展覧会遠征 愛媛・高知編

 

 ガソリンの異常な高騰が影響して、今年はにわか鉄道ブームが沸き起こっているという。各鉄道の乗車率が軒並み上昇し、今年の夏の青春18切符の売れ行きは、何と前年の3割り増しとか。青春18については私も宣伝に荷担した口だが、この調子ではあの米原での席取り合戦で今年は死人が出るのではないかと後悔することしきり。だからと言うわけではないが、今回は青春18を使わない旅となった。今年は四国方面強化年間になっているのだが(何のこっちゃ?)、未だに四国方面で未踏の地域が愛媛−高知といった四国南西部地域である。というわけで今回は愛媛ー高知方面への遠征を実行することとした。

 まずは山陽本線で相生まで移動、ここから岡山まで新幹線で移動してから特急しおかぜで松山まで移動である。以前に徳島ー香川遠征の時にも言ったように、四国のJRはとにかく路線が貧弱で、普通列車を使うと特急の2〜3倍ぐらいは時間がかかるというのがセオリー。本来なら青春18切符を使いたい私でも、四国地域では必然的に特急を使わざるを得なくなるのである。なお相生まで山陽本線で行ったのなら、そのまま岡山まで行けば良いようなものだが、ここであえて新幹線に乗り換えているのには理由がある。新幹線から特急列車に乗り継ぐ形で切符を買う場合、乗り継ぎの特急の特急料金が半額になるのである。だから今回の事例のように新幹線が短距離で、そこからの特急が長距離の場合は、結果として料金が安くなるというわけ。なおこの場合、あくまで新幹線の切符と特急の切符は同時に買う必要があるので、エクスプレス予約ではなく緑の窓口に行く必要がある。これは結構知られた節約技である。

 さて特急しおかぜは5両編成の電車。JR四国が投入した新鋭の8000系である。なお特急しおかぜには実は気動車の編成もあり、その時は2000系で運行され、アンパンマン列車となる。実はこのタイプのしおかぜには前回の徳島−香川遠征の時、丸亀から高松に移動する際に乗車している。

  

 8000系の内部は木目調の落ち着いた雰囲気である。なおしおかぜは瀬戸大橋を渡ると宇多津で高松から来た3両編成の特急いしづちを前に連結して、最終的には8両編成の形で予讃線を突っ走ることになる。なお予讃線は電化されてはいるものの、単線の上に線形も決して高速走行に適しているとは言い難い(細かいカーブが多い)ので、この列車は振り子機能を持っており、それによって最高130キロの営業速度を出せるとのこと。

 途中で増結された先頭車

 とは言うものの、路線が悪いというのは如何ともしがたいところがある。乗車していると細かい揺れは常にあって不快だし、カーブの度に車体が右に左に振れるので、乗車中に移動しようとする場合は要注意だ。私としては振り子の大きな揺れはシートに座っている分にはあまり気にならなかったが(一度、ゴミを捨てようと車内を歩いた時には、途中で吹っ飛ばされる羽目になったが)、常に続く細かい揺れの方が気になり、もしかしたら電車酔いするのではと少々不安になった。

 列車はロボコンの名門校として有名な詫間電波高専で知られる詫間などを抜け、たまに右手に海を見ながら沿岸部を突っ走る。徳島方面を走った時などに比べて明らかに沿線人口が多く、乗客もかなり多い。

 3時間弱を要して松山に到着。観光案内所に行くと、路面電車の1日乗車券(300円)と松山城の入場券にロープウェーの往復券、坊ちゃん列車の乗車券がセットになったセット券(1000円)を購入すると、そのまま路面電車で予約したホテルに移動。まだチェックイン時間前であるが、とりあえずチェックイン手続きだけ済ませて、トランクを預かってもらう。

 松山駅前

 身軽になったところで再び路面電車に飛び乗り、まずは道後温泉まで移動する。それにしてもこうして乗ってみると路面電車は実に便利である。また松山の雰囲気も非常に私の肌に合っている。広島といい、松山といい、私は路面電車のある町が好きなんだろうか。

  

 道後温泉駅周辺はいかにも観光地の雰囲気、商店街を抜けると有名な道後温泉本館の建物が見える。とりあえず記念に写真を撮っておくが、今はまだゆっくりと風呂になど入っている場合ではないので先を急ぐ。まずは朝食を十分に摂れなくて空腹が身にしみてきているので腹ごしらえからである。そのための店は事前に調査済みである。

  

道後温泉本館

 私が訪れたのはにきたつ庵。水口酒造という酒造所が経営する和食の店である。酒造所が経営しているだけにうまい酒が飲めるとのことだが、酒の味は「眠い」か「頭が痛い」しかない私にはこっちは全く無関係。私の目当てはここで食べられるという桶料理である。桶料理とは桶の中に和食の会席料理のようなものを盛り合わせたもので、この松山の名物だそうな。私は桶料理に刺身等が組み合わさったにきたつ膳(2300円)を注文。

 まずは小鉢や刺身から始まる。ここで「うまい」という言葉が出る。魚の鮮度が良いし、小鉢の味付けも巧みである。次にいよいよ桶料理が登場。もう見た目からして楽しく食欲をそそる。しかし決して見た目だけの料理でないのは食べてみると分かる。驚いたのはアロエの料理とか、セロリの浸しとか、キュウリのビール漬けとかおよそ私の常識では「とても私には食べられない」はずのものがうまいのである。これは衝撃的体験だった。好き嫌いとは、実は素材の悪さや料理のまずさで作られるという説もあるのだが、まさにその通りなのではないだろうか。

  

  

  

 入り口で靴を脱いで店内にあがり、中は椅子という和洋折衷のような奇妙な形態の店だが、店内は落ち着いた雰囲気で非常にお洒落。これは女性も喜びそうである。その上に料理もうまい。これはお勧めである。

 腹ごしらえを済ませると、まずはこの付近の美術館に立ち寄る。ここが第一目的地である。


セキ美術館

 道後温泉にあるこじんまりとした私立美術館である。所蔵品は近現代の日本絵画が中心で、季節によって所蔵品を入れ替えて展示しているようである。

 展示点数は多くはないのだが、日本画から洋画まで所蔵品のレベルは高い。日本画では上村松園、上村松篁、横山大観、川合玉堂、東山魁夷など、洋画では黒田清輝、藤田嗣治、小磯良平など蒼々たる面々の作品が揃っている。またロダンの版画作品といった個性的なコレクションも展示されており、なかなかに興味深い。

 小粒ではあるがピリリと辛いという印象の美術館である。また建物の構成も秀逸。


 小さい美術館だと侮っていたが、コレクションのレベルが高くて驚いた。このような侮れない美術館はまだまだあるんだろう。

 美術館の見学が終わったところで次の目的地への移動である。とりあえず道後温泉駅に戻って時刻表を確認すると、坊ちゃん列車の発車時間が近い。どうせこの際だからこれに乗車しておくことにする。

 夏目漱石の坊ちゃんが松山を舞台にした半自伝的小説であることは知られているが、この中に道後温泉にマッチ箱のような汽車に乗って行ったとの記述がある。この時に漱石が乗ったのは、当時松山を走っていた路面電車ならぬ路面汽車だったのだという。その当時の汽車を観光用にディーゼル機関車で再現したのが坊ちゃん列車である。一見小型蒸気機関車に見えるディーゼル機関車が、小型の客車2両を率いて走行している。

  

   坊ちゃん列車              客車はとにかく狭く暑い

 とりあえずこれで松山市駅まで移動。当時の汽車を知る人の記憶に基づいて再現したという汽笛の音がまた泣かせる。とは言うものの、正直なところこの列車は乗るものではなく、外から見るべきものだということを痛感したのが本音。客車はとにかく狭いし、木製の座席は固いし、冷房がないので暑いし、あまり快適な旅とは言い難い。まるで護送される囚人のような気分になってしまった。

 松山市駅に着くと、汽車が切り離され、何と人の手で転回作業が行われる。汽車の転回作業が終わると、次は客車を人が押して再連結。その作業の間は後から到着した電車は駅の手前で待たされることになる。なんとなく交通の邪魔になっているような気が・・・なんてことはここでは言うべきではないのだろう。

  

転回作業はすべて人力

 松山市駅から再び電車で折り返すと、次の目的地である。


「八犬伝の世界展」愛媛県美術館

 曲亭馬琴(滝沢馬琴)が江戸時代に執筆した南総里見八犬伝は、当時に爆発的な人気を博し、講談や芝居などのネタになったり、多くの本や浮世絵の類も発行されている。今年は馬琴没後160年とのことで、そのような八犬伝絡みの文物を展示した展覧会である。

 展示の序盤は、馬琴の肖像画や講談本などで今一つの印象だったのだが、中盤の浮世絵の展示あたりから面白さが増してくる。物語の絵画だけに、構図や見せ方などが派手で、演出効果を計算して描いてあるのが非常に面白い。そもそもが今日の映画の宣伝ポスターのようなものと言えるのだが、よく見てみると今日の漫画の構図に近いものがある。今日の漫画の隆盛の基礎は、やはりこの頃からあったのだということを改めて認識させられる。

 なお最後の部分は今日の八犬伝の展示があったが、人形劇八犬伝はともかくとして、あの角川書店の超駄作映画を出してくるのはちょっと・・・。


 改めて考えてみると、八犬伝という作品自体も今日の「燃え」(「萌え」ではない)展開の黄金パターンを確立しているように思える。ある使命を背負った勇者達が共通の目的のために集まって来るというのは王道的パターンだし、それぞれ主人公だったヒーローが一堂に会するというのは一番盛り上がる展開でもある。実のところ、私自身が本展を見ている時に、無意識に「1号、2号、V3。ライダーマン、X、アマゾン、ストロンガー。スカイライダー、スーパーワン・・・・9人のライダー、いつまでも。」と口ずさんでいたのである。なるほどこの黄金展開は、この頃から既に原型はあったわけである。

 美術館を回った後は松山城見学とする。日本には現存天守と呼ばれる当時のまま残存している天守が12あり、いずれも国宝か重要文化財に指定されている。松山城もその一つで、重要文化財に指定されている。松山城はそもそもは賤ヶ岳の七本槍の一人である加藤嘉明が建設に着手したが、その後の国替えなどで城主が転々とし、最終的には松平家が治めることとなったという。松山城は幕末において無血開城されたので破壊を免れたとのことである。しかしいつの時代にもどこの国にも、必ず「信じられない馬鹿」という者は存在するものだが、松山城も昭和8年に国宝に指定される直前、このような馬鹿の放火によって大天守以外の建物が焼失してしまったという。しかしその後、国宝指定のために集めていたデータなどを元に、昔の技法を再現する形で小天守等が再現され、今日に至っている。

 松山城の麓まではロープウェーで登ることが出来る。説明によるとこのロープウェーは全長200メートルほどで日本で最も短いロープウェーだとか(そんなこと自慢になるのか?)。ロープウェーを降りると急な坂道を徒歩で10分ほど登ることになる。石段よりはこの方が楽だが、生憎とこの日は各地で35度を超えるという猛暑日。まるでサウナの中で歩いているような状態であり、異常に体力を消耗する。ようやく目の前に連立天守の優美な姿が見えてきた時にはヘロヘロの状態になってしまった。

 目の前の建築物に圧倒される。非常に優美な城である。私が今まで行った各地の城の中で、この城を凌ぐ優美な城は姫路城しか知らない。また小天守などは復元建築だというが、徹底的に当時の技法の再現にこだわって建築されているので(当然であるが木造である)、復元建築であるという違和感はなく風格がある。やはり天守は木造に限ると痛感するところである。

 松山城を十分に堪能すると、一旦ホテルに戻りチェックインをする。私が今回の宿に定めたのはチェックイン松山。安価でありながら、奥道後の温泉を運んだという大浴場があるという私好みのタイプのホテルである。なおこのホテル。松山最大の繁華街のすぐそばにあるのだが、今日は「土曜市」とかで多くの出店が出て、買い物客でごった返している。ちなみにこの土曜市、治安上の問題かアルコールの販売が自粛されているようで、そう言う意味では私向きのイベントである(笑)。

 部屋の照明は明るく、これは私好み。ホテルの部屋に入ってしばらくゆっくりし、炎天下の行軍による疲労をしばし癒すと、再び道後温泉に向けて出陣する。やはりここまで来た以上、話のネタとして道後温泉本館には入っておく必要があるだろうと考えてのことである。

 ただその前に夕食を先に済ませておく、今回夕食を摂ったのは道後温泉の商店街の入口付近にある味倉という店。どうも店の見た目はゴチャゴチャして品がないのであるが、愛媛の海の幸を食べさせる店とのこと。ここで有名なのは鯛飯なのだが、刺身を載せたような南予風と鯛をご飯と一緒に炊いた中予風があるとのこと。ただ中予風の方は20分以上待たされるとのことなので、せっかちな私は南予風鯛飯(1000円)を注文する。

  

 ご飯の上に鯛の刺身が載っており、食べ方としてはまず薬味をしょう油に混ぜ、そのしょう油の半分をトロロに加えるとこれを飯の上半分にかけ、下半分にはしょう油だけをかけろとのこと。早速戴くが、これが実にうまい。鯛の身に甘味があり、これがトロロとマッチして食欲を刺激する。またトロロのかかった上半分と、鯛だけの下半分でまた風味が変わったりしてこれがなかなか。

 夕食を堪能した後は道後温泉のシンボルとなっているからくり時計を見学してから、道後温泉本館へと向かう。道後温泉本館とは要は単なる銭湯であるのだが、明治時代に建造された特徴的な建物が重要文化財に指定されて名物となっている。なお支配人は巨大黒柳徹子で、もののけも入浴に来るぐらい有名である・・・じゃなくて、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」に登場した風呂屋のモデルとなっている。

 道後温泉入り口のからくり時計

 今や有名な観光地だけに、人でごった返している。ちなみにここはお茶菓子に休憩室付の贅沢コースから、入浴だけの貧乏人コースまで各種あるのだが、私は当然のように貧乏人コースである「神の湯」に入浴である。中に入ってみると非常にレトロな感覚はあるのだが、なんてことはない普通の銭湯。なお最近、県の指導によってここの湯にも塩素が加えられることになって多くの温泉マニアを嘆かせたのであるが、心配していたほどには塩素の臭いは強くはなかった。ただ温泉のキャラクターが今一つ弱い。確かにさら湯のような肌あたりの強さはないが、なめてみても味がするわけでなく、ぬるぬるするというわけでもなく、意外と印象の薄い湯である。どちらかと言えば、湯自体を楽しむと言うよりも、建物の歴史や風景も含めて楽しむ観光地としてのニュアンスが強い。実際、浴室の壁に「坊ちゃん泳ぐべからず」なんて看板が掛かっていたのは笑えるのであるが。

 結局この日はホテルに戻ると大浴場で再入浴(馬鹿ガキ様ご一行が大騒ぎしていて、ゆっくり入浴できなかったのが残念だが)、マッサージチェアで身体の疲れをほぐすと(この日は2万歩を超えていた)眠りについたのである。

 

 翌朝の起床は6時。疲れていたはずだが意外とすっきりと目覚める。6時半にバイキング形式の朝食をたっぷりと腹にたたきこみ、まずは燃料補給。なかなかに私のツボを押さえているホテルである。ちなみに私がホテルに求める条件は、まず安価な宿泊料(笑)とインターネット接続。これにしっかりした和食系の朝食と明るい照明に大浴場があれば完全にツボである。というわけでこのホテルはかなり私のツボ。松山の町の雰囲気も気に入ったし、これはいずれ遠くない未来に再訪することがありそうである。

 7時頃にホテルをチェックアウトすると、路面電車でJR松山駅に移動、ここから特急いしづちで宇和島まで移動することになる。この日に使用する切符は、JR四国が発売している「四万十・宇和海フリー切符」である。この切符は宇和島−若井のJR四国の路線、窪川−宿毛の土佐くろしお鉄道の路線、宿毛−宇和島の宇和島自動車のバス路線が乗り放題の切符で、いくつかのバリエーションがあるのだが、私が購入したのは、松山−宇和島、窪川−高知の特急自由席にも乗車できるパターンのもので4800円。4日間有効なので、本来はこれで足摺岬周辺を観光し倒すという切符なのだが、当然ながら私はそんな長期間この地域に滞在する暇などない。というわけで、たった1日で元を取ろうという構想である。

 おなじみ2000系車両

 ホームに2000系ディーゼル車の特急いしづちが入線してくる。予讃線は伊予市以西は非電化であるので、宇和島まではディーゼル車での運行となる。向井原まで市街を走行すると、ここから特急は内陸に分岐した内子線経由のショートカットルートを通過することになる。元々の予讃線は、海沿いの集落をつなぐルートを通っていたのだが、スピードアップのための短絡線として内子線が利用されるようになったとか。この辺りは山深い中でトンネルも多いが、そもそもスピードアップのために作られたコースなので、列車は快調にすっ飛ばす。やがて伊予大洲に到着。ここで海岸コースと再び合流である。伊予大洲の川沿いに城が見えるが、これは大洲城。明治時代に天守が老朽化のために解体されたが、2004年に伝統工法で復元建築されたとのこと。遠くから見たところなかなか風格がある。残念ながら今回は立ち寄っている余裕がないので、これは次回の課題とする。

 再建された大洲城

 宇和島の手前辺りで海岸線が見える。天気は良いし海岸線が非常に綺麗である。余裕があればこの辺りで一泊して、バスででもこの海岸線を回りたいところだが・・・。これは次回以降の課題である。間もなく列車は宇和島駅に到着。到着寸前に車窓から宇和島城が見える。平山城だから当然ではあるのだが、私がイメージしていたよりは高台の城である。何となく先が思いやられる。

 宇和島付近の海岸

 宇和島駅前は私が予想していたよりもずっとにぎやかである。さてここからの移動だが、バスを使いたいところなのだが、バス停に行ってもどのバスに乗ってよいのやら路線がさっぱり分からない。しかも本数もあまり多くはなさそうな模様。常々感じるのだが、やはり路線の明快さ、運行本数、乗り降りのしやすさ、すべての点で旅行者にとっては路面電車の方がバスを上回る。確か宇和島城まではそう遠くはなかったはずなので、トランクを駅前のロッカーに放り込むと、結局はタクシーを利用することにした。

 宇和島城登城口までワンメーターで到着。しかしここからは見上げるような石段を登ることになる。しかしこの石段がほとんど昔のもののままのようで、登りにくい事が甚だしい(当然であるが、城の石段は防衛上の理由からそもそも登りにくく作っているものである)。気温が上昇してきていることもあって、すぐに息が上がり始め、購入していた伊右衛門もあっという間に飲み干してしまう。

 宇和島城は松山城同様に現存12天守の一つである。こじんまりとした印象のある城であるが、築城の名手として知られる藤堂高虎が手がけた城というだけあって、防御の点ではかなり堅固なものであることは城の周囲に残された石垣を巡ると感じられる。ここに城壁と櫓が配されると容易には攻め上れるものではない。また今日では想像しにくくなっているが、昔は城の北西に海が迫っており、その水を引き込んだ堀も周囲に巡らされていたというから、難攻不落の水上要塞でもあったのである。

 なおこの城にはその後、伊達政宗の長子である秀宗が封じられ、そのまま幕末まで宇和島伊達家が支配したという。宇和島藩は10万石の小藩であったが、高野長英などの人材を輩出し、幕末にも名を残している。

 さすがに現存12天守の一つだけあり、小なりとはいえ風格のある城である。最上階からは宇和島市街を一望することが出来る。なお現存天守のお約束として階段は狭くて急。ここまでの石段でガクガクになった足腰にはこの階段はかなり恐怖。転落しては洒落にならないので、上り下りには慎重さを要する。

 城の見学をすませると宇和島駅にUターン。昼食を摂ろうと思ったが、暑さにあたられたのか食欲が出ない。それにそもそも昨日から伊右衛門を1日当り3リットルは飲んでいるせいか、胃液が薄まってしまって食事を胃に入れると吐き気がする始末。やむなく駅前の喫茶店で軽くトーストだけを食べ、後はパン屋で菓子パンを数個買い込む。

 さてこれからはこの地域の鉄道の視察ということになる。そもそもそのためのフリーパス購入である。まずはここから窪川まで(正確に言えば若井まで)はしまんとグリーンラインこと予土線になるのであるが、ここを清流しまんとトロッコ号に乗車しようという考えである。宇和島駅に入ると既にトロッコ列車が待ち受けている。「ん?どこかで見たことのあるような・・・」そう、まさしく私がこの春に大歩危で乗車したトロッコ車両そのものであった。どうやら夏休みに運行されるこちらの路線のために、はるばると遠征してきたようである。

 見覚えのあるトロッコ列車

 昨日から夏休みに突入、ましてや今日から青春18切符の使用が可能になるということで、トロッコ車内は直に家族連れで満員となる。個人客が数人+カップル数組だった以前の大歩危トロッコとは乗車率にかなりの違いがある。半月以上前から今回の遠征を計画し、事前にチケットの手配を済ませていた私は、当然のように窓側の席を確保しているが、動きの遅かった者は通路側の席しか確保できなかったようである。なお私のボックス席には、後で4人の家族連れが入ってくる(1人は幼児だったので、3人分の指定席だけを確保していたようである)。

 やがて重い音を立ててトロッコ列車が動き出す。しかしそれにしても暑い。トロッコ列車は冷房はないのは当然だが、とにかく日差しが強い。確かに吹きさらしで風は強いのであるが、その風は生暖かく、あまり快適とは言い難い。冬のトロッコなど寒すぎて乗れた物でないのは間違いないが、夏のトロッコが涼しいというわけではないらしいということを感じずにはいられなかった(春の大歩危トロッコは、トンネルに入るたびに寒かったのだが)。

 最初の辺りは四万十川などと言っても小川がチョロチョロ遠くを流れている程度の物で、ひたすら山間の田んぼの中を走るのみでどうにも面白さに欠ける。私の頭の中を「これは期待はずれか」という思いがよぎる。目の前を見ると案の定、向かいの家族連れの子供が退屈そうにうつらうつらしている。

 

 しかし風景が一変するのは四万十川の中流域以降。水量が増えてきていかにもそれっぽい渓谷の光景となってくる。クライマックスは江川崎駅から土佐大正駅の間辺り。水量の増えた四万十川が列車の右に左にと流れる。こうなると車内は大撮影大会の場と化す。本格的な一眼レフカメラを持参したいかにもマニアっぽい男性から、コンパクトカメラ持参の家族連れまでが一斉にシャッター音を鳴り響かせる。鉄道マニアでも写真マニアでもない私だが、こういう時は素直に一緒に大撮影大会に興じることにする。

 満員の車内は大撮影大会

 やがて列車は窪川に到着する。ここから高知行きの特急に接続しているが、それに乗ってしまったのではフリーチケットの元が取れない。私はここから逆向きに移動することにする。窪川から宿毛までをつなぐ第3セクター路線である土佐くろしお鉄道に乗っておこうという計画である。

 土佐くろしお鉄道とは、建設途中で工事が凍結された高知県内の旧国鉄の宿毛線及び安佐西線を高知県が引き受ける形で設立された第3セクター会社である。そのため路線は窪川−宿毛間の中村・宿毛線と後免−奈半利間のごめん・なはり線の二つに分断されるという奇妙な形態になっている。ごめん・なはり線は次回以降の課題とするとして、今回はとりあえず中村・宿毛線に乗車しておこうという考えである。

 窪川駅前は本当に何もない

 駅前の怪しげな喫茶店で時間をつぶすと(乗り換え待ちが1時間)、高知方面から到着した特急あしずりに乗車する(またも2000系列車)。ここから乗務員がJR四国から土佐くろしお鉄道にスイッチされるらしい。若井を過ぎたところで予土線と別れ、長いループトンネルをくぐるとやがて海沿いにまで降りてくる。30分強ほどで四万十川沿いの町である中村に到着。ここで宿毛行きの普通列車に乗り換えになる。セミクロスシートのオーソドックスなディーゼル車である。ここから宿毛は30分。比較的新しい路線らしく、路線自体が高規格に作られているので、普通列車ではあるものの結構快調に突っ走る。鉄道設備は非常に優れているのだが、やはり問題は沿線人口か。やはりかなり閑散とした印象がある。中村までは路線は海沿いを走っていたが、ここからは山間の田園地帯という雰囲気で、以前に乗車した若桜鉄道と沿線の風景は類似している。ただそれでも乗客はそれなりにはいたようであるが。

 宿毛駅に到着すると駅から外に出ることもなくすぐに折り返す。ここで車両を乗り換えである。帰りに乗車したのは中に風鈴などをあしらったラッピング列車。「だるま夕日号」の愛称があるらしい。ロングシートになっているのは、お座敷列車などに改造できるためとか。これで再び中村まで折り返してくると、ここで特急南風に乗り換え、そのまま土讃線で高知に直行である。窪川−高知間の土讃線が走行するのはひたすら山の中で、海が見えることはほとんどない。高知近郊までは沿線人口も絶望的なまでに少ない。沿線に住宅が急に増えてきたと思えばすぐに高知に到着である。

  

   左側が「だるま夕日号」       内部にはなぜか風鈴にTシャツ

 四国のJR路線では、瀬戸大橋を基点として予讃線、土讃線が幹線という位置づけであり、予土線経由のルートは裏路線という印象が強い。またこの路線沿いは、松山から伊予市にかけてぐらいは住宅が多いのと、宇和島はそれなりの人口がいそうであるが、それ以外の沿線地域では過疎化もかなり進行しているようであり、それがこの路線のしんどさにつながる。その点で予土線が四万十川を前面に押し出した観光路線戦略でいくのは正解だろうと感じる。ただ高知−窪川間の土讃線は沿線風景にも見るべきものがなく、ある意味ではここが一番しんどそうである。やはり一番の問題は過疎化の進行であり、そういう観点からも「21世紀の地域振興と交通について考える市民の会」としては、日本中の活力を吸い上げて国全体を死に至らしめようとしている東京の、早急なる解体を改めて提言する。

 高知駅は駅前が再開発工事中らしく、現在は非常に使い勝手が悪い状態になっている。駅前を大きく迂回して臨時のバス停の横を抜けると、まずはホテルに移動する。

 高知駅前は再開発工事中

 高知で確保したのはスーパーホテル高知。温泉、朝食付で4980円という低料金を実現するために、部屋は暗証番号式のオートロックにして、チェックアウトもフリー。フロントの人員を最小限にするなどの徹底したコスト切り詰めが目立つホテルである。これらをチープと見るか、合理的と見るかで評価の分かれそうなホテルである。なお個人的には部屋の照明が暗かったのがマイナス。

 

 とりあえず部屋に荷物を置くと夕食のために出かける。今回夕食を摂る店は事前に調べてある。はりまや橋のところにある酔鯨亭。高知郷土料理と鯨料理の店。私が予約していたのはネット特別コースである鯨海酔候主(5250円)。内容はドロメ・サエズリ、クジラの刺身、鰹・鯨のタタキ、青さ海苔天ぷら、手長エビ唐揚、鯨の竜田揚げ、鯨の生姜焼き、清水サバの棒寿司といったものである。

  

  

  

  

 店の雰囲気は料理屋よりも居酒屋である。そのせいか料理の味付けがやや濃い目であるのが、アルコールを摂らない私としては少々気になる。料理はいずれも普通に美味しいというのが本音。ただ美味しいのだが、残念ながら驚きや感動が今ひとつないのである。鰹の鮮度は確かに良いし、料理自体は悪くないので損をしたと感じるわけではない。ただ個人的にはもう少し何らかの感動が欲しいのである。例えば竜田揚げや生姜焼きなどの鯨料理などもうまいが、これぞ鯨というインパクトが薄い。一番鯨らしさが出ていたのは刺身か。マグロと牛の中間のようなもっちりとした歯ごたえには鯨のオリジナリティがいくらか感じられた。

 日本にとって当然の権利である調査捕鯨でさえ、文化差別主義テロリスト団体のシーシェパードやテロ支援国家オーストラリアの妨害を受けるような異常事態では、素材の入手の点でも鯨料理店は大変だろうと思われる。素材の入手難が料理の味にも影響はしているのかもしれない。

 そもそも鯨は牛が食べられないから代わりに食べるというものではなく、牛と違ってうまいから食べるという代物である。それを理解できずに差別意識むき出しに「聖書に食べてよいと書いてない」とかいう理屈にもならない屁理屈を振りかざしてテロ行為に走る狂信者や、彼らの策動で鯨が異常繁殖して魚資源が壊滅的打撃を受けることになれば、自分たちの牛肉の売り上げが増えるのではないかと汚い皮算用をしているオーストラリア政府に対しては、心からの軽蔑の念を禁じえない。ここは日本人としては筋を通す必要があろう。

 夕食を済ませると近くのはりまや橋をのぞいていく。はりまや橋はよさこい節に登場するために非常に有名であるが、現地を訪れた観光客は川も何もないところに欄干だけがポツリとある(大分前に川は埋め立てられたらしい)はりまや橋を見て絶句するとのこと。おかげで札幌時計台と並んで堂々の「日本三大がっかり名所」に上げられる始末(ちなみに札幌時計台とはりまや橋は不動のレギュラーだが、3つめについては諸説あるらしい)。この惨状に高知県では、観光用のはりまや橋を整備したと聞いている。そこでひねくれ者の私は、いかほどのものかと野次馬に行ったというところ。

 再整備したはりまや橋

 目的地は本来のはりまや橋(今では車がビュンビュン通っている)の脇に整備されていた。赤い欄干のいかにもそれっぽい太鼓橋として作ってあり、橋の下には一応川らしく見せるために水路も作ってある。うーん、これで果たしてがっかり名所返上になるんだろうか・・・。正直、あまりにもわざとらしくて逆に「インチキくせー」という言葉が出てしまった。そもそもはりまや橋をその名の通りの橋としてとらえているところに辛いものがあるわけで、今やはりまや橋は大阪の日本橋や心斎橋のように橋としての意味よりも地名としての意味しか残っていないと思うのだが・・・。なお高知がここまでしてはりまや橋にこだわったのは、高知には意外と観光名所がないという現実もあると思われる。坂本竜馬などのエピソードには事欠かない土地なのだが。

 この日はこのまま夜の高知をブラブラとホテルまで徒歩で帰宅。しばらく部屋で休憩してから風呂に入ると(男女入れ替え制)就寝したのだった。

 

 翌日は朝食をホテルで摂ると7時過ぎにはチェックアウト、高知駅のロッカーに荷物を放り込んでから、路面電車で目的地に移動することにする。松山もそうであったが、やはり路面電車は非常に便利である。とりあえず今日の移動は路面が中心となる予定なので、土佐電の市内乗り放題券(500円)を購入しておく。はりまや橋で乗り換えて東へ。目的地はやや郊外の橋を渡った先にある。

 土佐電の路面列車


「熱帯 楽園 浪漫 美術家たちの南洋群島」高知県立美術館で9/15まで

 大正期から昭和初期にかけて、日本は資源確保を目指してミクロネシアなどの南方諸島に進出したが、その頃、多くの芸術家達も文明社会から離れた未知の土地に憧れて進出していった。そのような芸術家達の作品を集めた展示会。

 未開の地に対する憧れというと、タヒチに楽園を求めて住み着いたゴーギャンが真っ先に頭に浮かぶが、やはり本展の展示作もゴーギャンの作品に相通じる空気を感じる作品が多い。プリミティブアートの影響、単純で素朴な表現、鮮烈な色彩など。共通しているのは豊かな楽園のイメージで、当時の日本人がこの地域をどう思っていたかがよくうかがえるが、そこにはいささかの非現実性も漂っている。

 どうもこの手の原始社会は芸術家に対して強い刺激を与えるようではあるのだが、それが常に新しい芸術に昇華されるかと言えば疑問なところもある。結局は本展の作品の大半も単なる異国趣味に終わってしまっていた気がしないでもない。


 ここで芸術家が持っていた豊かな楽園という南方のイメージは日本人共通のものだったらしく、軍隊でさえそのイメージから脱せず、食料の現地調達という非現実的な考えに基づいた作戦構想を立案してしまい、その結果として多くの将兵を南方で餓死に追い込むことになったという。何とも罪深い話ではある。

 美術館を出ると再び路面電車の駅に移動。それにしても今日も暑い。普通に表を歩いているだけで死にそうになる。時々自販機で水分を補給しながらの行軍である。間もなく到着した列車に飛び乗ると、次の目的地である高知城へ移動する。

 高知城はかの有名な山内一豊が建設を手がけた城であり、丸亀城、松山城、宇和島城と並んで現存12天守に含まれる。もっとも現在の天守は江戸時代中期に火災で焼失したものを、以前になるべく忠実な形で再建されたものだという。再建されたのが江戸時代と言うことで現存12天守に含まれるが、その中では新しい部類に属することになる。

 さて高知城であるが典型的な平山城である。だから例によっての階段登りになるが、ここの城の高さはそう高くはないので今までに比べれば楽な方。ただ暑さが尋常でないのでそちらからの消耗が激しい。ようやく天守に到着すると内部に入って見学。高知城が珍しいのは屋敷がまだ残っていることである。天守が残存している城でも屋敷も残っている例は珍しい(例えば姫路城の場合、屋敷は火災で焼失している)。天守にはこの屋敷から入れる形になっている。

 高知城の天守で特徴的なのは、とにかく天井が低いこと。当時は日本人の体格が小さいので、天井の低い建物は特に珍しくはないが、それでもこの高知城の天井の低さは際だっている。なお私は以前に「高知城の天井が低いのは、幕府によって天守閣の高さ規制が行われているのに、領主が4重天守にこだわったため」と聞いた記憶があるのだが、今回の調査ではその真偽は確認できなかった。それはともかく、天井が低すぎるために部屋としては機能しない階があったりなど、この天井の低さはこの天守を訪れた時に一番強烈に印象に残る点である。この城に関しては、堅固な防御機能は備えているものの、軍事的な拠点としてよりも政庁としての機能を睨んで建造されたのではないかという印象を受けた。

 さてこれで現存12天守の内、四国にある4つは制覇した。さらに姫路城、松江城もすでに訪問している。後は備中松山城(岡山)、彦根城(滋賀)、犬山城(愛知)、丸岡城(福井)、松本城(長野)、弘前城(青森)の6つである。この内の備中松山城と彦根城は近いうちに訪問したいと考えているが、後は距離を考えるとなかなか辛いものがある。特に弘前城となると訪問ができるかどうか・・・。まあこの辺りは将来の課題としておいておくか。

 それにしても暑い。高知城を降りたところで自販機で飲み物を購入しようと思ったのだが、見事にお茶と水類が売り切れである。城内の売店で観光地価格で販売されている飲み物を避けて、皆がここで飲み物を購入したのだろう。大体考えることは誰でも同じである。とにかくここでの水切れは命に関わるので、コンビニを求めて商店街の方向に移動する。本当はここで昼食を摂るつもりだったのだが、暑さにあたられてしまってとてもそんな気になれないので、とりあえずコンビニで伊右衛門だけを購入すると、路面電車で高知駅に帰還、早々と次の目的地に移動することにする。

 次の目的地は土佐山田。そこまでは土讃線の普通列車で30分ほど。土佐山田と言えばアンパンマンミュージアム行きのバスが駅前から出ており、多くの子供連れ観光客で賑わうと言うが、純粋なお子様ではない私はそっちには興味はない。私が目指しているのは、同じく土佐山田駅前からバスが出ている龍河洞である。

 土佐山田駅に到着すると駅前にバスが待っていた。時刻表上ではここでの接続時間は1分しかないことになっているが、実際にはバスは列車の乗客がすべて出てくるまで発車を待っていた。しかし結局乗車したのは私ともう一組だけ。交通の便があまり良くないところだけに、観光客はマイカーか観光バスの方が多いようである。目的地には20分ほどで到着する。

 現地はかなり山深い奥。ただ鍾乳洞前は観光地らしく土産物屋が並んでおり、店員の呼び込みがうるさい。とりあえずバスセンターでトランクを預かってもらうと、そのまま洞窟の入り口を目指す。洞窟入り口まではエスカレーターが設置されているという親切さ。とりあえず入場券を購入すると、ここでカメラのレンズ交換。洞窟のような薄暗いところでは現在使用しているズームレンズでは暗すぎて使い物にならない。そこで私が今回の遠征にあたって新規に導入したのが、CanonのEFレンズ50mmF1.8である。購入の理由は1万円未満と価格が安いこと(笑)。明るいレンズなので、これと内蔵ストロボの組み合わせで何とかならないかとの考え。あくまで今回はテストケースと言える。なおこのレンズのメリットは価格の安さもさることながら、軽量コンパクトであること。巨大なズームレンズをこのレンズに交換すれば、kissデジタルの本来の持ち味であるコンパクトな軽快さが一気に復活するのである。

 装備を調えたところで洞窟内に突入。外は炎天下なのに、洞窟内は寒いぐらいにひんやりしている。腰をかがめながら洞窟に潜るのは探検隊気分である。自然に「行け、行け、川口浩」と歌が出てくる。

 洞窟内は通路は整備されているがとにかく薄暗い。また進み始めてすぐに失敗に気づいた。私はあまり重くないからとリュックをそのまま背負ってきたのだが、確かに重さはたいしたことがないのだが、その大きさが進行の邪魔になる。と言うのも、この洞窟はとにかく狭いところや天井の低いところが多く、身体をひねったり、腰をかがめてはいつくばって進まないといけないことが多々あるのである。じっとりと濡れた鍾乳石に身体をこすりつけながら通り抜けないといけないような箇所も頻繁。たかが観光鍾乳洞と高をくくっていたのが甘かった。予想以上にハードな道のりなのである。しかも道はつねに登り、そのうちにへばってくるし、最初は寒いぐらいに感じていたのが身体がかっかして暑くて仕方なくなってくる。内部では見所に来ると係員が立っていて、口頭で説明をしてくれる。普通はテープでも流しているものだと思うのだが。多分説明員と監視員を兼ねているのだろう。

  

 全体を回るのに40分から1時間と聞いていたのだが、私は急ぎすぎたのか30分弱で出口に到着してしまった。出口に到着した途端にむせ返るような暑さが襲撃してくる。とりあえずは出口の休憩所で一端休憩をとりながら、装備の確認を行う。

 今回の探検で私の洞窟用装備の問題点が多数明らかになった。レンズについてであるが、やはり50mmでは焦点距離が長すぎて、この洞窟のように内部が狭い場合は画角が全く取れず、撮影上の制約が多すぎることが分かった。やはりもう少し広角系のレンズが必要なようである。ただその場合、内蔵ストロボでは射角が十分とは思えないことから、外部ストロボの導入が必要になる可能性が高い。となると予算が・・・。難しいところである。さらに洞窟内ではレンズがすぐに曇ってしまうため、レンズを拭くための用具の持参が不可欠であることも判明した。またあまりに暗すぎる場合には、オートフォーカスではそもそもピント合わせ自体が不可能になり、シャッターがおりなくなるということも今回明らかとなった。この経験をふまえての今後の対策が必要となりそうだ。

 しばらく休養すると、洞窟の入り口の方へと階段を下っていく。こうして下っていくと、驚くほどに上がっていたことがよく分かる。道理であんなにへばったはずである。下まで降りてくると、龍河洞の成り立ちなどを解説している博物館があるので入場。内部はかなり強く冷房を効かせてあるので、ここでほてった身体をクールダウンする(そもそもそのためにここまで冷房を効かせてあるのではないかと思われる)。なおこの博物館の前には、初めてこの洞窟を探検したという川口浩ならぬ山内浩氏の探検服に身を固めた像が飾ってある。

 山内浩氏の像

 麓まで到着すると、まずは疲れた時の宇治金時ドーピング。これでようやく身体が落ち着いたので、かなり遅めの昼食としてざるそばを頂く。これで初めて人心地ついた。この後はバスで土佐山田駅までUターン。そこから特急南風に乗車して帰路についたのであった。ちなみに南風の自由席は満員状態。私は幸いにして座席を確保できたが、かなりの乗車率であった。やはり全国的に鉄道の乗客が増加しているというのは確かなようである。土佐山田以北の土讃線はひたすら山間の渓谷沿い。以前に大歩危までは乗車してその絶景を堪能したが、やはりその大歩危につながる渓谷であることを感じさせるルートである。車窓風景が結構楽しい。やがて車窓の風景が平地に変わると香川県。そして宇多津で前の3両を切り離すと瀬戸大橋を渡り、岡山に到着である。こうしてようやく帰り着くこととなったわけである。

 土佐山田駅になぜかタイガースラッピング列車

 さて何ともバタバタした遠征となったが、いろいろと印象深い点も多かった遠征である。まずは松山。この町には私は非常な相性の良さを感じた。この手の相性の良さを感じたのは松江・広島以来である。多分この町は、近いうちにもう一度訪れることになるだろうと思われる。

 また今回の遠征は結果としては四国の現存天守3つを続けて回る形になり、何も知らない人間なら私のことを城オタクだと思うのではという気がする。まあ元々私は歴史マニアであるので、城郭には興味は持っているのだが、どうもこの春に丸亀城を訪問して以来、そっちの方向に拍車がかかってしまったようで、何やら危ない方向に進みつつあるのを感じる。とは言うものの、やっぱり備中松山城と彦根城ぐらいは行っとかないとな・・・。

 また私は鍾乳洞に潜ったのは今回が初めてであるが、どうも前世がハムスターだったと言われるせいか、洞窟とは相性の良さを感じた。鍾乳洞は人によっては中に入った途端に閉所恐怖症に襲われるとのことだが、やはり私はこれだけはないようだ。むしろ、別の洞窟にも興味が湧いてきた。とにかく秋芳洞ぐらいは今年中に何とかするとして、後は・・・いかん、いよいよ美術館巡りからさらにずれていく・・・。やっぱり人生を誤りかけている。

 

戻る