチェックイン。今回の宿泊先は岡崎駅西口のMyHotel Okazaki。例によって宿泊料と場所を優先してのチョイス。部屋の照明が私の好みよりは若干暗めだが、最上階に小なりとは言え大浴場があるし、無料の朝食も付いて宿泊料は6000円というホテル。この日は岡崎公園ウォークなどで1万4000歩を越えていたので、その疲れを風呂でじっくりと癒す。その後はPCをネットにつないで明日の予定を確認してから、この原稿を執筆してから眠りにつく。

 

 翌朝の起床は7時頃。今朝の予定にはやや余裕があるので、私の遠征先での行動としてはやや遅めの活動開始である。早速朝食を食べに1階の食堂へ。バイキング形式でややおかずに貧弱さを感じるが、一応朝から和食が食べられるようになっているし、そもそも朝食は無料であるのだからCPは悪くない。朝食を食べ終わると、手早く荷物をまとめてチェックアウトする。

 さて今日の予定であるが、前日に行うつもりだった名古屋地区の美術館の攻略である。ただしこのまま名古屋に直行するのも芸がない。そこで岡崎まで来たついでに、昨日二駅だけ乗車した愛知環状鉄道を経由して名古屋に行ってやろうという趣向。愛知環状鉄道の岡崎駅は完全にJR岡崎駅と一体となっており、岡崎駅の0番ホームが愛知環状鉄道の専用ホームとなる。私が到着した時には、JR東海の313系をマイナーチェンジしたという2000系の2両編成の車両が待っていた。

 

 愛知環状鉄道は、そもそもは豊田−岡崎間の貨物輸送のための路線だったJR岡多線を元に、中央線の高蔵寺まで路線を延長した第3セクター運営の鉄道である。全線電化の高架路線であり、地域によって単線と複線がまだらに入り乱れている構造になっている。愛知万博のおりには会場アクセスのための主要経路として活躍した(リニモは輸送力が低すぎるため、会場への主要アクセス経路とはなり得なかったという)。

 

 岡崎市街、豊田市街、瀬戸市街と市街地を結ぶ路線でもあるが、市街地を少し外れると急に風景が田園地帯になると言うめまぐるしい路線である。そもそもはトヨタの工場の部品輸送などのために引かれた路線であるため、自動車工場のすぐそばを縫って走るような経路になっている。現在はトヨタは部品輸送に鉄道を使用していないとのことだが、それでも通学需要を中心に利用者はかなり多い。ただし乗客は比較的多いにも関わらず、経営は決して楽ではないという。原因は過剰な設備投資。確かに全線高架の路線は風景も良く気持ちよいが、正直なところここまで立派な路線が必要なのかとの疑問はある。過剰な設備が経営を圧迫するというのはリニモと全く同じ構図で、やはりあの万博に絡んだ設備には素性の悪いものが多いということを感じる。またあおなみ線も含め、愛知には「乗客はそれなりにいるのになぜか赤字の路線」というものが多く、何か体質的な問題があるような気もする。トヨタに媚びを売るために、わざと公共交通をおろそかにしているのかとの疑問さえ感じる。

 途中でリニモと接続している八草駅を過ぎ、終点の高蔵寺に到着したのは1時間後ぐらい。高蔵寺ではやはりJRのホームに入っており、JRの路線の一部という印象が極めて強い。ただJRと別会社として分けていることで、JRとは違う料金体系を設定することが可能となっており、そのために岡崎−高蔵寺で850円という法外な料金を取っている(にも関わらず、なぜ経営が苦しいんだ?)。どうもいろいろな問題点を感じる路線である。

 高蔵寺は中央本線の駅。ホームでしばし待つと、先ほどの愛知環状鉄道の2000系の母体である313系電車が到着する。中央本線については、東端の東京都内の部分は何度も乗車しているが、西端部の路線については今まで乗車したことがない。実は恥ずかしながら私は中央本線は非電化路線だとつい最近まで勘違いしていた。さすがに東海道線に並ぶ日本の二大幹線の一つだけに全線電化路線とのこと。

 列車は20分程度で金山に到着する。この後は地下鉄で移動しながら各美術館を制覇することになる。


「ペリー&ハリス−泰平の眠りを覚ました男たち」名古屋ボストン美術館で12/21まで

 

 幕末の日本の鎖国の扉をこじ開けたと言われているのがこの二人である。彼らの開国にまつわる交渉関係の書類や、当時の状況を伝える資料を日本側は江戸東京博物館の収蔵品から、アメリカ側は海軍博物館等から集めて展示したもの。

 一般に開国の経緯は、突然に黒船で押しかけたペリーに驚嘆してなす術もなかった幕府は、終始狼狽のままただただ言われるままに開国したというように思われているようである。しかし実のところは、幕府はペリー来航の情報を事前に察知しており、ある程度の準備の上で対処していたということが最近の研究で分かっている。先のような思い込みは、多分に新政府による自身の権力奪取の正当化のための、幕府がいかに無能であったかということの過剰なプロパガンダであった可能性が高い。

 本展では明らかにこの近年の研究を踏まえており、実はもはや開国は必然であると考えていた幕府が、当時吹き荒れていた攘夷思想などを抑えるために、ペリーの来航を積極的に利用したという解釈をしている。またかなり厳しい状況下で、幕府がアメリカに対して日本の文化の高度さを伝える努力も行っていることを示す物品も多く、実際にそのことは功を奏して「日本にはアメリカのような機械文化はないが、非常に高度な手工業文化がある」と認識させるに至ったようである。また当時の最新の海軍用の大砲をペリーから入手して、それを元に大量の複製を作成し、後に来日したハリスを驚かせたというエピソードもあるようである。

 幕府のこのような意外にもなかなかしたたかな交渉を見ていると、今日の日本政府の「ポチ」と呼ばれる対米追従一辺倒の外交がいささか情けなく見えてきたりするのである。


「ライオネル・ファイニンガー展」愛知県美術館で12/23まで

 

 ニューヨークのドイツ系移民の家庭に生まれたライオネル・ファイニンガーは、ドイツに渡って最初は新聞の風刺漫画家として活躍し、その後にキュビズムと出会って独自の絵画世界を展開、バウハウスの設立にも貢献したという。そのファイニンガーの初期の風刺漫画から、晩年の作品に至るまでを回顧した展覧会。

 漫画からキュビズムへの展開となると、分かりやすい作品から分かりにくい作品への移行であり、私の好みから言えばより面白くない方向への転向と言うことになるのだが、不思議なことに彼の場合はキュビズムの影響を受けてからの絵画作品の方が、初期の漫画作品よりは私に面白く感じられた。単純な描線で事物の形態を描く漫画に携わっていた彼の作品は、キュビズムの影響を受けた後でもその形態描写を失ってはおらず、より親しみやすさを持っているからではないかと思われる。

 私自身が、絵を描くよりも前から図面を引いていたという人間であるだけに、どうも幾何学的形態性の強い作品にはシンパシーを感じる傾向があるようである。


「マティスとルオー 素晴らしき芸術への共感」松坂屋美術館で10/19まで

 

 マティスとルオーは共にギュスターヴ・モローのアトリエの出身であり、一見全く異なる道を歩んだように見える二人は、実は深い部分で互いの芸術に対する共感が存在したのだとのこと。その両者の作品を対比しながら展示している展覧会である。

 とは言うものの、鮮烈な色遣いや太い描線に単純化されたフォルム、さらにサーカスなどのモチーフには共通点は感じるものの、両者の芸術についてはやはりかなり方向が違うというように私には感じられてならない。だからこのように両者を対比されても「ああ、そうですか」という以上の感嘆はなかったのが事実。それよりもこうやって両者の作品をずらっと並べられると、むしろそのワンパターンぶりが際だったように感じられてしまったのはなぜだろうか。

 

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 以上3館を攻略したところで昼過ぎになった。この後はまだ1館訪問予定が残っている。ただそこまでの徒歩での移動の前に、途中で昼食を済ませることにする。

 昼食を摂ることにしたのは、名古屋で有名な味噌煮込みうどんの店である「山本屋総本家」である。味噌煮込みうどんといえば山本屋と言われるのであるが、実は名古屋の山本屋には「山本屋本店」と「山本屋総本家」という二種類が存在し、完全に別会社だという。しかしそれを混同している者は多く、口コミ掲示板などでも明らかに両社を取り違えたコメントをしているのをよく見かける。なお私は以前の名古屋訪問で山本屋本店の方は訪問したことがあるので、今回は山本屋総本家の方を訪問することにした次第。

 昼時で店内は混雑し始めていたが、幸いにしてほとんど待ち時間なしで入店できる。注文したのは「かしわ入り一半味噌煮込みうどん(1790円)」。一半というのは一玉半の意味で要は大盛ということ。ちなみに山本屋本店ではご飯がついていたものの2047円であるから、こちらの方が少し安いということになる。

 しばし待たされた後、熱々のうどんが運ばれてくる。このうどんを土鍋のふたを取皿代わりにしていただくことになる。とりあえず一口食べただけでも非常にインパクトが強いのはうどんの固さである。以前の山本屋本店の場合もそうだったが、名古屋の味噌煮込みうどんの麺は腰があるというものではなく、とにかく固いとしか表現しようがない。ここのものはさらに固さが強いようである。また出汁のほうもかなり野趣に満ちている。味噌の味がその酸味も塩味も含めて非常に強烈に出ている。こちらの方がよりどぎつい味という印象で、私のような余所者にはいささか抵抗を感じさせないでもない。すべてが強烈に名古屋を主張しているのである。そういうわけで、総合評価としては私は山本屋本店の方に軍配を上げるのだが、名古屋人の場合はむしろこちらの方が好みに合う者も多いのかもしれない。

 昼食を済ませた後は次の目的地まで歩く。次の目的地は私が以前から「地下鉄のどの駅からも微妙に遠い」と言っている名古屋市美術館である。実に歩いていくことに問題のない距離ではあるのだが、あまり歩きたくないと感じる嫌な距離だ。


「ピカソとクレーの生きた時代展」名古屋市美術館で12/14まで

 

 ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館が所蔵する西洋近代絵画について、ピカソとクレーを中心に展示したもの。ドイツの近代絵画の流れを象徴するものである。

 本展ではドイツの絵画の流れを、ドイツ表現主義、フォービズムから始まり、それがキュビズムにつながった頃にピカソとクレーが存在し、その後にシュルレアリスムにつながるというような位置づけをしている。しかし私はというと、フォービズム絵画は相性が良いし、シュルレアリスムも嫌いではないのだが、その間に位置するとされるピカソやクレーとは極めて相性が悪いという奇妙なことになってしまう。やはり人の好みは単純に絵画史だけでは分類できないものなのか。

 なおこのような状態なので、本展についてはあまり個人的には興味が湧かなかったのが実際のところ。


 これで今回の名古屋での予定は終了である。次は別のイベントが控えている。と言うわけでとりあえず地下鉄で名古屋駅に移動、そこから名鉄に乗り換えて犬山へ向かう。名古屋からは新鵜沼行きの特急に乗車。この車両は後ろの2両は特別車両とのことで追加料金が必要なのだが、前方の車両は普通料金である。特急列車は快調にすっ飛ばし、まもなく犬山に到着する。降り立った犬山駅は地方の中規模都市の駅というイメージ。ここから犬山城まで歩くことにする。

 犬山駅に到着

 犬山城はいわゆる現存12天守の一つである。犬山城の登城筋は観光開発が進んでおり、規模こそ違うものの彦根城周辺に雰囲気が近い。それはともかくとして、この犬山城と犬山駅の間なのだが、これがまた「歩くことに問題があるというわけではないが、あまり歩きたいと思わない」というこれまた微妙な距離である。城の手前まで来たときにはかなり疲労が溜まっているのを感じる。

 以前は多分堀の底だったのだろうと思われる車道を橋で越えると、いよいよ城の領域である。しかしここからどこの城にもつき物の上り坂に差し掛かる。この城は決して標高が高い城ではないのだが、それでもやはり城は小高い丘の上に立っているという約束事は守っているのである。

 やがて天守が目に入る。さすがに現存12天守の1つだけあって風格が違う。しかしここからさらに難関が。現存天守につき物の急な階段が私の前に立ちはだかったのである。別に本来ならこの程度は何てことないのだが、このときは名古屋&犬山ウォークで散々足腰を苛めぬいた後である。一段の段差がやたらに大きい階段(というよりもはしごに近いのだが)が私の足腰にとどめをさし、最上階に上りついたときにはひざが笑っている状態になってしまう。

 ちなみに犬山城はつい最近まで犬山城主の末裔の所有であり、現存12天守のうちで唯一の個人資産であった。城主の末裔とはいえ、多分今となっては普通の人になっている子孫にとってその維持管理は楽ではなかろう。そのためか微妙に管理が行き届いていないようなところが感じられるのだが、最上階に上ったときにそのことを一番感じさせられた。最上階へと続く階段が狭いせいで多くの観光客が最上階から降りられずに滞留してしまっていたのだが、すると床がギシギシとかなり揺れるのである。よく見ると床板にも隙間があり下の明かりが漏れていたりなど、板子一枚下は地獄というのを嫌でも感じさせられるのである。さらに驚いたのが、最上階周囲を巡る回廊には、腰よりも低い高さの欄干が巡らしてあるだけで、転落防止のネットの類が全くないこと。バランスを崩したらそれだけで転落しそうである。「危険ですから欄干にもたれないでください」という貼り紙がしてあったが、そんなものもたれろと言われてももたれられない。私はそれでなくても高所恐怖症なのに、今は足腰がガクガクでよろめいたら踏ん張れない状態。ふらついて転落して夕刊の三面記事に載る羽目にはなりたくなかったので(「犬山城から男性転落 自殺か?」なんて書かれるのは御免だ)、さすがに回廊を一周するのはやめた。

 

    天然の堀になる木曽川        欄干はこの高さしかありません

 上から眺めると、犬山城の裏手は木曽川が自然の堀となっており、こちら方向の守りはかなり堅固である。正面方向を堀などで守れば非常に堅固な城になる地形であることが分かる。いつも城郭はその建っていた位置に来るとよく分かるのだが、常に地形上の必然性があるのである。この辺りが現地を訪問して感じられる醍醐味の一つというか。

 城の見学を終えると再び長い道のりを駅まで移動。それにしてもこれだけの距離があるのに、バスも運行していないというのはどういうことなんだろう。

 さてようやく犬山駅に到着すると岐阜行きの列車が到着するホームで待つ。しばらくすると、明らかに鉄道マニアと分かる集団が、カメラやビデオを構えてホームの端のほうに向かって走り始める。一体何があるんだろうか?と疑問を感じたが、鉄道マニアでもない私には全く想像がつかない。彼らがカメラを構える先を凝視していると、しばらくして「回送」表示のついたパノラマカーが私が待っているホームに入線してきた。後に確認したところでは、これは名鉄の7000系という列車らしい。鉄道マニアではないが、出先では常にkissデジをスタンバった状態で準備している私は、とっさに彼らと共に記録写真を撮っておく。

 

 ところであちこちで感じることだが、どうも最近の若い鉄道マニアはコンパクトデジタルカメラ(コンデジ)を使用する者が増えているようだ。しかしシャッターが切れるのにワンテンポのタイムラグがあるコンデジで鉄道写真がキチンと撮れるんだろうか? 私は別に鉄道写真を撮るわけではないが、やはりシャッターが自分の思ったタイミングとずれるのが嫌なので、デジタル一眼レフを愛用している。そう言えば最近は「使い勝手が良い」という理由でデジタル一眼レフを使用する女性が増えているとか。どうも奇妙な感覚である。なお私の最近の悩みは、なぜか彼らと行動が共になるなることが最近多いのだが、すると私が一番気合の入った鉄道マニアに見えてしまうことである。私は決して鉄道マニアではないはずなのだが・・・。そもそも鉄道マニアとは、趣味の世界の中でもトップクラスの強者が揃っている分野である。私のような半端な野次馬が鉄道マニアを名乗れば彼らに失礼である。

 パノラマカーがホームを通り抜けていくと、入れ替わりに岐阜行きの列車が到着。これで岐阜まで移動。岐阜に到着した頃にはすっかり日が暮れていた。予想以上に犬山で時間を消費してしまったようである。岐阜でJRに乗り換えると、家路へと急いだのであった。この日は名古屋&犬山ウォークで2万2000歩。帰りの車中では疲労で爆睡したことは言うまでもない・・・。

 

 

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